スマートウォッチが健康データを記録するだけでなく、その場で身体の変化を読み取る端末になったら、健康管理のあり方はどう変わるのでしょうか。Samsungの新たな研究から、クラウドに依存しない「腕元の健康AI」がどこまで現実に近づいているのかを見ていきます。
Samsung Research Americaは、ウェアラブル由来の生体信号を学習する健康基盤モデル「xMAE」と「HiMAE」を開発した。
xMAEはECGとPPGの時間的関係を学び、約9,400時間のデータによる事前学習後、19種類の評価タスク中15種類で比較対象を上回った。HiMAEは短期・長期の時系列を階層的に処理し、Galaxy Watch 8上で1ミリ秒未満の推論を実証。クラウドに依存せず、端末上で生体信号をリアルタイム解析する可能性を示している。
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From Biosignals to Health Insights: Samsung Research’s Work on Health Foundation Models
【編集部解説】
健康AIを「クラウドへ送って分析する」前提から変える
今回の研究で特に注目したいのは、Samsungが健康AIの高性能化だけでなく、スマートウォッチそのものの上で動かせるモデルを研究している点です。
HiMAEは、ウェアラブルが取得する時系列データを複数の時間スケールで分析する自己教師あり学習モデルです。ICLR 2026で発表された論文では、従来のウェアラブル向け基盤モデルより小規模なモデル構成を採りながら、複数の分類・回帰・生成タスクで比較対象を上回ったと報告されています。
さらに研究チームは、HiMAEをSamsung Galaxy Watch 8上で実際に動作させています。論文の実験では、Wear OSを搭載したGalaxy Watch 8のCPU上で、100Hzで取得した10秒間の生体信号を入力し、推論時間を測定しました。その結果、モデルは1回の推論を1ミリ秒未満で処理できたとしています。
ここで意味を持つのが、「クラウドサーバーに送らなければ高度な健康AIを利用できない」という制約を小さくできる可能性です。Samsung自身も、HiMAEについて、生の健康信号をクラウドサーバーに依存せずリアルタイムで解析するオンデバイス健康基盤モデルの可能性を示した研究と位置付けています。
ただし、今回実証されたのは基盤モデルの推論処理をスマートウォッチ上で実行できることです。Samsung Healthの特定機能がHiMAEで動いていることや、Galaxy Watchユーザーへの提供時期が決まったことを意味するものではありません。Samsungの発表にも製品への実装時期は記載されていません。
「測るデバイス」から「その場で理解するデバイス」へ
これまでのウェアラブルは、心拍数、睡眠、運動量などのデータを継続的に記録することが大きな役割でした。今回の研究が示しているのは、その先にある「取得した生体信号を端末内で解釈する」という方向です。
HiMAEでは、心拍のような短い時間単位で意味を持つ変化と、睡眠や活動のような長い時間単位で見えてくるパターンを、異なる階層で処理します。1つの事前学習モデルから複数の時間解像度の特徴を取り出せるため、用途ごとに大型モデルを用意するのではなく、小型の基盤モデルを複数の健康タスクへ展開する設計が可能になります。
もう一つの研究であるxMAEも、この方向を補強しています。xMAEは心電図(ECG)と光電式容積脈波(PPG)の時間的な関係を学習し、取得しやすいPPGから心臓活動に関係する特徴を捉えようとするモデルです。研究では、19種類の評価タスクのうち15種類で単一信号モデルや既存のマルチモーダル手法を上回ったと報告されています。
つまりSamsungの研究は、ウェアラブルに搭載するセンサーを増やすだけではなく、すでに取得している生体信号からAIがどこまで情報を引き出せるかという方向にも進んでいます。
オンデバイス化がそのまま「医療」になるわけではない
オンデバイス処理には、通信環境への依存を抑えながら短い遅延で処理できるという技術的な利点があります。一方で、今回の研究結果だけから、病気の診断や医療判断までスマートウォッチ単体で行えると考えるべきではありません。
xMAEとHiMAEで示されているのは、主に生体信号から有用な特徴を学習し、複数の下流タスクに利用できるという研究成果です。HiMAE論文も、ウェアラブル上での推論性能を示していますが、一般ユーザーを対象とした臨床的な有効性や、医療機器としての承認を実証した研究ではありません。
また、端末内で処理できることは、生体データをクラウドへ送信する必要性を減らせる可能性がありますが、今回の論文はプライバシー保護効果そのものを評価したものではありません。オンデバイス化とデータ管理の設計は分けて考える必要があります。
現時点での到達点は、「スマートウォッチ級のハードウェアでも健康基盤モデルを高速に動かせることを研究環境で示した」という段階です。ここからSamsungが実際のGalaxy WatchやSamsung Healthへどう組み込み、どの健康機能を端末内で処理するのかは、まだ明らかになっていません。
それでも、ウェアラブルの役割が「身体のデータを集めてクラウドへ渡す端末」から、身体の変化を腕元で継続的に読み取るAI端末へ広がる可能性を、具体的なハードウェア上で示した点は重要です。健康AIの進化を見るうえでは、モデルの精度だけでなく、「どこで推論が行われるのか」も今後の重要な評価軸になりそうです。
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【編集部後記】
Samsungの今回の研究を見て、スマートウォッチはそろそろ「測定する機械」という枠を越え始めているのかもしれない、と感じました。これまで健康データの解析は、どこかクラウドの向こう側で行われている印象がありましたが、それが腕元で完結するとなると、急に身近な技術に見えてきます。一方で、健康に関する情報だからこそ、AIがどこまで判断してよいのかは慎重に考える必要があります。個人的には、診断を任せるというより、自分では気づけない小さな身体の変化を知らせてくれる存在になってくれたら、とても心強いです。
毎日身につけている時計だからこそ、こうしたAIとの相性はかなり良いのではないでしょうか。
スマートウォッチが「時間を見るもの」から、身体を理解するための相棒へ変わっていく過程を、今後も追っていきたいです。
【用語解説】
健康基盤モデル(Health Foundation Model)
大量の健康・生体データから汎用的な特徴を事前学習し、睡眠分析、心血管関連の予測、活動状態の分類など複数のタスクへ応用することを想定したAIモデル。
生体信号(Biosignal)
心拍、心電図、脈波、呼吸など、人体の生理的な活動から取得される信号。ウェアラブルでは光学センサーや電極などを通じて継続的に取得される。
ECG(Electrocardiogram/心電図)
心臓が拍動するときに発生する電気的活動を記録した信号。心拍リズムなどの把握に利用される。
PPG(Photoplethysmography/光電式容積脈波)
光を皮膚に照射し、血液量の変化を測定する技術。スマートウォッチなどで心拍を継続的に測定する際に広く用いられる。
自己教師あり学習(Self-Supervised Learning)
大量のデータに人間が個別に正解ラベルを付けなくても、データ自体から学習課題を作り、特徴や構造を学習する機械学習手法。
Masked Autoencoder(MAE)
入力データの一部を意図的に隠し、AIに元のデータを復元させることで特徴を学習させる方式。xMAEとHiMAEはいずれも、この考え方を生体信号の学習に利用。
オンデバイスAI
AIの推論処理をクラウドサーバーではなく、スマートフォンやスマートウォッチなど利用者の端末上で実行する方式。通信への依存や処理遅延を抑えられる一方、端末の計算能力や消費電力などの制約を受ける。
【参考リンク】
Samsung Research America – Digital Health(外部)
Samsung Research AmericaのDigital Health Team公式ページ。ウェアラブルセンシング、健康モニタリング、ECGなど、同チームが取り組むデジタルヘルス研究を掲載。
Samsung Research(外部)
Samsungの研究開発組織公式サイト。AI、ヘルスケア、次世代通信などの研究成果や論文を公開。
Samsung Health(外部)
Samsungの健康・フィットネスプラットフォーム公式ページ。Galaxy Watchなどから取得した心拍、睡眠、活動、体組成などの情報を確認・管理できる。
【参考記事】
From Biosignals to Health Insights: Samsung Research’s Work on Health Foundation Models|Samsung Newsroom(外部)
Samsung Research AmericaによるxMAEとHiMAEの研究成果を紹介した公式発表。生体信号を用いた健康基盤モデルとオンデバイス健康AIの方向性を解説。
HiMAE: Hierarchical Masked Autoencoders Discover Resolution-Specific Structure in Wearable Time Series|Samsung Research(外部)
HiMAEの公式研究ページ。複数の時間解像度からウェアラブルデータを学習する仕組みと、スマートウォッチ級CPUでの1ミリ秒未満の推論性能を紹介。
HiMAE: Hierarchical Masked Autoencoders Discover Resolution-Specific Structure in Wearable Time Series|OpenReview / ICLR 2026(外部)
ICLR 2026で発表されたHiMAEの研究論文。モデル構造、各種ベンチマーク、Galaxy Watch 8を用いたオンデバイス推論実験などを確認可能。


















