若さを保ちたいという願いと、病を治したいという願い。この二つはこれまで、別々の医学の物語として語られてきました。抗老化は美容や健康の周辺領域として、遺伝性疾患の治療は臨床医学の本流として扱われてきたからです。しかし2026年、この二つの物語が同じ技術の土台の上で並走し始めています。DNAの配列そのものは変えず、遺伝子の「働き方」だけを書き換える。エピゲノムと呼ばれる層に、性格の異なる複数の試みが同時に手を伸ばしています。なぜ今、これほど違う目的地を持つ研究が、同じ技術基盤の上で重なり合っているのか、見ていきたいと思います。
二つの治験、同じ土台
2026年1月、米Life Biosciencesが手がける治験薬「ER-100」に、FDAがヒト臨床試験の許可を出しました。ハーバード大学の老化研究者David Sinclair氏が共同創業したこの企業が目指すのは、細胞の生物学的な年齢そのものを巻き戻すことです。山中因子と呼ばれる細胞初期化因子の一部だけを使い、細胞のアイデンティティを保ったまま、エピゲノムの状態を若い頃に近づけます。最初の対象は緑内障とNAION(虚血性視神経症)で、いずれも視神経の老化が関わる疾患です。同社CEOのJerry McLaughlin氏は、この手法を「壊れたソフトウェアを工場出荷時設定に戻す」ようなものだと説明しています。
同じ半年ほどの間に、まったく別の狙いを持つ治験も節目を迎えていました。米Epicrispr BiotechnologiesのEPI-321は、顔面肩甲上腕型筋ジストロフィー(FSHD)という遺伝性の筋疾患を対象にしています。4番染色体上の特定領域が本来持つべき「抑制」の状態を取り戻すことで、筋肉に有害な遺伝子の発現を止める薬です。DNAを切断しない改変Casたんぱく質「CasONYX」を使い、狙った場所だけにDNAメチル化を回復させます。同社は2025年8月に最初の患者へ投与を開始し、2026年7月までに登録した12人全員への投与を完了したと発表しています。
標的にする疾患も、目指す状態もまったく違うこの二つの薬ですが、土台にある考え方は同じです。DNAの配列そのものは変えず、その「読まれ方」、どの遺伝子がオンになり、どの遺伝子がオフになるかを書き換えることで、細胞の振る舞いを変えます。この読まれ方の情報の総体を「エピゲノム」と呼びます。
なぜ今、複数の場所で同時に成熟しているのか
Life BiosciencesとEpicrisprの節目は、時期がほぼ重なっています。これは単なる偶然なのでしょうか。それとも、何らかの必然があるのでしょうか。
手がかりは、この分野の資金の動きにあります。CRISPRによる遺伝子編集、つまりDNAを直接切断する方式は、2016年前後から、狙った場所以外を誤って書き換えてしまう「オフターゲット」のリスクが繰り返し指摘されてきました。この懸念を回避する手段として、DNAを切らずにエピゲノムだけを操作する技術への関心が高まり、2021年には投資が集中します。Tune TherapeuticsとChroma Medicineの2社だけで1億6500万ドルが投じられ、2022年にはEpic Bio(現Epicrispr)もスタンフォード大学発のベンチャーとして5500万ドルを調達しました。
投資が集中した企業群が、2025年から2027年にかけて相次いで治験段階に入るのは、予測できたことだったのかもしれません。京都大学の研究を可能にしたような大規模なクロマチン解析も、シーケンスにかかるコストが下がり続けてきたからこそ実現しています。この分野を支えるインフラの成熟は、複数の取り組みに共通する追い風になっています。
「治す」という目的地
Epicrisprが目指すのは、特定の異常だけを止める精密な介入です。標的はDUX4という一つの遺伝子で、その発現を抑えることがゴールになります。同様の発想は他の疾患にも広がっています。Tune TherapeuticsはB型肝炎ウイルスを標的にしたTUNE-401を、nChroma Bio(旧Chroma Medicine)は高コレステロールに関わるPCSK9遺伝子を標的にした治療法を、それぞれ開発しています。
Sangamo Therapeuticsはアルツハイマー病に関わるタウたんぱく質を標的にした技術をGenentechに、血液脳関門を通過するカプセル技術をAstellasとEli Lillyにライセンス供与してきましたが、2026年6月には自社がChapter 11破産を申請し、プリオン病プログラムを含む中核技術をEli Lillyへ売却しています。スタートアップ発の技術が、大手のパイプラインに組み込まれつつあります。エピゲノム編集は、一過性の実験的技術から、疾患横断で使える基盤技術になりつつある段階にいます。
「若返る」という目的地
Life Biosciencesが目指すのは、老いという、特定の病気に還元できない、もっと広い状態そのものの巻き戻しです。同じ「エピゲノムを書き換える」という技術が、片方では狭く深く、もう片方では広く緩やかに使われている、という対比が見えてきます。
若返りを目指す研究には、慎重な見方も必要になります。Sinclair氏はこれまでにも、サーチュインやレスベラトロールをめぐる研究で、期待が先行しすぎたと指摘されてきた経緯があります。老化の指標として使われる「エピゲノム時計」も、FDAが承認した評価基準ではなく、感染症や食生活といった要因だけでも数値が変動しうるという限界が指摘されています。
とはいえ、この技術がなぜここまで多くの人の関心を引くのか、その理由は理解できます。高額な先端医療は、これまでも特定の対象に限定された形でまず実証され、そこから適応が広がったり、価格が下がったり、あるいは別の治療領域に技術が転用されたりしてきました。今回のER-100が同じ道をたどるかどうかはまだ分かりませんが、その可能性を頭ごなしに否定する理由もありません。
読み解く側の動き
書き換える側の動きと並行して、「読み解く」側の研究も進んでいます。京都大学の小川誠司教授らのグループは、スウェーデンのカロリンスカ研究所と共同で、1500例を超える急性骨髄性白血病(AML)患者の検体を大規模に解析し、クロマチンの状態の違いからAMLを16のサブグループに分類できることを明らかにしました。このサブグループは患者の予後や薬剤への反応性ともよく一致しており、エピゲノムの情報が病気の分類や治療選択に使える可能性を示しています。成果は2026年7月、英科学誌ネイチャーに掲載されました。
日本国内でも研究基盤の整備が進んでいます。東北大学の東北メディカル・メガバンク機構(ToMMo)は2026年4月、エピゲノムデータ室を新設しました。DNAメチル化などのエピゲノム情報を網羅的に解析し、加齢や生活習慣、環境要因と疾患との関係を探る取り組みです。
分岐点、あるいは合流点
「治す」ことと「若返る」こと。エピゲノムという同じ技術は、今この二つの目的地に向かって進んでいます。どちらが優れているという話ではありません。「書き換え可能である」という性質そのものが、治療にも、若さの追求にも等しく開かれている、ということです。
この先、Epicrisprの精密さがLife Biosciencesの手法に転用される日が来るかもしれませんし、逆にLife Biosciencesが積み上げるエビデンスが、若返り以外の治療領域への応用を後押しするかもしれません。二つの流れが交わるのか、それとも別々の道を歩み続けるのか、今の時点で答えを出すことはできません。
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【編集部後記】
「治す」ことと「若返る」こと。アプローチこそ違えど、そこにあるのは「健康でいたい」という願いそのものです。遺伝子の問題だから自分は仕方ないと諦めることは少しずつ覆りつつあるのかもしれません。
【用語解説】
エピゲノム(Epigenome)
DNAの塩基配列を変えずに、どの遺伝子をいつ、どれくらい働かせるかを決めている情報の総体。同じ配列を持つ細胞が、皮膚にも神経にも肝臓にもなり分かれるのは、この層が細胞ごとに異なる状態にあるため。配列を「文章」とすれば、エピゲノムはどの行を読み、どの行を飛ばすかを指示する付箋にあたる。代表的な仕組みがDNAメチル化とヒストン修飾。
DNAメチル化(DNA Methylation)
DNAの特定部位、主にシトシンにメチル基が付加される化学修飾。遺伝子の調節領域に付くと、多くの場合その遺伝子の発現を抑える方向に働く。細胞分裂のたびに娘細胞へ複製される性質があり、一度書き込まれた状態が長く保たれる点が、治療技術として注目される理由の一つ。
ヒストン修飾(Histone Modification)
DNAが巻き付くヒストンというたんぱく質に、アセチル基やメチル基などが付加される化学修飾。修飾のパターンによってDNAの収納状態が変わり、遺伝子が読み取られやすくなったり、読み取られにくくなったりする。DNAメチル化と並ぶ、エピゲノム制御の代表的な機構。
クロマチン(Chromatin)
DNAとヒストンたんぱく質からなる複合体で、DNAが細胞核に収納される際の構造単位。ほどけて「開いた」状態の領域は遺伝子が読み取られやすく、固く畳まれた領域は読み取られにくい。この開き具合のパターンを網羅的に測ることで、細胞の性質や病気の型を判別できる。
ATACシーケンス(ATAC-seq)
ゲノム全体のうち「開いた」クロマチン領域がどこかを網羅的に調べる解析手法。少ない細胞数で実施できるため、患者検体を大規模に扱う研究で広く使われる。京都大学らのAML研究は、この手法を1500例超の検体に適用したもの。
CasONYX
Epicrispr Biotechnologiesが用いる、DNAの切断能を失わせた改変Casたんぱく質。CRISPRの「切る」機能を止め、狙った配列に結合する案内役としてのみ使う設計で、そこにDNAメチル化を回復させる働きを組み合わせている。同様の発想はエピゲノム編集全般に共通し、切断能を失わせたCas9は一般にdCas9と呼ばれる。
オフターゲット(Off-target)
遺伝子編集の際に、狙った場所以外のDNAを誤って書き換えてしまう現象。DNAを切断する方式では、切断箇所の修復ミスによる変異や染色体の再配列が後戻りできない結果を招きうるため、安全性評価の中心的な論点となってきた。エピゲノム編集への関心が高まった背景にある懸念。
山中因子(Yamanaka Factors)
2006年に山中伸弥氏らが特定した、体細胞をiPS細胞へと初期化できる4つの転写因子(OCT4・SOX2・KLF4・c-MYC)。4つすべてを働かせ続けると細胞は元の役割を失い、体内では腫瘍を作るリスクが生じる。このため、老化研究ではc-MYCを除いた3因子(OSK)を一時的にだけ働かせる手法が中心になっている。
FSHD(顔面肩甲上腕型筋ジストロフィー)
顔・肩甲骨まわり・上腕の筋肉が優先的に衰えていく遺伝性の筋疾患。4番染色体の末端にあるD4Z4という反復配列が短くなり、その領域を抑えていたエピゲノムの働きが弱まることで発症する。現時点で承認された治療法はない。
DUX4
本来は発生のごく初期にだけ働き、その後は抑え込まれているはずの転写因子遺伝子。FSHDではこの抑制が緩み、骨格筋で誤って発現することで筋肉の変性を引き起こす。EPI-321が発現を止めようとしている標的。
NAION(非動脈炎性前部虚血性視神経症)
視神経の入り口にあたる部分への血流が滞り、突然の視力低下や視野欠損を起こす疾患。中高年以降に多く、有効性が確立した治療法がない。ER-100が緑内障と並んで最初の対象に選んだ疾患。
PCSK9
血液中のLDLコレステロールを回収する受容体を分解する働きを持つ遺伝子。この働きを抑えるとLDLコレステロールが下がるため、抗体医薬などの標的として既に実用化されている。エピゲノム編集による治療は、継続的な投薬ではなく一度の投与で効果を持続させることを目指す点が異なる。
サーチュイン(Sirtuin)
ヒストンなどからアセチル基を外す働きを持つ酵素のファミリーで、ヒトではSIRT1からSIRT7までの7種類が知られる。ヒストン修飾を通じて遺伝子の働き方を変えるため、エピゲノム制御に直接関わる分子でもある。酵母の研究をきっかけに寿命との関連が提唱され、老化研究の中心的な標的の一つとなった一方、寿命延長効果の再現性をめぐっては研究者の間で議論が続いてきた。
レスベラトロール(Resveratrol)
ブドウの皮や赤ワインに含まれるポリフェノールの一種。2000年代前半にサーチュインを活性化する物質として報告され、抗老化成分として大きな注目を集めた。その後、活性化を示したとされる実験手法そのものに疑義が呈され、想定された経路で働いているかをめぐる論争が続いた。老化研究において、有望な初期報告が後の検証で揺らいだ代表例として言及されることが多い。
エピゲノム時計(Epigenetic Clock)
DNAメチル化のパターンから生物学的な年齢を推定する数理モデル。2013年に発表されたHorvath時計を皮切りに多数のモデルが開発されている。ただし規制当局が承認した評価基準ではなく、感染症や食生活、測定する細胞の種類によっても数値が動くため、治療効果の指標として使うには限界が指摘されている。
【参考リンク】
ASHBi(京都大学)— 大規模クロマチン解析による急性骨髄性白血病の新分類(外部)
京都大学とカロリンスカ研究所による共同研究の詳細。
東北メディカル・メガバンク機構(ToMMo)(外部)
エピゲノムデータ室を含む研究組織の公式サイト。
【参考記事】
As billionaires chase immortality…|Fortune(外部)
Life Biosciences「ER-100」のFDA治験許可取得を報じた一次報道。CEOへの直接取材を含む。
Epicrispr Completes Enrollment and Dose Escalation in First-in-Human EPI-321 Trial for FSHD|BioSpace(外部)
EPI-321の治験で12人全員への投与完了を報じた記事。
Epigenetic editors enter clinical trials|Chemistry World(外部)
Tune Therapeutics、Chroma Medicine(現nChroma Bio)、Sangamoなど、エピゲノム編集企業群の技術動向をまとめた記事。
Up or Down? Chroma Medicine Raises Stakes in Epigenetic Editing|GEN(Genetic Engineering & Biotechnology News)(外部)
2021年からの資金調達ラッシュなど、業界の投資動向をまとめた記事。
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Sinclair氏の経歴やエピゲノム時計の限界など、若返り研究への慎重な視点を含む記事。
Epigenetic editing: from concept to clinic|Nature Reviews Drug Discovery(外部)
エピジェネティック編集の技術的な発展を総括した学術レビュー。


















