Music×Tech #08「Heart on My Sleeve」——AIは誰の声で歌うのか

2023年4月4日、あなたがSpotifyを開いたとしたら、その曲に気づいたかもしれません。

DrakeとThe Weekndの新曲——少なくとも、そう聴こえました。二人の声の癖、息継ぎの間、低音の揺れ。どこからどう聴いても、本物にしか聞こえない。TikTokで数百万回再生され、Spotifyのストリーム数は62万5,000を超えていました。

ただし、二人はこの曲のことを何も知りませんでした。

「Heart on My Sleeve」。制作したのはGhostwriter977と名乗る匿名のクリエイターです。自分が書いた曲に、AIが生成した「DrakeとThe Weekndの声」を乗せた。それだけのことでした。

そして4月17日の夜、YouTubeの削除画面にはこう表示されていました。

「This video is no longer available due to a copyright claim by Universal Music Group.」

公開からわずか13日。音楽史上はじめてAIの声が大規模に拡散した出来事は、こうして幕を閉じました。


「電撃を受けた」——それは、誰の感覚だったのか

音楽が技術と交差する瞬間には、いつも誰かの「感覚」があります。

#04で取り上げたKarlheinz Brandenburgは、フラウンホーファー研究所の廊下でSuzanne Vegaの声を聞き、「電撃を受けた」と表現しました。彼の耳が「これは圧縮できない」と反応したその瞬間が、MP3誕生の出発点になりました。

では、「Heart on My Sleeve」を初めて聴いたリスナーたちの感覚は何だったのでしょう。

「本物だ」と思った。一瞬でも。

そして次の瞬間、疑った。「本物なのか?」と。

この「一瞬の錯覚」こそが、この事件の核心です。技術が音楽に何かを加えたのではなく、技術が「誰かの声」を再現することで、その声に付随していた信頼、期待、記憶——そういったものをすべて借用してしまった。曲の良し悪しの話ではありませんでした。


2023年11月——同じ年に、別の声が戻ってきた

「Heart on My Sleeve」から7か月後、同じ「AIと声」をめぐる出来事が、まったく異なる形で世界に届きました。

The Beatlesの「Now and Then」です。

1980年に亡くなったジョン・レノンの声が、カセットテープに残っていました。ニューヨークのダコタ・ハウス——当時の彼の自宅で録音された、不完全なデモ音源。1995年のアンソロジー・プロジェクトでポール・マッカートニーたちはこの曲を完成させようとしましたが、カセットのノイズとピアノの音がどうしても分離できず、断念しました。

転機は予期せぬところから来ました。映画監督のピーター・ジャクソンが、2021年のドキュメンタリーシリーズ『ザ・ビートルズ:Get Back』を制作するなかで、彼のスタジオWingNut Filmsが機械学習による音声分離技術(”デミックス”)を開発していたのです。「ギターの音だけを除去して」と指示すれば、声だけが残る。

マッカートニーは思い出しました——あのカセットテープのことを。

音源をWingNut Filmsのチームに送ると、数秒後にモニターから聞こえてきたのは、クリスタルのように澄んだジョン・レノンの声でした。「2、3秒すると、非常に鮮明なジョンの声が聴こえてきたんだよ!」マッカートニーはその瞬間をそう振り返っています。

そこにリンゴ・スターの新録パートと、1995年にジョージ・ハリスンが残していたギタートラックが加えられ、2023年11月2日——「ビートルズ最後の曲」はリリースされました。2025年のグラミー賞で最優秀ロック・パフォーマンス賞を受賞。AIを明確に活用した楽曲としては、グラミー史上初の受賞でした。


技術は同じ。何が違うのか

同じ年の出来事です。どちらもAIが「声」に関わっています。

「Heart on My Sleeve」は削除され、「Now and Then」はグラミーを獲った。

この差は、技術の優劣ではありません。

一方は本人の同意なしに声が使われ、もう一方は遺族・バンドメンバー・レーベルが全員関わり、存命メンバーが制作に直接参加した。一方はその声が誰のものかを明かさずに公開され、もう一方は「AIの助けを借りてジョンの声を取り出した」と制作の全工程が丁寧に開示された。

合意、文脈、関係者の承認、そして「誰の声か」の表示——技術の使われ方を分けているのは、技術の外側にあるものです。

この連載で追ってきたように、音楽はいつも技術と一緒に変化してきました。ラジオは冷戦の壁を越え(#07)、MP3は音楽をポケットに入れ(#04)、CDはベートーヴェンの長さで規格を決めました(#05)。そのたびに問いはシンプルでした——技術によって、誰が力を得て、何が変わるのか。

AI時代の問いも、根は同じです。ただ今回は「誰の声で」という次元が加わりました。


声のライセンスを自ら設計する試み

2021年、電子音楽家のHolly Herndonは「Holly+」というプロジェクトを公開しました。

自分の声を学習させたAIモデルを、ツールとして誰でも使えるようにする。音声ファイルをアップロードすれば、Holly Herndonの声で歌われた音源に変換される。利用から生まれた収益は、制作者50%・運営組織40%・Holly Herndon本人10%という分配設計で。

「ボーカルのディープフェイクは今後も続くでしょう。アーティストを保護することと、新しくてエキサイティングな技術を人々に試してもらうことのバランスをとる必要がある」——Herndonはそう語っています。

「声を奪われる」のではなく、「声の使われ方を自分で設計する」。

もっとも、こうした仕組みを構築できるのは、技術・資本・知名度をある程度持つアーティストに限られます。大多数の無名のミュージシャン、あるいはすでに亡くなった音楽家にとって、声の設計権は最初から存在しないかもしれない。Holly+は可能性を示しましたが、すべての答えではありませんでした。


誰かに曲を送ること

2026年6月3日、クジラ夜の街が「初恋」という曲をリリースしました。「渾身のラヴ・ソング」と紹介されたこの新曲を、リリース直後に誰かに送った人もいたかもしれません。LINEで、あるいはDMで、何も言わずにリンクだけを貼って。

音楽を誰かに送る行為の中には、いつも送り主の存在があります。この曲を、あなたに渡したい——という意図。それは声とメロディだけでなく、贈る側の感情と関係性を同伴しています。

「Heart on My Sleeve」がプラットフォームから消えた理由のひとつは、DrakeとThe Weekndの声に付随していた何か——「この声は誰のものか」という帰属の感覚——が無断で借用されたことへの拒絶でもあったように思えます。声は音波のデータですが、同時に、ある人の存在そのものでもある。


「Heart on My Sleeve」から3年後

あの曲が消えてから、音楽業界は少しずつ動いてきました。

Universal Music GroupはUdioと、Warner Music GroupはSunoおよびUdioとライセンス契約を結び、AI生成音楽の収益をアーティストに還元する仕組みの構築が進んでいます。Musical AIのようなスタートアップは、AI生成音楽がどの元データから影響を受けたかを解析し、権利者への分配を可能にする「アトリビューション技術」の実用化を目指しています。「訴訟による排除」から「技術による共存」へ——業界全体の舵が切り替わりつつある流れは、確かに見えます。

ただ、仕組みができても消えない問いがあります。

その声は誰のものか。その名前は誰が使ってよいのか。そしてAIが生成した歌声を誰かに送るとき——そこに何かが宿るとしたら、それはいったい誰から来ているのか。

技術は答えを出しません。問いをより鮮明にするだけです。それは音楽がずっとそうであったように。


【用語解説】

パブリシティ権 :著名人が自身の氏名・肖像・声などを商業的に利用する権利。アメリカでは州によって保護の範囲が異なります。

デミックス(Demixing):音楽や音声ファイルからボーカル・楽器・環境音などを個別に分離する技術。機械学習の発展により精度が大幅に向上しました。

DAO(分散型自律組織):ブロックチェーン技術を活用し、特定の管理者を置かずにルールとスマートコントラクトで運営される組織形態。Holly+では声の使用承認と収益分配の管理に採用されました。

アトリビューション技術 :AI生成コンテンツが学習に用いた元データを解析・特定し、どの素材がどの程度影響しているかを算出する技術。著作権者への適正な収益還元に向けた取り組みとして注目されています。


【参考リンク】


Music×Tech は、音楽と技術が交差する瞬間を記録するシリーズです。#01 Johnny B. Goode / #02 Gangnam Style / #03 千本桜 / #04 Tom’s Diner / #05 交響曲第9番 / #06 Across the Universe / #07 Mack the Knife

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菊池 紗槻
テクノロジーと民主主義、自由、人権の交差点で記事を執筆しています。 データドリブンな分析が信条。具体的な数字と事実で、技術の影響を可視化します。 しかし、データだけでは語りません。技術開発者の倫理的ジレンマ、被害者の痛み、政策決定者の責任——それぞれの立場への想像力を持ちながら、常に「人間の尊厳」を軸に据えて執筆しています。 日々勉強中です。謙虚に学び続けながら、皆さんと一緒に、テクノロジーと人間の共進化の道を探っていきたいと思います。