京王電鉄・Nōka.AI、生物学的推論AIで養殖革新へ―「奥多摩やまめ養殖最適化プロジェクト」始動

ご当地サーモンはあちこちで見かけるようになりましたが、「やまめ」の養殖、しかも刺身で食べられる、と聞くと少し意外な気がします。奥多摩やまめ——3年、4年と手をかけて育つそのブランド魚は、おいしさで知られる一方、「増やしたくても増やせない」という壁をずっと抱えてきました。そこへ手を組むのが、ちょっと毛色の変わったAIです。エサやりのタイミングや水温管理だろう、と思いきや、ねらいはもっと奥のほう。「なぜこの魚は成長するのか」を、遺伝子や代謝という細胞のレベルから読み解こうとします。勘と経験で受け継がれてきた養殖の世界に、分子の言葉で説明をつけられるのか。東京・八王子の小さな実証から、その問いが動き出しました。


京王電鉄株式会社とNōka.AI, Inc.は2026年7月8日、奥多摩やまめ養殖最適化プロジェクトを共同で開始する。日本初の「生物学的推論AI」を活用し、奥多摩やまめの成長促進、飼料効率改善、品質安定化を目的とする共同研究である。

京王電鉄はオープンイノベーションプログラム「My turn」の事業化案件として2026年3月に京王プラザホテル八王子でアクアポニックス事業を開始し、奥多摩やまめやクレソンを生産している。本プロジェクトは飼料、養殖環境、品質予測の3つの課題に取り組み、2026年7月から9月まで、データ統合・AIモデル学習・最適化提案・検証・知見移転の5フェーズで実施する。

From: 文献リンク京王電鉄とNōka.AI、日本初の「生物学的推論AI」を活用した奥多摩やまめ養殖最適化プロジェクトを開始

【編集部解説】

このリリースで注目すべきは、対象が「奥多摩やまめ」という、供給が需要に追いついていない希少食材である点です。ここに、京王電鉄がこの取り組みを始める必然性が隠れています。

奥多摩やまめは、1998年に東京都の水産試験場が開発したブランド魚です。染色体を2組から3組にする染色体操作(遺伝子組み換えではありません)によって産卵しない「全雌三倍体」となり、通常2年ほどで死ぬヤマメが3〜4年生き、4年で体長約50cm・体重約2kgまで育ちます。大型化して初めて、川魚には珍しい刺身での提供が可能になった魚です。

問題は、その希少性の裏返しにあります。出荷サイズまで3〜4年かかるため増産が難しく、たとえば都心の百貨店に卸すある生産者の昨年度出荷量は130kg程度にとどまるなど、ブランド全体として供給が限られています。本プロジェクトが狙うのは、まさにこの成長プロセスの科学的な把握と安定化だと読み解けます。

では「生物学的推論AI」とは何でしょうか。養殖分野で普及しつつあるAIの多くは、カメラ画像で魚を数えたり、水質センサーで給餌を制御したりする「外側から観察する」技術です。研究機関発の先端科学を基盤とするディープテック企業Nōka.AIが掲げるのはその逆で、遺伝子・血液・筋肉といった分子データ(マルチオミクス)から代謝そのものをモデル化し、「なぜ成長するのか」を内側から推論しようとするアプローチです。

その中核にあるゲノムスケール代謝モデルは、細胞内で起こる化学反応の全体像を計算機上で再現し、栄養素がどうエネルギーや身になるかを予測する数理モデルです。ここにトランスクリプトームやプロテオームのデータを重ね、収穫前に品質を見極める早期バイオマーカーの構築まで視野に入れれば、養殖は「起きた結果に対処する」事後管理型から、「起きる前に手を打つ」予測型へと性質を変えていきます

ここで一つ、公平性のために補助線を引いておきます。プレスリリースは「日本初」と位置づけていますが、養殖のための「仮想細胞モデル」という発想自体は、世界では既に競争段階に入っています。たとえばシンガポールのUmami Bioworksは2025年11月、マグロやサケなどを対象にした制約ベース代謝モデル「バーチャル・マリン・セル」を発表しています。つまり「日本国内での先駆性」は妥当としても、グローバルには唯一無二の技術ではない、という距離感で捉えるのが正確です。

この視点は、記事の価値を下げるものではありません。むしろ、食料生産をAIで根本から設計し直そうという潮流が、国境を越えて同時多発的に立ち上がっている——その日本側の具体例として、本件は位置づけられます。

背景には、動かしがたい数字もあります。世界の一人当たり水産物消費は1961年の9.1kgから2022年には20.7kgへと倍増し、FAOは2050年に現状の消費水準を保つだけでも生産量の22%増が必要だと試算しています。一方の日本は、2024年の漁業・養殖業生産量が前年比5.1%減となり、水産物自給率も50%台前半で推移しています。「獲る漁業」の頭打ちを「育てる漁業」でどう補うかは、食料安全保障に直結する課題です。

もっとも、過度な期待は禁物です。本プロジェクトは2026年7月から9月までの3か月、対象も奥多摩やまめという1魚種にとどまる小規模な実証段階にすぎません。「仮想細胞モデル」はなお発展途上の概念であり、分子データの取得と学習には相応のコストと時間がかかります。ここで得た知見が他の魚種や環境に一般化できるかは、これから検証されるべき論点です。

規制の観点では、現時点で大きな障壁は見当たりません。奥多摩やまめ自体が染色体操作という先端技術で生まれた魚であり、AIが設計するのは飼料や環境条件であって、魚の遺伝情報を書き換えるわけではないからです。ただし、AIが最適化した食材をどう消費者に説明し、信頼を得るか——この「語り方」の設計は、技術と同じくらい重要になるでしょう

長期的に見れば、本件の眼目は「魚」そのものより、生物を分子レベルで理解して推論するAIを、産業に実装できるかという一点にあります。Nōka.AIは酪農・発酵・畜産・細胞性食品までを射程に置いており、成否は食料生産全体の再設計に波及しうるテーマです。一匹のブランド魚から、人間が生命をどこまで「予測可能」にできるのかという問いが立ち上がっている——ここにこそ、私たちが今この記事を書く理由があります。

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【編集部後記】

サーモンの養殖なら、あちこちでご当地サーモンの話を聞くようになりました。でも、やまめという魚はあまり耳にしません。しかも刺身で食べられると知って、まず驚きました。川魚は焼いて食べるもの、という思い込みがあったからです。それが3年、4年と手をかけて育てることで大きくなり、生でも味わえる一皿になる——このこと自体が、恥ずかしながら初めて知る話でした。

そして「AIで養殖」と聞いたとき、正直に言えば、エサやりのタイミングを計るとか、水温を見張るとか、その手の話だろうと決めてかかっていました。ところが、中身はまるで違いました。魚を外から観察するのではなく、遺伝子や代謝という細胞のレベルから「なぜこの魚は成長するのか」を読み解こうとする。同じ「AI×養殖」でも、立っている場所がずいぶん奥のほうにあるのだと気づかされます。

奥多摩やまめが抱える「増やしたくても増やせない」という壁は、そのまま、結果が出るまで手探りで待つしかない一次産業の姿と重なります。もしこのアプローチがうまくいけば、養殖は「待つ」仕事から「見通す」仕事へと、少しずつ性格を変えていくのかもしれません。

とはいえ、期待ばかりを並べるのはためらわれます。3か月、魚一種の小さな実証で分かることには限りがありますし、世界では同じように細胞をまるごとモデル化する挑戦がいくつも走っています。それでも、勘や経験という言葉にしにくいものを、なんとか説明できるかたちに置き換えようとする姿勢には惹かれました。

おいしい一切れの向こうに、生き物を「予測できる」ようにしていくという問いが、静かに置かれている気がします。答えを急がず、続きを一緒に見ていけたらと思います。


【用語解説】

マルチオミクスデータ
ゲノム(遺伝子)、トランスクリプトーム(遺伝子発現)、プロテオーム(タンパク質)、メタボローム(代謝物)など、生命現象を分子レベルで網羅的にとらえた複数階層のデータを統合的に組み合わせたものである。

トランスクリプトーム/プロテオーム
トランスクリプトームは細胞内で働く遺伝子(mRNA)の全体像、プロテオームは細胞内に存在するタンパク質の全体像を指す。どの遺伝子・タンパク質がどの程度働いているかを網羅的に解析する手法である。

制約ベース代謝モデル
代謝モデルの一種で、栄養や酵素、熱力学などの「制約条件」を課したうえで、細胞内で実現可能な代謝の流れを計算するアプローチである。編集部解説で触れたUmami Bioworksの手法もこの系譜にあたる。

アクアポニックス
魚の養殖(Aquaculture)と水耕栽培(Hydroponics)を組み合わせ、魚の排出物を植物の栄養に循環させる持続可能な生産方式である。京王電鉄はこの仕組みで奥多摩やまめとクレソン等を生産している。

奥多摩やまめ
1998年に東京都の水産試験場が開発したブランド魚である。染色体を2組から3組にする染色体操作(遺伝子組み換えではない)で産卵しない「全雌三倍体」となり、通常のヤマメより長生き・大型化し、川魚には珍しく刺身で食べられる。

全雌三倍体
すべて雌で、染色体を通常の2組(二倍体)ではなく3組(三倍体)もつ個体を指す。性成熟しないため産卵で身がやせず、寿命が延びて大きく育つ。種なしブドウ・種なしスイカと同じ原理の染色体操作による。

【参考リンク】

京王電鉄株式会社(公式サイト)(外部)
京王線・井の頭線を運営し、交通・不動産・ホテル業などを展開する企業の公式サイト。本リリースの発信元。

Nōka.AI, Inc.(公式サイト)(外部)
ゲノムスケール代謝モデルとマルチオミクス機械学習を融合し、生物の「仮想細胞モデル」構築を掲げる米企業の公式サイト。

オープンイノベーション「My turn」事業化案件 発表資料(京王電鉄)(外部)
アクアポニックス事業を含む2件の事業化を決定した2026年1月16日付の京王電鉄プレスリリース。本件の前提。

奥多摩やまめ(東京都農林水産振興財団)(外部)
奥多摩やまめの開発経緯・染色体操作の仕組み・成長サイズ・食味を、開発元に近い立場から解説した公的な紹介ページ。

【参考記事】

2024年 世界漁業・養殖業白書(FAO SOFIA 2024)解説(JIRCAS)(外部)
一人当たり水産物消費が1961年9.1kgから2022年20.7kgへ倍増、2050年に生産量22%増が必要と示す解説。

漁業ダッシュボード(sanchi.jp)(外部)
2024年の水産物自給率52%、2022年に世界の養殖生産が天然を逆転したことなど、日本の構造課題を数字で示す。

AI expert Umami unveils ‘virtual marine cell’ to speed up research(Fish Farming Expert)(外部)
シンガポールのUmami Bioworksが2025年11月発表した仮想海洋細胞を報じ、比較検証に用いた記事。

Artificial intelligence revolutionizes cellular metabolic pathway reconstruction(Cell)(外部)
多階層オミクスを学習し細胞代謝を予測する枠組みを論じ、生物学的推論AIの科学的潮流を確認した学術レビュー。

清流と育む川の幸。奥多摩やまめのふるさとへ(三越伊勢丹オンラインストア)(外部)
生産者への取材記事。出荷まで3年、昨年度出荷量130kg程度など、希少性の根拠として追加した。

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omote
デザイン、ライティング、Web制作を行っています。AI分野と、ワクワクするような進化を遂げるロボティクス分野について関心を持っています。AIについては私自身子を持つ親として、技術や芸術、または精神面におけるAIと人との共存について、読者の皆さんと共に学び、考えていけたらと思っています。