時は明治の初め、冬のワシントンD.C.。
凍てつく風に肩をすくめながら、一人の日本人がアメリカ特許局の重厚な扉を叩きました。彼の名は高橋是清。後に「ダルマ宰相」と呼ばれ、日本の財政を救うことになる男ですが、この時の彼は、ある「形のない壁」に絶望していました。
当時の日本は、西洋技術の模倣に明け暮れる「コピー大国」。日本人が独自に編み出した優れた技術も、他者に横取りされればそれまで。発明家たちは、自らのアイデアを守る術も、それを誇る権利も持っていなかったのです。
特許局を視察した是清は、目の当たりにしました。アメリカの人々が、発明という「知の冒険」に情熱を注ぎ、それが国家の富へと変わっていくダイナミズムを。
「これだ。日本に足りないのは、この『知恵を資本に変える魔法』なのだ」
その後、度重なる議論と草案の練り上げを経て、1885年4月18日。是清の情熱は「専売特許条例」という形となって結実します。それは、名もなき発明家たちの頭脳を、国家の資産として定義し直した「革命」の瞬間でした。
――それから140余年。
私たちが迎える2026年の4月18日。発明の定義を揺るがす「新たな黒船」が、今度はデジタル空間から現れています。
ゼロから「知財」を実装した男の戦略
条例の起草に心血を注いだ是清が直面したのは、制度という「ハードウェア」が整っても、それを運用する「ソフトウェア」──すなわち運用思想と人材──が決定的に不足している現実でした。彼は初代専売特許所長として審査の基準を整え、のちに特許庁へと連なる組織の礎を築きながら、発明家が「知の冒険」に踏み出せる生態系そのものを設計していきます。
特筆すべきは、是清が特許制度を単なる「産業保護の道具」にしなかった点です。西洋列強に対してはキャッチアップのための「学習装置」として、国内の発明家に対しては「尊厳を与える制度」として、彼は二重の意味を持たせました。明治国家の勃興期において、制度とは法律条文の集積ではなく、「どのような未来を国家として選ぶか」という意思表明そのものだったのです。
DABUS訴訟が揺さぶる「AI発明者」の定義
時を2026年に戻しましょう。140年前の是清が直面した「知の空白」に、私たちもまた別の形で向き合っています。その震源地こそが、いま世界中の特許当局と司法を揺さぶる「DABUS訴訟」です。
AI研究者のスティーブン・セイラー氏が開発したAIシステム「DABUS」は、食品容器と警告灯を自律的に設計しました。同氏はDABUSそのものを発明者として各国で特許出願しましたが、アメリカ、イギリス、ドイツ、オーストラリアなどで認められませんでした。各国判断の中核は、少なくとも現行法上、発明者として記載できるのは自然人であるという点にあります。
ただし、AIを用いた発明がそれだけで一律に特許対象外となるわけではなく、人間が発明の完成に実質的に寄与していれば、特許保護の余地は残ります。
2026年3月、米連邦最高裁はセイラー氏の著作権関連の上告も棄却しました。USPTO(米国特許商標庁)は2025年11月に指針を改訂し、AIを用いた発明にも従来と同じ発明者判断基準を適用する立場を改めて示しました。すなわち、AI支援発明は一律に特許不可ではなく、自然人が発明の完成に重要な寄与をしたかが判断の中心になります。さらに2026年2月には欧州特許庁(EPO)法律審判部、4月にはインド特許庁も同様の判断を示し、国際的な足並みが揃いつつあります。
しかし、現場の技術者であれば違和感を覚えるはずです。創薬の標的分子、半導体の回路設計、材料科学のレシピ──生成AIが提示する「人間では発想しえなかった解」が、すでに産業の最前線で実装されているのが2026年の現実です。「着想の主体は人間」という建前は、いつまで持ちこたえられるのでしょうか。DABUS訴訟は終わりではなく、むしろ「AI発明者」の定義をめぐる本格的な議論の始まりなのです。
「模倣」と「創造」の境界線が消える時
明治の日本は、西洋技術の徹底した「リバース・エンジニアリング」によって近代化を成し遂げました。富岡製糸場も八幡製鉄所も、出発点は他国の設計図の解析です。是清は、この「模倣」を恥じるのではなく、そこから独自性へと昇華させる梯子として特許制度を用いました。模倣の果てに独自の創造が芽吹く、という信念が彼の設計思想の底流にはあります。
2026年の生成AIもまた、人類が積み上げてきた膨大な知識の「再構成」という意味では、巨大なリバース・エンジニアリング装置に他なりません。インターネット上の論文、特許明細書、技術ブログ──先人の知を学習データとして吸収し、新しい組み合わせを出力します。
ここで問われるのは、「模倣」と「創造」の区別がもはや連続的なスペクトラムになってしまった、という現実です。人間の天才的発明家もまた、それまでの知識を血肉化したうえで新結合を生んでいました。AIとの違いは、程度の問題なのでしょうか、それとも質的な断絶があるのでしょうか。この問いに軽々に答えを出すことはできませんが、少なくとも「人間の創造=尊い/機械の生成=模倣」という単純な二分法では、もう現実を捉えきれなくなっています。
高橋是清なら、今のAI時代をどう設計するか
ここで一つの思考実験をしてみましょう。もし是清が2026年の今、特許庁長官として蘇ったとしたら、彼はどのような制度を設計するでしょうか。
是清の思想の核心は、「独占による保護」と「公開による普及」のバランス感覚にありました。特許は発明を秘匿するものではなく、「公開と引き換えに一定期間の独占を認める」仕組みです。これは、オープンイノベーションという現代的概念の先駆とも言えるでしょう。
AI時代において、私が是清の声を借りるならこう言うはずです。「発明者の定義論争に時間を浪費するな。利益配分と社会実装の加速を設計せよ」と。AIを開発した企業、学習データを提供した研究者、プロンプトを工夫した技術者──発明の「共作者」たちの貢献を分解して可視化し、価値を配分する新しいレイヤーが必要です。日本で2025年に成立した「AI新法(人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律)」も、その方向性を模索する第一歩と位置づけられるでしょう。
独占か共有かという二項対立ではなく、「開かれた独占(Open but Protected)」という第三の道。これは、若き日の是清が特許制度に見出した「知恵を資本に変える魔法」を、AI時代に再実装する試みに他なりません。
結び──140年後に受け継がれる「発明」の本質
技術は変わります。紡績機械から生成AIへ、電信から量子通信へ。しかし、一つだけ変わらないものがあります。
それは、「まだ存在しないものを、存在させようとする意志」──つまり未来を構想する力です。
かつてワシントンD.C.で、凍てつく風の中に立っていた高橋是清が見たものは、特許制度という「仕組み」ではなく、その向こう側にある人間の情熱そのものでした。彼が日本に実装したのは法律条文ではなく、日本人が「未来を構想する権利」を持てる社会そのものだったのです。
2026年。私たちは再び「発明とは何か」を問い直す時代の入り口に立っています。「AIは発明者になれるのか」という問いは、実のところ表層にすぎません。真に問われているのは、「強力な道具を手にした私たち人間は、どんな未来を構想する意志を持つのか」という一点です。
141回目の発明の日に、私が願うのは、是清の情熱を受け継ぐレジリエンス──そして、新しい技術に押し流されるのではなく、それを「自らの意志で使いこなす」次世代の発明家の登場です。
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【用語解説】
専売特許条例
1885年(明治18年)4月18日に公布された、日本初の体系的な特許制度である。発明者に一定期間の独占権を認めることで、発明の奨励と産業の振興を図る仕組みを導入した。高橋是清は初代の専売特許所長として制度設計と運用の双方を主導し、この日は現在「発明の日」として定められている。
AI発明者問題(DABUS訴訟)
米国のAI研究者スティーブン・セイラーが開発したAIシステム「DABUS」を発明者とする特許出願をめぐり、世界各国で争われてきた一連の訴訟を指す。米国・英国・ドイツ・オーストラリアなどの主要国では、少なくとも現行法上、発明者として認められるのは自然人だと解されている。もっとも、AIを補助的に用いた発明まで一律に特許対象外となるわけではなく、人間の寄与の程度が実務上の焦点となっている。2026年3月には米連邦最高裁が関連する著作権案件の上告を棄却しており、少なくとも現行法下における論争は一つの区切りを迎えた。
【参考リンク】
特許庁『工業所有権制度の歴史』(外部)
明治期の特許制度成立から現代までを俯瞰する公式資料である。
WIPO『Frontier Technologies』(外部)
世界知的所有権機関によるAIと知財の国際議論のハブページである。
USPTO『Artificial Intelligence Initiatives』(外部)
2025年11月更新の発明者指針を含む最新動向を公開している。
【関連記事】
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【編集部後記】
普段は最新テクノロジーのワクワク感をお届けしていますが、たまには140年前まで時計の針を戻してみるのも悪くないものですね。かつてワシントンで凍えていた青年と、2026年に生成AIと向き合う私たち──時代は違えど、悩みの質はそれほど遠くないと感じます。
「発明の日」というキーワードが、読者のみなさまにとって、自分と未来技術との関係性を静かに見つめ直す、小さなきっかけになれば幸いです。











