スマホもWi-Fiも、コイルがなければ電波を生み出せない―そんな電子工学の常識が、いま日本の基礎研究によって書き換えられようとしています。理化学研究所が「分子1粒の動き」で発振回路を動かしてしまった、その意味を読み解きます。
2026年5月8日、理化学研究所・名古屋大学・東北大学の共同研究グループは、分子性物質に基づくメモリスタにおいてコイルを用いずに発振する電子回路を実現したと発表しました。研究は理研開拓研究所の大島勇吾 専任研究員、名古屋大学大学院工学研究科の竹延大志 教授、東北大学大学院理学研究科の高石慎也 准教授らによるものです。
1次元鎖構造を持つ分子性モット絶縁体[Ni(chxn)2Br]Br2を対象に、電気輸送測定とインピーダンス分光を実施し、1万〜10万ヘンリーに達するインダクタンスを観測しました。この値は一般的なコイルの約10万倍に相当します。この巨大インダクタンスと負性抵抗の組み合わせにより、コンデンサーと接続した回路で自励発振が生じることを実証しました。成果は『Scientific Reports』オンライン版に掲載されています。
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コイルなしで発振する電子回路を実現 | 理化学研究所

【編集部解説】
「コイルなしで電気が振動する」と聞いて、多くの方は不思議に思うかもしれません。私たちが普段スマートフォンやWi-Fiルーターを使えるのは、内部の発振回路が正確なリズムで信号を作り続けてくれているからです。そしてその発振には、長らくコイル(インダクター)が欠かせない部品とされてきました。今回の研究は、その「常識」を物質の力で書き換える可能性を示したものとして注目されています。
そもそもインダクターとは、電流の変化を妨げようとする働きを持つ素子で、その性能はインダクタンス(単位:ヘンリー)で表されます。一般的な電子回路で使われるコイルのインダクタンスはマイクロヘンリーからミリヘンリー程度です。今回観測された1万〜10万ヘンリーという値は、ミリメートルサイズの試料で観測されたものとしては桁外れであり、通常のコイルの約10万倍に相当するという点が研究グループの主張の核となっています。
ポイントは、この巨大な値が「コイルを巻いた構造」から生まれているのではなく、物質の中で電子が動くダイナミクスそのものから現れているところです。電流の履歴を記憶する「メモリスタ」という素子の特異な振る舞いと、電圧を上げると電流が減るという「負性抵抗」が組み合わさることで、コンデンサーをつなぐだけで回路が勝手に振動する自励発振が成立した、というのが研究の骨子になります。
実は、メモリスタのヒステリシス応答からインダクタンス的な振る舞いが生じうることは、海外の研究グループからも理論・実験の両面で報告が出ていた領域です。今回の成果が一線を画すのは、分子性モット絶縁体という「電子同士の強い相互作用で絶縁体になっている物質」を舞台に、桁違いの値を定量的に実証し、さらに発振回路として機能させてみせた点だと私は捉えています。
ではこれが実現すると何が変わるのでしょうか。最大のインパクトは、回路の小型化と集積化の自由度です。コイルは半導体チップに組み込みにくい代表的な部品で、これがチップ内の物質に置き換わるなら、低周波回路の設計思想そのものが変わる可能性があります。さらに、1つの素子がインダクターと負性抵抗の役割を兼ねるため、必要な部品点数を減らせるという利点も見逃せません。
そして見逃せないのが、ニューロモルフィックデバイスへの展望です。脳は、ニューロンが発する「スパイク」と呼ばれる電気パルスで情報を処理しています。今回の発振機能は、まさにそのスパイク信号を生み出す回路として応用できる可能性があります。AIの計算負荷が爆発的に増え続けるなか、低消費電力で脳のように並列処理できるニューロモルフィック回路は、フォン・ノイマン型コンピューターの限界を打ち破る切り札として世界中で研究されており、その文脈でも意義のある成果といえます。
一方で、冷静に見ておきたいポイントもあります。今回の発見は基礎科学のステージにあり、実用化までには動作温度・動作周波数・再現性・大量生産性といった工学的なハードルが残されています。分子性物質は一般に環境変化に敏感で、シリコン半導体のような安定性をどう確保するかは今後の研究テーマでしょう。論文タイトルにある「Colossal(巨大な)」という表現が、すぐにあらゆるコイルを置き換える話に直結するわけではない、という温度感は持っておきたいところです。
長期的な視点で言えば、この研究は「電子回路の機能を、構造ではなく物質の性質で実現する」という方向性を一段引き上げました。半導体・ディスプレイ・電池に続き、「機能性物質」が産業の競争軸として急浮上しているいま、日本の基礎研究がこの領域でリードを示した意味は小さくありません。規制や標準化の議論はまだ先の話ですが、新しい素子カテゴリーが生まれれば、IEC・IEEEといった国際標準化の場での議論も今後動き出すはずです。未来の電子回路が、コイルの巻き数ではなく、分子の選び方で性能を競う日が来るのかもしれません。
【用語解説】
メモリスタ
電流の履歴に応じて電気抵抗が変化する電子素子。電圧や電流を加えた過去の状態を「記憶」するように振る舞うため、memory(記憶)とresistor(抵抗)を合わせて命名された。1971年にレオン・チュア氏が理論的に予言し、2008年にHewlett-Packardの研究グループが実物の作製を報告したことで広く知られるようになった。
インダクター(コイル)とインダクタンス
インダクターは電流の時間変化に比例した電圧を生む回路素子であり、その比例係数がインダクタンスである。単位はヘンリー(H)。1ヘンリーは「1秒間に1アンペアの割合で電流が変化するときに1ボルトの電圧を生じる」状態を指す。一般的な電子回路で使われるコイルのインダクタンスはマイクロヘンリーからミリヘンリー程度である。
モット絶縁体
通常の電子論では金属になるはずなのに、電子同士のクーロン斥力により電子の移動が抑え込まれて絶縁体となる物質。1949年に英国の物理学者ネヴィル・モット氏が提唱した。強相関電子系の代表例であり、外部刺激に応じて絶縁体↔金属の転移を起こす性質から、次世代エレクトロニクスの素材として研究が進んでいる。
ピンチドヒステリシスループ
メモリスタに交流電流を流したときに、電流-電圧特性のグラフ上に現れる「原点で交差する蝶ネクタイ状のループ」のこと。メモリスタであることを判別する代表的な指標とされる。
負性抵抗
電圧を上げると電流が減少するという、通常の抵抗とは逆の挙動を示す現象。発振や増幅といった電子回路の動作原理として古くから利用されてきた性質である。
ニューロモルフィックデバイス
脳の神経回路の動作原理を模倣して設計された電子デバイス。神経細胞のスパイク(発火)信号による情報処理を電子回路で再現することで、従来のフォン・ノイマン型コンピューターに比べて低消費電力かつ並列的な情報処理の実現を目指している。
インピーダンス分光
試料に交流電圧をかけて、周波数ごとの電気的な応答を測定する手法。抵抗・電気容量・インダクタンスといった回路特性を分離して評価できるため、材料科学・電気化学の幅広い分野で使われている。
フォン・ノイマン型コンピューター
プログラムとデータを同じメモリに格納し、CPUが順次読み出して処理する古典的なコンピューターアーキテクチャ。AI処理ではメモリとCPU間のデータ転送がボトルネックとなり、消費電力の増大が課題視されている。20世紀半ばに数学者ジョン・フォン・ノイマン氏が体系化したことに由来する。
【参考リンク】
理化学研究所(RIKEN) 公式サイト(外部)
日本を代表する自然科学系の総合研究機関。物理学、化学、工学、生物学、医科学など幅広い分野の基礎・応用研究を進めている。
名古屋大学 大学院工学研究科 公式サイト(外部)
本研究の竹延大志教授が所属する研究科。物質科学、機械工学、電気工学など幅広い工学分野の研究教育を行っている。
東北大学 大学院理学研究科 公式サイト(外部)
本研究の高石慎也准教授が所属する研究科。化学、物理学、地球科学、生物学などの基礎科学の研究と教育を担う。
Scientific Reports(Nature Portfolio) 公式サイト(外部)
本研究の論文が掲載されたオープンアクセスの査読付き科学雑誌。自然科学・臨床科学・工学の幅広い分野を扱うNature関連誌である。
本研究の原論文(Scientific Reports掲載ページ)(外部)
Oshima氏らによる原論文「Colossal emergent inductance in a molecular memristor」のDOIリンク。
日本学術振興会(JSPS) 公式サイト(外部)
科学研究費助成事業(科研費)などを通じて本研究を支援した独立行政法人。日本の学術研究を多角的に支援している。
科学技術振興機構(JST) 公式サイト(外部)
戦略的創造研究推進事業CRESTを通じて本研究を支援した国立研究開発法人。日本のイノベーション創出を担う中核機関である。
【参考記事】
Colossal emergent inductance in a molecular memristor(Scientific Reports原論文)(外部)
分子性モット絶縁体[Ni(chxn)2Br]Br2で1万〜10万ヘンリーの巨大インダクタンスと自励発振を実証した本研究の原論文である。
A Memristive Oscillator(Advanced Physics Research, 2024年)(外部)
大島氏らによる先行研究。ニッケルジチオレン錯体でコイル不要の自励発振を初めて報告した、今回成果の系譜にあたる論文である。
Hysteresis in memristors produces conduction inductance and conduction capacitance effects(PCCP, 2024年)(外部)
メモリスタのヒステリシス応答からインダクタンスや負性容量が発現する仕組みを理論・実験両面で解析した先行研究である。
A review of Mott insulator in memristors(Nano Research, 2023年)(外部)
モット絶縁体メモリスタの研究動向を整理したレビュー論文で、ニューロモルフィックコンピューティングへの応用展望を論じている。
Mott materials: unsuccessful metals with a bright future(npj Spintronics, 2024年)(外部)
モット絶縁体材料の物性と応用展望をまとめたレビュー。超高速トランジスタや人工ニューロンへの可能性を論じている。
Mott Memristors based on Field-Induced Carrier Avalanche Multiplication(PRB, 2023年)(外部)
モット絶縁体メモリスタの理論モデルを提示し、コンデンサー並列接続回路で持続的スパイク発振が生じることを示した論文である。
Memristor—The Missing Circuit Element(IEEE Trans. Circuit Theory, 1971年)(外部)
レオン・チュア氏がメモリスタの存在を理論的に予言した歴史的論文。第4の基本受動素子という概念を初めて提示している。
The missing memristor found(Nature, 2008年)(外部)
Hewlett-Packard研究所のチームが二酸化チタン薄膜デバイスでメモリスタを実物として実証した、研究分野の本格的幕開けとなった論文である。
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【編集部後記】
今回ご紹介した研究、いかがでしたでしょうか。「コイルなしで電気が振動する」という現象は、私たちが日常で触れているスマートフォンやイヤホンの中身が、まったく違う設計思想で作られる未来を予感させます。
みなさんの机の上にある電子機器は、10年後どんな姿をしているでしょうか。物質そのものが回路の役割を担う時代を、一緒に想像してみませんか。基礎研究のニュースは難しそうに見えても、未来の入り口は意外と近くにあります。気になる発表があれば、ぜひSNSで教えてください。












