Last Updated on 2025-03-21 11:01 by admin
ワシントン大学医学部の研究チームは、遺伝性アルツハイマー病の症状発症を遅らせる可能性がある研究結果を2025年3月に医学誌「The Lancet Neurology」で発表した。
実験的な抗アミロイド薬「ガンテネルマブ」を用いた臨床試験で、最も長く治療を受けた患者サブグループにおいて、症状発症リスクが予想通り50%減少したという結果が得られた。
この研究は、30代から50代の間に認知症を発症する遺伝性アルツハイマー病を持つ人々を対象としており、合計73人の患者が参加した。そのうち最も長く治療を受けた22人のサブグループでは、平均約8年間の治療期間を経て顕著な効果が見られた。
ガンテネルマブはロシュ社が開発した抗アミロイド薬だが、2022年11月に発表された第III相臨床試験「GRADUATE I・II」では主要評価項目を達成できず、開発が中止されていた。一般的なアルツハイマー病患者を対象とした試験では、症状悪化抑制効果がGRADUATE I試験で8%、GRADUATE II試験で6%にとどまり、統計的に有意な効果が認められなかった。
一方、エーザイとバイオジェンが共同開発した抗アミロイド薬「レカネマブ」は、2023年1月にFDAの承認を受け、2025年1月には静注維持投与に関する生物製剤一部変更申請が承認された。レカネマブは臨床試験で症状悪化を27%抑制する効果を示している。
現在、遺伝性アルツハイマー病に対しては、ワシントン大学医学部が主導する優性遺伝アルツハイマーネットワーク試験ユニット(DIAN-TU)による新たな臨床試験「Tau NexGen試験」が2022年1月から進行中であり、レカネマブが抗アミロイド療法による基礎療法として選定されている。また、日本でも2024年3月14日に新潟大学と東京大学の研究チームが遺伝性アルツハイマー病を対象とした国際共同治験の開始を発表した。
アルツハイマー病患者数は2012年に約462万人で、2025年には約675万人、2050年には1,000万人に達すると予測されている。
from:Scientists Announce Possible Breakthrough in Delaying Alzheimer’s
【編集部解説】
アルツハイマー病治療研究において、今回のガンテネルマブに関する研究結果は非常に興味深い転換点を示しています。これまでアルツハイマー病治療薬の開発は数多くの失敗を経験してきましたが、今回の研究は「予防」という新たな可能性を示唆しています。
まず注目すべきは、この研究が対象としているのが一般的なアルツハイマー病ではなく、「優性遺伝性アルツハイマー病(DIAD)」という稀な遺伝性の形態であるという点です。この疾患は30代から50代という比較的若い年齢で発症し、特定の遺伝子変異を持つ人はほぼ100%発症するという特徴があります。
ワシントン大学医学部が主導したDIAN-TU(優性遺伝アルツハイマーネットワーク試験ユニット)の研究は、症状が現れる前の段階から治療を開始することで、発症そのものを遅らせられるかという重要な問いに挑戦しています。これは「治療」から「予防」へのパラダイムシフトを意味するものです。
興味深いのは、ガンテネルマブという薬剤自体は2022年に一般的なアルツハイマー病を対象とした第III相臨床試験(GRADUATE I・II)で主要評価項目を達成できず、開発が中止されていた点です。しかし今回の研究では、特に長期間(平均8年間)治療を受けた22人のサブグループにおいて、症状発症リスクが50%減少するという結果が得られました。
この結果は、アルツハイマー病治療において「いつ」治療を始めるかが「何で」治療するかと同じくらい重要であることを示唆しています。脳内にアミロイドβタンパク質が蓄積し始めてから症状が現れるまでには長い時間がかかりますが、症状が現れてからでは既に脳の損傷が進行しており、治療効果が限定的になる可能性があるのです。
ただし、この研究結果を解釈する際にはいくつかの注意点があります。まず、サンプルサイズが小さいこと(特に長期治療グループは22人のみ)、また主要な結果が事後解析から得られたものであることから、統計的な確実性には限界があります。ロンドン・クイーンメアリー大学のチャールズ・マーシャル教授も指摘しているように、これらの結果は「非常に興奮させるもの」ではあるものの、小規模な研究からの二次的評価であるため、確実性は主要試験結果ほど高くないという点に留意する必要があります。
また、ガンテネルマブ自体は現在利用可能な他の抗アミロイド治療薬(レカネマブやドナネマブなど)と比較して効果が低いという指摘もあります。これは、より効果的な薬剤を用いればさらに良い結果が得られる可能性を示唆しています。
安全性の面では、ガンテネルマブ治療を受けた患者の約25%にARIA(アミロイド関連画像異常)と呼ばれる脳の腫れや出血が見られましたが、ほとんどは無症状で、治療中止に至ったケースは少数でした。これは抗アミロイド抗体療法に共通する副作用であり、適切なモニタリングと用量調整によって管理可能とされています。
今回の研究結果は、アルツハイマー病に対する「予防医学」の可能性を広げるものです。特に遺伝性アルツハイマー病の場合、発症リスクが高い人を事前に特定できるため、症状が現れる前から治療を開始するという戦略が実現可能です。
将来的には、一般的なアルツハイマー病に対しても、バイオマーカーや遺伝的リスク因子を用いて高リスク群を特定し、早期介入を行うという予防的アプローチが広がる可能性があります。現在、ワシントン大学医学部を含む複数の研究機関で、より効果的な抗アミロイド薬を用いた予防試験が進行中です。
テクノロジーの進化により、アルツハイマー病の早期診断や予測が可能になりつつある今、治療のパラダイムも「症状が出てから対処する」から「発症前に予防する」へと変化しつつあります。今回の研究結果はその可能性を示す重要な一歩と言えるでしょう。
ただし、現時点ではこれらの治療法は高額であり、定期的な脳画像検査などのモニタリングも必要となるため、医療経済的な課題も残されています。また、無症状の段階から長期間の治療を行うことのリスク・ベネフィットバランスについても、さらなる研究が必要です。
アルツハイマー病は高齢化社会において最も大きな医療・社会的課題の一つです。今回の研究成果は、この難病に対する新たな希望の光を示すものと言えるでしょう。
【用語解説】
優性遺伝性アルツハイマー病(DIAD):
特定の遺伝子変異により、ほぼ100%の確率で発症する稀なアルツハイマー病の形態。一般的なアルツハイマー病と異なり、30代から50代という若い年齢で発症する特徴がある。全アルツハイマー病患者の1%未満を占める。
抗アミロイド薬:
アルツハイマー病の原因と考えられているアミロイドβタンパク質の蓄積を標的とする薬剤。脳内に形成されたアミロイドプラークを除去したり、新たな形成を防いだりする働きがある。
ARIA(アミロイド関連画像異常):
抗アミロイド抗体治療に共通して見られる副作用で、MRI画像で確認される。ARIA-E(脳の浮腫や滲出液)とARIA-H(脳微小出血やヘモジデリン沈着)に分類される。多くは無症状だが、頭痛や錯乱などの症状が現れることもある。
バイオマーカー:
体内の生物学的変化を測定できる指標。アルツハイマー病では、脳脊髄液中のアミロイドβやタウタンパク質の濃度、PET検査によるアミロイド蓄積などがバイオマーカーとして利用される。
CDR-SB(Clinical Dementia Rating-Sum of Boxes):
認知症の重症度を評価する尺度。記憶、見当識、判断力と問題解決、地域社会活動、家庭生活および趣味、介護状況の6項目を評価し、スコアが高いほど認知障害が大きいことを示す。
【参考リンク】
ワシントン大学医学部(外部)
ミズーリ州セントルイスにある医学部で、アルツハイマー病研究の世界的拠点。DIAN(優性遺伝性アルツハイマーネットワーク)を主導している。
【編集部後記】
アルツハイマー病の「治療」から「予防」へのパラダイムシフト。この研究成果は、私たち一人ひとりの未来にどのような影響をもたらすでしょうか?ご家族や身近な方に認知症の方がいる方も多いかもしれません。脳の健康を維持するために今からできることは何か、また将来的に予防医学がどう発展していくのか、一緒に考えてみませんか?皆さんが考える「テクノロジーと医療の理想的な融合」とは、どのような形でしょうか。SNSでぜひ教えてください。