スターバックスは2026年5月、北米店舗で導入していたAIによる在庫管理システムを撤回した。Reutersが2026年5月21日付で報じたところによると、Reutersが入手した社内コミュニケーションでは、オーツミルクと乳製品の取り違えを含む不正確な計測が数か月にわたり報告されていた。
2026年5月18日付の社内ニュースレターは、自動カウント(Automated Counting)の廃止と、ドリンク構成材料および牛乳の手動カウント方式への回帰を告知した。同システムはカメラとLiDARセンサーを搭載したタブレットで棚をスキャンし、シロップや牛乳などを自動集計する仕組みで、2025年9月から北米で展開されていた。CEOのブライアン・ニコル氏は2024年後半に就任し、ターンアラウンド戦略「Back to Starbucks」のもとで本ツールの北米展開を拡大していた。
Reutersは2026年初頭、同システムが商品を誤カウント・誤ラベル付けしていたと報じている。北米の営業利益率は2年前の18%から9.9%に低下し、2026年に入ってからの株価は24%上昇している。AIシステムを提供したのはNomadGoである。
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Starbucks AI Inventory Tool Gets Booted After Struggling To Tell Oat Milk From Dairy
【編集部解説】
今回の出来事は、世界最大級のリテールチェーンがAIシステムをわずか9か月で撤回したという事象であり、同じ意思決定を控える日本企業にとっての貴重な教訓を含んでいます。
問題のシステムを開発したのは、ワシントン州レドモンドを拠点とする2017年創業のスタートアップNomadGoです。共同創業者のデイヴィッド・グレシュラー氏はMicrosoftの元ディレクターという経歴を持ち、同社のコア技術「Spatial Vision」は、スマートフォンやタブレットのカメラとLiDAR(光を用いて対象との距離を測るセンサー)を組み合わせ、棚の3D空間情報をAIに解釈させる仕組みになっています。導入時、同社は「30秒で棚全体をスキャン」「手動の80〜85%精度に対し99%精度」を謳い、北米11,000店舗以上に2025年9月から展開されました。
ところが本番環境では、見た目が似た商品ペア——とりわけオーツミルクと乳製品の取り違えが報告されました。コンピュータビジョン(画像認識AI)にとって、色や形状が酷似した商品の細かな識別は、いまなお難所のひとつとされています。検証環境や試験店舗で99%を出せても、1万を超える店舗の照明条件、棚の乱雑さ、パッケージリニューアル、スタッフのスキャン動作のばらつきといったノイズに耐えるのは、まったく別の難易度です。
とくに示唆的なのは、ローンチ時に公開された公式プロモーション動画ですでにシステムがペパーミント・シロップを認識できていなかった、という事実です。「99%」というベンチマーク数値と、現場での運用品質のあいだに横たわるギャップは、多くのAI導入プロジェクトに共通する構造的課題と言えます。デモは華麗でも、その「残り1%」が日々のスキャンで積み上がれば、修正コストが手動カウントを上回ってしまう——これがエンタープライズAIに繰り返し現れる落とし穴ではないでしょうか。
CEOのブライアン・ニコル氏は2024年9月に就任し、「Back to Starbucks」と呼ばれる再生戦略のもとで本ツールの北米全域への展開を加速させました。北米営業利益率は、ニコル氏就任以前にあたる2年前の水準18%から、現在は9.9%まで低下しています。在庫切れの解消は、売上回復のうえで重要な経営課題のひとつです。Reutersが2026年初頭に問題を初めて報じた段階では、スターバックスは「導入により店舗の商品在庫可用性は改善している」と説明していました。それからわずか数か月で全面撤回へと舵を切った背景には、現場からのフィードバック蓄積と、標準化された運用のほうがコスト効率と一貫性で勝るという経営判断があったと推察されます。
ここで重要なのは、これは「AIの失敗」というより「AI導入における前提条件の再考」を促す出来事だ、という捉え方です。SKU(在庫管理単位)が頻繁に入れ替わり、棚レイアウトも一定でなく、現場の作業環境が常に揺らぐリテールにおいて、99%の精度ですら経済合理性を担保する水準とは限りません。逆に言えば、自動化の損益分岐点は「精度」だけでなく「現場ノイズの設計」によって決まる、という見方もできます。
一方で、NomadGo は撤退ではなく前進を選んでいます。2025年11月にはロボット「Dex」との連携を発表し、自律型在庫管理という次の領域に踏み込みました。コンピュータビジョン×AR(拡張現実)×ロボティクスの組み合わせは、小売DXにおける有力な方向性のひとつであり続けるでしょう。スターバックス側もAIへの投資を止めるわけではなく、注文の順序最適化やバリスタ支援用の生成AI「Green Dot Assist」など、他のAI施策は継続中です。今回の撤回は領域全体の頓挫ではなく、ピンポイントの方針転換と理解するのが正確です。
日本の読者にとって、この事案は決して遠い話ではありません。コンビニエンスストア、ドラッグストア、外食チェーンといった日本のリテール環境は、SKU数の多さや棚レイアウトの精緻さで知られており、AIによる在庫管理は、いままさに各社が検討している領域でもあります。「PoC(概念実証)では動いた」「ベンダーが99%と言った」を鵜呑みにせず、実際の現場ノイズの中で耐えうるか——その評価プロセスをどう設計するかが、今後の導入成否を分ける鍵となるでしょう。
規制面から付言すれば、在庫管理AIは、用途や影響範囲によってはEU AI Act上の高リスクAIに該当しない可能性があります。ただし、具体的な分類は運用文脈に応じた個別評価が必要です。誤検知が販売機会損失や食品ロスにつながるケースでは、企業ガバナンスの観点から説明責任が問われる場面も増えていくと考えられます。AIの導入そのものが目的化していないか、撤退判断を含む可逆性を設計に織り込んでいるか。スターバックスは結果として「立ち止まる勇気」を示したわけですが、これはむしろ健全な意思決定として記憶されるべきでしょう。
【用語解説】
LiDAR(ライダー)
Light Detection and Ranging の略。レーザー光を対象物に照射し、その反射光が戻ってくるまでの時間から距離を測定するセンサー技術である。自動運転車や3Dスキャン、近年はスマートフォン・タブレットにも搭載され、空間の立体的な把握を可能にする。
Spatial Vision(スペーシャル・ビジョン)
NomadGoが開発した独自技術。コンピュータビジョン、3D空間情報処理、拡張現実(AR)を組み合わせ、棚やラックなどの物理空間を3Dで認識して在庫数を自動算出する。クラウドではなく端末上で動作する点が特徴である。
AR(拡張現実 / Augmented Reality)
現実空間にデジタル情報を重ねて表示する技術である。本ニュースでは、タブレット画面上に在庫データをリアルタイム重畳することで、現場スタッフがその場で結果を検証できる仕組みとして用いられた。
SKU(Stock Keeping Unit)
在庫管理上の最小識別単位である。同じ商品でも容量・フレーバー・パッケージが異なれば別SKUとして扱われる。スターバックスのように複数種のミルクやシロップを扱う業態では、SKU数の多さが在庫管理を複雑にする要因となる。
PoC(Proof of Concept / 概念実証)
新技術や新規システムの導入前に、その有効性や実現可能性を小規模に検証する工程である。PoCで成果が出ても、本番環境のスケールやノイズに耐えられず実装段階で頓挫するケースは多く、本件もその典型例といえる。
Back to Starbucks
2024年9月にCEOに就任したブライアン・ニコル氏が掲げる経営再生方針である。店舗体験の原点回帰、顧客体験の改善、業務運営の見直しなどを通じて、スターバックスらしさを取り戻すことを掲げており、本件のAI在庫管理もその一環として展開されていた。
Automated Counting(自動カウント)
スターバックスとNomadGoが共同で導入していた在庫管理プログラムの呼称である。タブレットで棚をスキャンしてシロップ・ミルクなどの在庫数を自動集計する仕組みで、2025年9月から北米全域に展開され、2026年5月に廃止された。NomadGo側の製品名は Inventory AI である。
Green Dot Assist
スターバックスが導入している生成AIベースのバリスタ支援アシスタント。店舗内iPadから業務中の質問に対してリアルタイムで回答を返す仕組みであり、今回廃止された在庫管理AIとは別系統で運用が継続されている。
EU AI Act
欧州連合が制定したAI規制法。AIシステムをリスク別に分類し、用途ごとに義務を課す世界初の包括的AI規制である。在庫管理AIは用途次第で高リスクに該当しない可能性があるが、具体的な分類は運用文脈ごとの個別評価が必要となる。
【参考リンク】
Starbucks Stories & News(スターバックス公式ニュースルーム)(外部)
スターバックスの公式ニュースルーム。プレスリリースおよびBack to Starbucks関連の発信が掲載されている。
NomadGo 公式サイト(外部)
Inventory AIを提供するNomadGoの公式サイト。技術仕様、導入事例、プレスリリースが掲載されている。
NomadGo Inventory AI 紹介ページ(Starbucks事例)(外部)
NomadGoによるStarbucks導入事例ページ。FSTEC 2025で共有された規模・効果指標を確認できる。
Microsoft 公式サイト(外部)
NomadGo創業者デイヴィッド・グレシュラー氏の前職企業。空間認識×エンタープライズの源流を確認できる。
【参考記事】
Reuters: Starbucks scraps AI inventory tool across North America(外部)
スクープ元の一次報道。社内ニュースレターと社員2名の証言から9か月での廃止を確認した。
Business Wire: NomadGo’s Inventory AI Brings Automated Counting to More than 11,000 Starbucks Locations(外部)
NomadGo公式発表。11,000店舗・99%精度・30秒スキャン・8倍速度の数値の一次情報源。
Reuters: Starbucks rolls out AI for inventory counting(外部)
2025年9月の導入時点の一次報道。展開時のシステム仕様と導入規模を確認できる安定ソース。
Reuters: Inside Starbucks’ supply struggles: AI glitches, scattered suppliers and sandwich shortages(外部)
2026年1月27日付。撤回前に同社のサプライ問題と本AIツールの不具合を詳しく報じた一次資料。
GeekWire: Starbucks rolls out automated counting tech for inventory(外部)
導入時点の詳報。NomadGoの2017年創業、創業者経歴、150万ドル調達など背景を網羅している。
Engadget: Starbucks abandons its AI inventory tool after only nine months(外部)
2025年9月導入と9か月運用の整理に加え、現場の心理面も含めた論評記事。
Gizmodo: Starbucks Abandons Borked AI Inventory Tool That Couldn’t Count(外部)
Starbucks広報コメントと、継続中のAI施策(Green Dot Assist等)を整理した記事。
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【編集部後記】
今回のニュースで改めて感じたのは、新たな技術を「成功か失敗か」の二項で語る時代はもう終わっている、ということです。スターバックスが「99%精度」を掲げたAIを9か月で撤回した判断は、決して敗北ではなく、むしろ大規模組織がリアルタイムに自己修正できることを示した好例ではないでしょうか。
日本のリテール・外食業界でも、同じスケールのAI導入と撤退が、これから当たり前に起こるはずです。みなさんの職場や日常では、AIに「任せて良かった」と感じた瞬間、「人の手に戻したい」と思った瞬間、それぞれどんな場面でしたか。読者のみなさんと一緒に、次の事例を冷静に観察していきたいと思います。












