自然科学研究機構生理学研究所の曽我部隆彰准教授らの研究チームは、危険な接触刺激や温度刺激を感知するセンサーの感受性を調節する脂質「エーテルリン脂質(ePL)」を発見した。
ショウジョウバエを用いた実験により、ePLが接触センサーPIEZOチャネルと温度センサーTRPA1チャネルの機能維持に必要であることが明らかになった。ePLを持たないハエ幼虫では、針による接触や高温からの逃避行動が低下した。ePLは哺乳類の脳の全膜脂質の20%を占め、人においても老化とともに減少することが分かっている。本研究結果は2026年3月18日、iScience誌にオンライン掲載された。
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痛みと暑さを避けるために重要な脂質を発見 ~エーテルリン脂質は、痛覚と温度覚のセンサー分子機能を保つ~ – 生理学研究所
【編集部解説】
今回の研究を理解するための出発点として、まず「痛みや温度はどうやって感じるのか」という問いから始めましょう。私たちが指先で熱いものに触れた瞬間に手を引っ込めるのは、皮膚の神経細胞の表面にある「センサータンパク質」が刺激を検知し、脳へ電気信号を送るからです。このセンサーの代表格が、接触・圧力を感知するPIEZOチャネルと、熱や化学物質を感知するTRPチャネルです。
2021年のノーベル生理学・医学賞は、TRPファミリーの一員であるTRPV1を発見したデービッド・ジュリアス氏と、PIEZOチャネルを発見したアーデム・パタプティアン氏に授与されており、これらのセンサー分子がいかに生命科学の根幹に関わるかを物語っています。なお今回の研究で扱われているTRPA1は、TRPV1と同じTRPファミリーに属する温度・化学刺激センサーです。
今回明らかになったのは、そのセンサー分子が「正常に機能し続けるための土台」です。どれほど精巧なセンサーであっても、それを包む細胞膜の状態が損なわれれば、正確に機能しません。エーテルリン脂質(ePL)はまさにその「土台の品質」を保つ役割を担っていることが、今回初めて行動レベルで示されました。これは「センサーそのものの発見」に続く、いわば「センサーのメンテナンス機構の発見」と言える一歩です。
研究モデルとしてショウジョウバエが使われた点も重要です。ショウジョウバエは哺乳類と多くの遺伝子・分子機能を共有しており、遺伝子操作のしやすさから感覚生理学の研究に広く活用されています。ePLや合成酵素AGPSは人にも存在するため、ハエでの発見がそのまま人間の生理機能の解明に直結する可能性を持っています。
このニュースが特に注目される理由は、老化との接続です。ePLは加齢とともに体内で徐々に減少することが分かっており、アルツハイマー病やパーキンソン病などの神経変性疾患においても同様の減少が確認されています。「痛みを感じにくくなった」「熱さに気づくのが遅れた」といった高齢者に多い感覚機能の低下が、ePLの減少と関係している可能性があります。この研究はその因果関係を解明する重要な糸口になりえます。
創薬・医療技術の観点では、ePLやAGPSを標的にした新しいアプローチの可能性が開けます。慢性疼痛の治療は現在もオピオイド系鎮痛薬への依存という大きな課題を抱えており、非オピオイド系の新しい鎮痛標的の探索は世界的な急務です。ePLの制御によってセンサーの感度を調整するという発想は、これまでとはまったく異なる切り口の創薬につながる可能性を秘めています。
一方で、現時点での課題も整理しておく必要があります。今回の主要な実験はショウジョウバエの幼虫を対象としており、哺乳類・ヒトへの応用には追加の検証が必要です。また、ePLの減少が「感覚低下の原因」なのか、「病態の結果として起こる変化」なのかという因果関係の方向性は、まだ完全には解明されていません。センサー感度を操作することは、痛みを和らげる一方で、必要な危険信号を見逃すリスクとのバランスも慎重に考慮されなければなりません。
「脂質」という分子カテゴリーは、かつては細胞膜の「受動的な構成材料」として扱われてきた歴史があります。しかし近年、脂質が積極的に細胞機能を制御する「情報分子」としての側面が次々と明らかになっています。今回の発見はその流れを加速させ、脂質科学が創薬・老化研究・神経科学と深くリンクする新時代の象徴とも言える研究です。
【用語解説】
エーテルリン脂質(ePL)
細胞膜を構成する脂質の一種。哺乳類の脳では全膜脂質の20%を占める。1960年代に発見されたが長らく機能が不明だった。近年、老化やアルツハイマー病、パーキンソン病などの神経変性疾患に伴って減少することが分かり、注目を集めている。
AGPS(アルキルグリセロンリン酸合成酵素)
ePLに特徴的なエーテル結合を形成するために不可欠な酵素。哺乳類でこの酵素が欠損すると重篤な発生異常が生じる。感覚神経や脳に高発現することが今回の研究で確認された。
PIEZOチャネル
細胞膜に存在するイオンチャネル型受容体で、機械的な接触・圧力刺激を感知する。PIEZO1とPIEZO2の2種が知られており、皮膚の触覚や血圧調節、呼吸機能にも関与する。アーデム・パタプティアン氏による発見が2021年ノーベル生理学・医学賞の対象となった。
TRPチャネル・TRPA1
一過性受容体電位(Transient Receptor Potential)チャネルの総称。温度・化学物質・機械刺激など多様な刺激を感知するイオンチャネルファミリー。TRPA1はその一員で、高温刺激や化学的侵害刺激を感知する。同じTRPファミリーに属するTRPV1(カプサイシン受容体)の発見はデービッド・ジュリアス氏の2021年ノーベル賞受賞対象となった。
イオンチャネル
細胞膜に埋め込まれたタンパク質で、特定のイオン(カルシウムイオン・ナトリウムイオンなど)が細胞内外を行き来するための「通路」として機能する。刺激に応じて開閉し、細胞の電気信号発生を制御する。感覚受容において中心的な役割を担う。
【参考リンク】
Ether phospholipids modulate somatosensory responses(iScience論文)(外部)
曽我部准教授らによる今回の研究論文。ショウジョウバエを用いたePLと感覚受容の関係を詳細に報告している。
The Nobel Prize in Physiology or Medicine 2021 – Press Release(NobelPrize.org)(外部)
デービッド・ジュリアス氏とアーデム・パタプティアン氏への2021年ノーベル生理学・医学賞受賞に関する公式プレスリリース。
温度生物学研究グループ 研究内容(生命創成探究センター)(外部)
曽我部准教授が所属する研究グループの研究方針。脂質と感覚受容の関係を探る背景が詳述されている。
【参考記事】
香辛料・高温、刺激感じる仕組みは同じ(日本経済新聞)(外部)
2021年ノーベル生理学・医学賞の受賞経緯と、TRPV1発見に関わった富永真琴教授のコメントを含む詳細解説記事。
The Nobel Prize in Physiology or Medicine 2021 – Advanced Information(NobelPrize.org)(外部)
2021年ノーベル生理学・医学賞の科学的背景を詳述した公式資料。TRPV1・TRPM8・PIEZOの発見経緯を網羅する。
曽我部隆彰 研究者プロフィール(researchmap)(外部)
本研究の責任著者・曽我部隆彰准教授の研究歴・業績一覧。脂質と温度受容研究の軌跡を確認できる。
【編集部後記】
「痛みを感じる」ことが、実は脂質によって支えられていた——そんな発見、皆さんはどう受け止めましたか。加齢とともに「熱さや痛みに気づくのが遅くなった」と感じている方が身近にいる方もいるかもしれません。
感覚の衰えを「年のせい」と片付けてきたことが、分子レベルで覆される日が来るかもしれない。そう思うと、基礎科学の積み重ねが少し違って見えてきませんか。







































