国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)サイバーセキュリティ研究所は2026年3月23日、宇宙通信向け暗号回路について、設計と検証を統合する新たな理論基盤を確立したと発表した。
本理論基盤の適用により、放射線耐性を備え、国際標準比で回路規模を約70%に抑えた暗号回路において、全入力2の256乗通りに対する正しい動作を世界で初めて数学的に保証した。形式検証は一般的な計算機(単一CPUコア)で約17時間で完了した。
本成果はNASAが主催する国際会議「NASA Formal Methods 2025(NFM2025)」においてHonorable Mention(優秀賞)を受賞している。
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宇宙放射線に耐える暗号回路の網羅的な動作保証を実現|2026年|NICT-情報通信研究機構
【編集部解説】
今回の発表を一言で表すなら、「宇宙で動く暗号装置の正しさを、数学で100%証明することに世界で初めて成功した」となります。しかし、この一文だけでは、その技術的な難しさと意義がなかなか伝わりません。少し丁寧にほぐしてみましょう。
暗号回路の「動作保証」とはつまり、「この装置は、どんな入力値を与えても必ず正しく動く」ということを証明する作業です。ところが今回の回路が扱う入力のパターン数は、2の256乗通りという、きわめて膨大な入力組み合わせです。通常のテスト手法では、全パターンを網羅することは原理的に不可能に近く、これまでは「ほぼ正しいだろう」という前提のもとで運用せざるを得ない状況でした。
NICTが確立した「形式検証(Formal Verification)」とは、この全パターンを一つひとつ試すのではなく、数学的な論理によって「どんな入力でも正しく動く」という性質そのものを証明する手法です。これは、「全部試した」ではなく「証明した」という、質的にまったく異なるアプローチといえます。
加えて、宇宙特有の課題として「放射線耐性」があります。宇宙空間では高エネルギーの放射線が常に降り注いでおり、回路内のビット情報が意図せず書き換わる「ビット反転」が発生します。これを防ぐための冗長設計を施すと回路は複雑化し、検証はいっそう難しくなります。今回の研究は、この相反する要求——放射線への頑丈さと、小型・省電力化、そして完全な動作保証——を同時に達成した点に、特別な意義があります。
この成果が重要な背景として、民間主導の宇宙開発「NewSpace」の急速な拡大があります。宇宙サイバーセキュリティ市場は2024年時点で40億〜50億ドル規模に達しており、2030年代前半にかけて年率9〜12%の成長が複数の調査機関によって予測されています。衛星の乗っ取りや通信妨害といったサイバー攻撃は現実の脅威であり、2022年にはViasatのKA-SATネットワークに対するサイバー攻撃がウクライナ侵攻と同日の2月24日に実行されるという事例も起きています。
日本においても、2018年に全面施行された「人工衛星等の打上げ及び人工衛星の管理に関する法律」に基づき策定された管理ガイドラインが、宇宙機の重要な通信について暗号化などのセキュリティ対策の実施を求めています。今回のNICTの成果は、こうした法的要件に関連する技術基盤としての意義を持つと考えられます。
長期的な視点で見ると、この理論基盤の応用範囲は宇宙分野にとどまりません。「バグが一つでも人命や社会基盤に直結する」システム——航空、医療機器、電力インフラ、自動運転——においても、同様の形式検証アプローチへの需要は高まっています。数学的に保証された信頼性を武器に、日本発の安全保証技術が国際的な標準形成に関与できるかどうか、今後の展開が注目されます。
一方で、課題も残ります。今回の検証は「単一CPUコアで約17時間」という条件下でのものですが、回路規模がさらに拡大した場合や、より複雑な構成への適用には、検証コストの増大が懸念されます。また、形式検証はあくまで「設計の正しさ」を保証するものであり、製造上の欠陥や物理的な攻撃(サイドチャネル攻撃など)への対策は別途必要です。数学的証明は万能薬ではなく、セキュリティの一つの柱として位置付けるべきという点は、押さえておきたいところです。
【用語解説】
形式検証(Formal Verification)
ハードウェアやソフトウェアが正しく動作するかを、テストではなく数学的な論理によって厳密に証明する技術。通常のテストでは全パターンの網羅が現実的に不可能なため、「証明」によって動作の正しさを保証する点が根本的に異なる。
ビット反転
宇宙放射線(高エネルギー粒子)が半導体回路に衝突した際に、メモリや回路内のビット情報(0または1)が意図せず書き換わる現象。誤作動やデータ破損の原因となるため、宇宙機の設計では放射線耐性(ラジエーション・ハードニング)対策が不可欠となる。
サイドチャネル攻撃
暗号回路の計算処理中に漏れ出す消費電力・電磁波・処理時間などの物理的な情報を観測・分析することで、秘密鍵などを推測する攻撃手法。設計の論理的な正しさとは独立した脅威であり、形式検証では防ぎきれない領域となる。
【参考リンク】
国立研究開発法人 情報通信研究機構(NICT)(外部)
総務省所管の国立研究開発法人。サイバーセキュリティ・量子通信・宇宙通信など幅広い研究開発を行う日本最大規模の情報通信研究機関。
NASA(アメリカ航空宇宙局)(外部)
アメリカの宇宙開発・航空研究を担う政府機関。NFMシンポジウムを主催し、クリティカルシステムの信頼性保証に関する国際的な研究交流の場を提供している。
NASA Formal Methods Symposium(公式ページ)(外部)
NASAが主催する形式手法分野の年次国際会議の公式サイト。宇宙・航空・ロボット工学などの安全保証を主テーマに政府・学術・産業界の研究者が参加する。
論文掲載ページ(Springer/NFM2025)(外部)
今回の成果が掲載されたNFM2025の論文ページ。複合体有限体乗算器の形式検証に関する研究内容が収録されている。
【参考記事】
Space Cybersecurity Market Size, Share | Growth [2026-2034](外部)
宇宙サイバーセキュリティ市場を分析したレポート。2025年時点で56億5000万ドル、2034年には128億9000万ドルへの拡大を予測。北米が34.97%で首位。
Space Cybersecurity Market Size, Share, Growth Drivers & Analysis Report (2032)(外部)
2024年時点の市場規模を44億3000万ドルとし、2032年には97億6000万ドル、年平均成長率10.4%での成長を予測。量子耐性暗号へのシフトを今後の方向性として論じている。
Space Cybersecurity Market Size & Growth Trends Report 2032(外部)
放射線耐性対策が衛星コストを押し上げる構造を論じたレポート。日本の安全衛星運用向け予算や2022年2月24日のViasat攻撃にも言及。
Space Cybersecurity Market Size, Share, Growth Analysis 2032(外部)
2024年市場規模45億2000万ドル、2029年に69億6000万ドルへ成長と予測。VIasat KA-SAT攻撃などの事例を挙げ、標準化の困難さを論じている。
Formal Verification of Composite Field Multipliers(Springer)(外部)
今回の研究論文のアブストラクトページ。有限体同型と論理等価性検証を用いた形式検証手法の内容が確認できる。
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【編集部後記】
宇宙がインフラになる時代、その安全を支えるのは「証明された信頼性」なのかもしれません。衛星通信、地球観測、災害監視——私たちの日常に静かに溶け込みつつある宇宙サービスが、今回のような技術によって守られていく。
そう思うと、少し遠く感じていた宇宙開発が、ぐっと身近になりませんか。「数学で安全を証明する」という発想、みなさんはどう感じましたか。







































