チャップマン大学とエモリー大学、ジョージア工科大学の共同研究チームが、スマートフォンで爪の写真を撮影するだけで貧血を検出できるAI搭載アプリを開発し、従来の血液検査に匹敵する精度を実現したと発表した。
チャップマン大学ファウラー工学部の創設学部長であるL・アンドリュー・ライオン博士とエモリー大学・ジョージア工科大学のウィルバー・ラム博士らの研究チームは、人工知能を活用して爪の写真から貧血を検出するスマートフォンアプリを開発したと5月13日(現地時間、日本時間5月14日)に発表した。この研究成果は『Proceedings of the National Academy of Sciences』誌に掲載された。
貧血は世界で20億人以上が罹患している血液疾患で、アメリカでは約8300万人が高リスクとされている。従来の貧血診断には、クリニックでのCBC血液検査、ヘモグロビンおよびヘマトクリット分析、末梢血塗抹検査が必要であった。
開発されたアプリは、ユーザーが爪の写真を撮影するだけで、非侵襲的に貧血の兆候を検出する。アプリは畳み込みニューラルネットワーク(CNN)とスペクトル解析を活用し、爪の色調、透明度、血管パターンなどの特徴をヘモグロビン濃度と相関させる機械学習モデルを使用している。
研究チームによると、このアプリは感度89%、特異度93%を達成し、ゴールドスタンダードの臨床検査と匹敵する精度と性能を示した。ヘモグロビン推定値の平均絶対誤差は±0.72g/dLで、ヘモグロビン値が10g/dL以上のユーザーでは±0.50g/dLまで向上した。
アプリは既に20万人以上のユーザーによって140万回以上のテストが実施されており、アメリカ全土での大規模な実証研究が行われている。特に慢性腎疾患やがん患者など慢性貧血患者向けのパーソナライゼーション機能により、測定精度が約50%向上し、平均絶対誤差が±1.36g/dLから±0.74g/dLに改善された。
さらに、アプリから収集された位置情報データにより、アメリカ初の郡レベルでの貧血有病率マップが作成され、人口統計学的および地理的パターンに関する新たな知見が得られた。この技術は現在Sanguina社にライセンスされ、AnemoCheckアプリとして商用化されている。
ライオン博士は「8年以上にわたる研究の成果であり、ヘルスケアのアクセシビリティ向上に向けた意義深い一歩である」と述べている。このアプリは特に医療インフラが限られた地域や十分なサービスを受けられない地域での大規模な疫学的監視を可能にし、公衆衛生政策や資源配分、標的介入の指針となる可能性がある。
from:
AI app clicks nail selfie to detect blood condition affecting billions | Digital Trends
【編集部解説】
チャップマン大学、エモリー大学、ジョージア工科大学の共同研究チームが開発したこのAI貧血検出アプリは、単なる技術的な革新を超えて、ヘルスケアの根本的なパラダイムシフトを示唆しています。従来の血液検査という侵襲的な手法から、完全に非侵襲的なスマートフォンベースの診断へと移行する可能性を秘めているのです。
この技術の最も革新的な側面は、畳み込みニューラルネットワーク(CNN)とスペクトル解析を組み合わせた機械学習アルゴリズムにあります。爪の色調、透明度、血管パターンといった微細な視覚的特徴をヘモグロビン濃度と相関させることで、従来は血液サンプルでしか測定できなかった生体指標を推定することに成功しました。
特筆すべきは、このアプリが単なる研究段階の技術ではなく、既に実用化段階にあることです。140万回以上のテストと20万人以上のユーザーという規模は、デジタルヘルス分野では異例の大規模実証研究といえるでしょう。感度89%、特異度93%という精度は、現在のポイントオブケア診断機器と同等以上の性能を示しています。
このアプリの商用化を担うSanguina社は、2021年のリローンチ以降、11万人以上のユーザーを獲得し、50万回以上のテストを実施してきました。2023年1月には、パーソナライゼーション機能を搭載したプレミアム版を発表し、50%の精度向上を実現しています。
この技術が持つ社会的インパクトは計り知れません。特に医療アクセスが限られた地域や、頻繁な血液検査が必要な慢性疾患患者にとって、ゲームチェンジャーとなる可能性があります。慢性腎疾患やがん患者向けのパーソナライゼーション機能により、測定精度が約50%向上したという結果は、在宅医療の質的向上を示唆しています。
しかし、この技術には潜在的なリスクも存在します。スマートフォンのカメラ性能や照明条件による測定誤差、ユーザーの撮影技術による影響、そして何より医師による診断の代替ではないという点を明確にする必要があります。開発チームも、このアプリは自己診断ではなく、医療提供者への相談タイミングを判断する警告システムとしての位置づけを明確にしています。
アプリから収集される位置情報データによる全米初の郡レベル貧血有病率マップの作成は、公衆衛生政策に有益な一方で、プライバシーの観点からも慎重な取り扱いが求められるでしょう。匿名化されたデータの集約により、貧血のホットスポットを特定し、標的介入や資源配分の最適化が可能になります。
規制面では、このアプリは現在Sanguina社にライセンスされており、同社は既にFDA承認済みの在宅貧血検査キット「AnemoCheck Home」を提供しています。完全非侵襲的な診断アプリとしてのFDA承認取得は、デジタル診断機器の新たな規制フレームワーク構築の先駆けとなる可能性があります。
長期的な視点では、この技術は貧血検出にとどまらず、他の血液疾患や生体指標の非侵襲的測定への応用が期待されます。スマートフォンという身近なデバイスを活用した診断技術の普及は、予防医学の概念を根本的に変革し、個人の健康管理をより能動的で継続的なものに変えていく可能性を秘めているのです。
【用語解説】
貧血(Anemia):血液中の赤血球数やヘモグロビン濃度が正常値より低い状態。酸素運搬能力が低下し、疲労感や息切れなどの症状を引き起こす。世界で20億人以上が罹患している。
ヘモグロビン(Hemoglobin、Hgb):赤血球に含まれる鉄を含有するタンパク質。酸素と結合して全身に酸素を運搬する役割を担う。正常値は男性で13.5-17.5g/dL、女性で12.0-15.5g/dLが一般的。
畳み込みニューラルネットワーク(CNN):画像認識に特化したディープラーニングのアーキテクチャ。畳み込み層、プーリング層、活性化層などで構成され、画像の特徴を自動的に抽出・学習する。
スペクトル解析:光や信号などの波を成分に分解し、各成分の強度を分析する手法。この技術では爪の色調や透明度の微細な変化を数値化して解析している。
感度(Sensitivity):実際に陽性(この場合は貧血)である人を正しく陽性と判定する割合。89%の感度は、貧血患者100人中89人を正しく検出できることを意味する。
特異度(Specificity):実際に陰性(この場合は非貧血)である人を正しく陰性と判定する割合。93%の特異度は、非貧血者100人中93人を正しく判定できることを意味する。
パーソナライゼーション:個人の過去の血液検査データを用いてAIアルゴリズムを個別最適化する機能。慢性疾患患者の測定精度向上に寄与し、約50%の精度改善を実現する。
慢性腎疾患(CKD):腎機能が慢性的に低下する疾患。エリスロポエチン産生低下により貧血を合併することが多く、定期的なヘモグロビン値モニタリングが必要。
平均絶対誤差(MAE):予測値と実際の値の差の絶対値の平均。このアプリでは±0.72g/dLを達成し、ヘモグロビン値10g/dL以上では±0.50g/dLまで向上している。
【参考リンク】
Chapman University Fowler School of Engineering(外部)カリフォルニア州オレンジにある私立大学の工学部。今回の研究を主導したL・アンドリュー・ライオン博士が創設学部長を務める。バイオメディカル工学分野で先進的な研究を展開している。
Sanguina Inc.(外部)アトランタを拠点とするヘルステック企業。AnemoCheckアプリの開発・運営を行い、非侵襲的な貧血検査技術のライセンスを保有している。2021年のリローンチ以降、11万人以上のユーザーを獲得。
Emory University School of Medicine(外部)ジョージア州アトランタにある医学部。共同研究者のウィルバー・ラム博士が所属し、小児血液学とバイオメディカル工学分野で先進的な研究を行っている。
Georgia Institute of Technology – Wallace H. Coulter Department of Biomedical Engineering(外部)ジョージア工科大学とエモリー大学の共同バイオメディカル工学部。今回の研究における技術開発の中核を担った機関の一つ。
Proceedings of the National Academy of Sciences (PNAS)(外部)アメリカ科学アカデミーが発行する査読付き学術誌。今回の研究成果が掲載された権威ある科学ジャーナル。
【参考動画】
【参考記事】
AI-powered app enables anemia screening using fingernail selfies | Science Daily
A photo of a fingernail can now be used to detect and monitor for anemia | Emory University News
AI-powered app enables anemia screening using fingernail selfies | Medical Xpress
【編集部後記】
スマホで爪を撮るだけで貧血がわかるなんて、数年前なら完全にSFの世界でしたね。でも実際に20万人以上が使って140万回もテストされているとなると、もはや現実のものです。特に慢性疾患の患者さんにとって、頻繁な採血から解放されるインパクトは計り知れません。ただ、これが医師の診断を完全に代替するものではないことは忘れてはいけないポイント。あくまで「気づき」のツールとして、適切に活用していくことが大切ですね。テクノロジーが医療をより身近にしてくれる、そんな未来の一歩を感じさせる技術だと思います。