プリンストン大学の研究チームが、生きた脳細胞と電子回路を一体化した3Dデバイスを開発し、パターン認識タスクに成功した。研究成果は2026年4月23日付のNature Electronics誌に掲載された。
チームは微小な金属ワイヤーと電極を薄いエポキシでコーティングした3Dメッシュを足場として、数万個の神経細胞を3Dネットワーク状に培養した。6か月以上にわたりシステムの変化を追跡し、神経細胞間の結合強度を調整しながらアルゴリズムを学習させた結果、空間パターンと時間パターンの両方を識別することに成功した。
研究は電気・コンピュータ工学およびオーメン-ダーリング・バイオエンジニアリング研究所助教のティエンミン・フー氏、スティーブン・R・フォレスト記念教授のジェームズ・スターム氏、ポスドク研究員のクマール・ムリトゥンジャイ氏が共同で主導した。フー氏によると、人間の脳は同等のタスクを実行する際、現行AIシステムの約100万分の1の電力しか消費しないという。論文の筆頭著者はムリトゥンジャイ氏が務めた。
From: New 3D device harnesses living brain cells for computing
【編集部解説】
プリンストン大学のチームが発表したこの研究は、「ウェットウェア・コンピューティング」あるいは「オルガノイド・インテリジェンス」と呼ばれる新興分野における、構造的なブレイクスルーといえます。論文ではこのデバイスを「3D-MIND」(3次元マイクロ計装ニューラルネットワーク)と呼んでおり、数万個の生きた神経細胞を金属ワイヤーと電極の3次元メッシュに絡ませて培養し、6か月以上にわたって安定的に記録・刺激し続けたという点に最大の意義があります。なお論文を詳しく見ると、培養に用いられたのはラット胚由来の初代神経細胞であり、ヒトのオルガノイドではない点は押さえておきたいポイントです。
これまでの脳細胞コンピューティングは、2022年にオーストラリアのCortical LabsがDishBrainで示した「ペトリ皿に約80万個の神経細胞を平面に培養する2D方式」か、スイスのFinalSparkがNeuroplatformで提供する「ミリメートル単位の球状オルガノイドを外側から電極で観測する3D方式」が主流でした。プリンストン方式の新しさは、電極そのものを神経組織の「内部に編み込む」点にあります。これにより、外からは届かない深部の神経活動まで高解像度で読み書きできるようになりました。
技術的な系譜を辿ると、論文の責任著者の1人であるフー氏は、ハーバード大学のチャールズ・リーバー研究室で「注射可能なメッシュ電極」を開発した中心メンバーであり、今回の3Dメッシュはその10年以上にわたる「神経組織と電子回路をシームレスに繋ぐ」研究の延長線上にあります。共同主導のスターム氏はプリンストン電気・コンピュータ工学科の前学科長で半導体微細加工の権威であり、神経科学と微細電子工学の最高水準の融合が結実した研究と位置づけられます。
AIの電力問題という時代背景
なぜ今この技術が世界的に注目されるのか。背景には、AIの電力消費が物理的な限界に突き当たりつつあるという切実な事情があります。国際エネルギー機関(IEA)の最新中心見通しは2025年485TWh→2030年950TWh。これに対し人間の脳はわずか約20Wで約860億の神経細胞を駆動しており、フー氏が指摘する「100万分の1の電力」という比較は、シリコンの延長線上では解決困難な構造的問題を端的に示しています。
リザバーコンピューティングという計算原理
このデバイスが「計算」を行う仕組みは、リザバーコンピューティングという枠組みで理解できます。これは、複雑な動的システム(=リザバー)に時系列の入力を与え、その内部状態の変化を読み出して学習に利用する手法で、深層学習に比べて学習が極めて高速・低コストで済むという特長があります。プリンストンチームは生きた神経ネットワーク自体をリザバーとして使い、空間的・時間的に異なる電気パルスのパターンを識別させることに成功しました。日本でも東京大学の田中剛平氏らがスピン波や光を用いた物理リザバーを精力的に研究していますが、生体ニューロンを使うこの方式はその「究極形」とも言えます。
ポジティブな可能性と、避けて通れないリスク
ポジティブな面としては、AI電力問題の根本的解決策となる可能性に加え、神経変性疾患(アルツハイマー、パーキンソンなど)の発症メカニズム解明や創薬スクリーニングへの応用が期待されます。動物実験の代替としても重要で、米国のNIHやFDAは2025年から動物実験のみに依拠する研究助成を一部制限する方針へ舵を切っており、今回のような技術はその受け皿として機能しうるでしょう。
一方、潜在的なリスクも見逃せません。最大の論点は「意識」の問題です。今回のラット神経細胞デバイスは現時点では意識を持つ可能性は極めて低いとされますが、ヒトiPS細胞由来のオルガノイドへ展開し、規模が拡大していけば、「どの段階から倫理的配慮の対象となるのか」という問いは避けて通れません。広島大学の澤井努氏らは、現行の意識理論の中には現時点のヒト脳オルガノイドにすら意識を認めうるものがあると指摘し、京都大学CiRAなども早期の倫理的枠組み整備を呼びかけています。米国NSFは2024年から、オルガノイド関連の研究助成に「倫理学者の共同主任研究者としての参画」や、技術と倫理を並走させる枠組み作りが国際的に進みつつあります。
規制の現状と長期的な展望
規制への影響としては、日本国内ではまだ脳オルガノイドや生体コンピューティングを直接対象とする独立した規制枠組みは整備されていません。商用化が先行するオーストラリアのCortical Labsが2025年に1台3万5000ドル(約525万円、1ドル=150円換算)で販売を開始し、Doomを動かすデモまで公開している現状を考えると、日本でも研究指針・倫理審査体制の議論を加速させる必要があるでしょう。
長期的視点で言えば、このプリンストンの研究は、生体組織と電子回路の境界線を物理的に溶かし始めた転換点と位置づけられます。シリコンが半世紀以上君臨してきたコンピューティングの基盤に、「生きた組織」という第三の選択肢が加わりつつあるのです。それは単なるエネルギー問題の解決にとどまらず、「知能とは何か」「計算とは何か」という根源的な問いを、私たちに改めて突きつけることになるでしょう。
【用語解説】
ウェットウェア・コンピューティング(Wetware Computing)
生きた生物組織、特に神経細胞を計算素子として用いる新しい計算手法のこと。ハードウェア(回路)、ソフトウェア(プログラム)に対し、生体組織を「ウェットウェア」と呼ぶことに由来する。バイオコンピューティングとほぼ同義で用いられる。
オルガノイド・インテリジェンス(Organoid Intelligence、OI)
ヒト幹細胞などから培養した3次元の脳組織(脳オルガノイド)に学習や情報処理を行わせる研究分野のこと。2023年にジョンズ・ホプキンス大学のトーマス・ハーツング氏らが提唱した。
3D-MIND(3次元マイクロ計装ニューラルネットワーク)
プリンストン大学チームが開発したデバイスの正式名称(3D micro-instrumented neural network device)。柔軟な3次元電子センサー・刺激アレイを3D培養神経ネットワークに統合した構造をもつ。
リザバーコンピューティング(Reservoir Computing)
複雑な動的システム(リザバー)に時系列の入力を与え、その内部状態の変化を読み出して学習に利用する機械学習の枠組みのこと。「池に石を投げ込んだ際の波紋パターン」に例えられる。学習が高速・低消費電力で済む点が特徴である。
ニューロモルフィック・コンピューティング(Neuromorphic Computing)
脳の構造や情報処理の仕組みを模倣した計算ハードウェアの総称のこと。今回のような生体組織を直接用いる方式と、シリコン上で脳の挙動を再現する方式の両方を含む。
シナプス可塑性
神経細胞同士のつながり(シナプス)が、活動の頻度や強度に応じて強くなったり弱くなったりする性質のこと。学習や記憶の生物学的な基盤と考えられている。
動作電位(Action Potential)
神経細胞が興奮した際に発生する電気的なパルス信号のこと。脳内の情報伝達の基本単位であり、今回のデバイスはこれを多平面で記録・刺激することができる。
脳オルガノイド
ヒトiPS細胞や胚性幹細胞から培養した、3次元構造を持つ「ミニ脳」のこと。直径は通常0.5mm程度で、発達初期の脳の構造の一部を再現する。なお今回のプリンストンの研究はオルガノイドではなく、ラット胚由来の神経細胞を培養したものを用いている。
メッシュ電極(Mesh Electronics)
チャールズ・リーバー氏のグループが2010年代に開発した、極細の金属ワイヤーで作られた網目状の超柔軟電極のこと。神経組織と一体化しやすく、長期間にわたって安定した記録が可能となる。
ジョンズ・ホプキンス大学CAAT(動物実験代替手法センター)
動物実験に代わる手法の研究を進める機関のこと。脳オルガノイドを用いたOI研究の中心拠点の一つとなっている。
【参考リンク】
プリンストン大学電気・コンピュータ工学科(外部)
本研究を主導した3名の研究者が所属。半導体、バイオエレクトロニクス、AIハードウェアなど幅広い世界的研究を展開。
Tian-Ming Fu Lab(プリンストン大学フー研究室)(外部)
共同主導したフー氏の研究室公式サイト。バイオイメージングや神経科学のインターフェース研究が紹介されている。
Sturm Lab(プリンストン大学スターム研究室)(外部)
スターム氏が率いる研究室サイト。VLSI、シリコンヘテロ接合、3次元集積回路など最先端の半導体研究内容を掲載。
Nature Electronics 掲載論文ページ(外部)
今回の研究の原典となる査読済み論文の公式ページ。論文タイトル、要旨、著者情報、参考文献を確認できる。
Cortical Labs(外部)
オーストラリア拠点のバイオコンピューティング企業。世界初の商用バイオコンピュータ「CL1」を2025年に発表した。
FinalSpark(外部)
スイス拠点のバイオコンピューティング企業。16個のヒト脳オルガノイドにリモートアクセスできるNeuroplatformを公開。
国際エネルギー機関(IEA)Energy and AI レポート(外部)
AIの普及がエネルギー需要に与える影響を分析した公的レポート。データセンター電力消費の現状と将来予測を網羅。
Frontiers in Science「Organoid Intelligence」論文(外部)
ジョンズ・ホプキンス大学のハーツング氏らが2023年に発表した、OIという新分野の立ち上げを宣言した論文。
京都大学CiRA(iPS細胞研究所)(外部)
日本のiPS細胞研究の中核拠点。脳オルガノイド研究と関連する倫理的課題についての論文発表も行っている。
【参考記事】
A three-dimensional micro-instrumented neural network device(Nature Electronics)(外部)
査読済み原典論文。3D軟性電極アレイと3D培養神経ネットワークを統合し、6か月にわたる多平面記録を実証した。
3D Bio-Hybrid Device Merges Neurons and Computing(Neuroscience News)(外部)
プリンストン研究を詳細に解説。研究チーム構成、技術アプローチ、神経疾患研究への貢献可能性を紹介している。
US team combines brain cells, electronics in 3D device for computing(Interesting Engineering)(外部)
ウェットウェア潮流の中にプリンストン研究を位置づけ、Cortical LabsのDishBrain先行例にも触れた解説記事。
‘Wetware’: Scientists use human mini-brains to power computers(Tech Xplore/AFP)(外部)
スイスFinalSparkが16個の脳オルガノイドを電極アレイに接続し、世界の研究者にリモート提供している現状の取材記事。
Brain organoid pioneers fear inflated claims about biocomputing could backfire(STAT News)(外部)
ジョンズ・ホプキンス大学のスミルノヴァ氏らOI研究のパイオニアたちが、過度な誇張への警戒感を語った報道。
【関連記事】
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【編集部後記】
「生きた脳細胞がコンピューターになる」と聞くと、SFのように感じられるかもしれません。しかし、AIの電力消費が国家規模に膨らむ今、人間の脳がわずか20Wで成し遂げる驚異的な効率を、技術の側が真剣に学び始めています。
みなさんは、自分の脳の延長線上にコンピューターがある未来と、シリコンの延長線上で進化するAIの未来、どちらに惹かれますか。意識や倫理の境界線をどこに引くべきか、ぜひ一緒に考えていけたら嬉しいです。











