2026年6月7日、香港大学(HKU)工学部 電気・コンピュータ工学科と先端半導体・集積回路研究センター(CASIC)の研究チームが、極低温で動作するプログラマブルなニューロモーフィック・ハードウェア・プラットフォームを開発したと発表した。ユーハオ・チャン教授と博士課程の学生シン・ヤン氏が率いるチームは、業界標準の炭化ケイ素(SiC)MOSFETで負性微分抵抗(NDR)を生成・制御する手法を発見し、1個のトランジスタが10mKの低温で生体ニューロンのスパイキング挙動を模倣できることを実証した。SiC MOSFETは2K以下で電子供与体衝突電離(EDII)による「S字型」NDR挙動を示す。300mmウェハーでの製造が可能であるという。成果は『Nature Communications』に掲載された。
【編集部解説】
まず押さえておきたいのは、この研究が「香港大学の単独成果」ではなく、HKUとVirginia Tech(バージニア工科大学)による国際共同研究だという点です。論文の責任著者にはチャン教授とともにVirginia TechのLinbo Shao氏が名を連ね、謝辞では実験がVirginia Techで行われたことが記されています。プレスリリースは香港大学発のため自校を前面に出していますが、実態は両機関にまたがるプロジェクトです。
なお時系列にも一言。論文自体は2026年3月23日にNature Communicationsで公開されており、今回のHKUプレスリリース(6月7日)はそれを改めて広く発信したものです。「6月に論文が出た」わけではない点は、押さえておくと正確です。
次に、見出しの「脳型チップ(brain-like chip)」という表現について。これはニューロモーフィック(神経模倣型)回路を平易に言い換えたもので、実際に作られたのは脳全体ではなく、生体ニューロンの「発火」を1個のトランジスタで再現する素子です。世間でよく聞くAIチップとは設計思想が異なります。
この研究の核心を、少し噛み砕いておきましょう。
超伝導方式など多くの量子コンピューターでは、量子ビットは絶対零度に近いミリケルビン(mK)という極低温で動作します。ところが、その量子ビットを操作する制御回路は熱を出すため、冷却器の中で量子ビットから離れた場所に置かざるを得ません。両者をつなぐ大量の配線が熱とノイズを持ち込み、量子ビットを増やす際の「渋滞ポイント」になっていました。これが業界で「配線ボトルネック(interconnect bottleneck)」と呼ばれる長年の課題です。
研究チームは、電気自動車や電力網ですでに量産されている炭化ケイ素(SiC)製トランジスタが、2K以下に冷やすと特異な電気的振る舞い(負性微分抵抗=NDR)を示すことを突き止めました。これを使えば、量子ビットのすぐ隣に置けるほど低発熱な制御素子を作れる可能性がある——というのが今回のポイントです。動作は約10mK(論文中の実測では9.4mKまでNDRを確認)という、宇宙空間より冷たい環境でも確認されています。
技術的な強みは再現性にあります。論文によれば、このNDRは材料に含まれる窒素の不純物準位という「原子レベルの性質」に由来するため、異なる製造ロット間でも閾値電圧のばらつきはわずか0.06Vにとどまったと報告されています。多くの新型素子が抱える「作るたびに特性が変わる」問題を回避できる可能性があり、ここが量産化の鍵になります。
一方で、数字の扱いには冷静さも必要です。プレスリリースは「従来比で数千倍エネルギー効率が高い」と述べていますが、論文本文の表現はより慎重で、消費エネルギーは「最先端のCMOSやメモリスタ技術と競合する水準」とされています。しかも、その低消費電力値(1スパイクあたり13〜42フェムトジュール)は、素子を1平方マイクロメートルまで微細化したと仮定した「試算値」です。実際に試作されたのはミリメートル級の市販部品を使った概念実証段階で、こちらの実測値はナノジュール級にとどまります。実用化までの距離は正しく見積もっておくべきでしょう。
それでも、この成果がもつ意味は小さくありません。
第一に、量子コンピューティングのスケーラビリティです。量子エラー訂正やリアルタイム制御を量子ビットの近傍で処理できれば、超伝導方式で大規模化を進める各社のアプローチに新しい選択肢が加わります。
第二に、深宇宙探査への応用です。月面や太陽系外縁のような極低温環境では、従来のシリコンベース回路には消費電力や安定動作の面で厳しい制約があります。極低温でこそ性能を発揮するこの回路は、探査機の自律処理を担う候補になり得ます。論文の冒頭でも、宇宙背景放射温度である2.7Kでの集積回路動作が深宇宙応用の文脈で挙げられており、宇宙応用が単なる修辞ではないことがうかがえます。
潜在的なリスクや留意点にも触れておきます。量子コンピューティングの大規模化は、現行の暗号方式を破る能力にもつながるため、各国が進める耐量子暗号(PQC)への移行を一段と急がせる側面があります。また、SiCは現在EV市場が需要を牽引する重要な半導体材料でもあり、その動向は半導体サプライチェーンをめぐる議論とも接点を持ち得ます。基盤技術の進展は、規制や標準化の論点を一歩先に呼び込みます。
長期的に見れば、この研究の意義は、編集部の見立てとして「ニューロモーフィックと量子という二つの次世代計算パラダイムが、極低温という一点で交差し始めた」点にあると考えています。脳に学んだ省エネ計算が、人類のもっとも繊細な計算機と、もっとも遠い宇宙の両方を支えるかもしれない——innovaTopiaが今このニュースを取り上げる理由は、まさにその交差点に未来の輪郭が見えるからです。
なお付言すると、論文が主張する「世界初」は、ニューロモーフィック回路そのものではなく、単一トランジスタによるゲート制御NDRとして実装した点にあります。極低温ニューロモーフィック回路には先行研究も存在するため、この限定を踏まえて読むと、成果の輪郭がより正確に見えてきます。
【用語解説】
ニューロモーフィック(神経模倣型)回路
脳の神経細胞(ニューロン)が信号を「発火(スパイク)」させて情報を伝える仕組みを電子回路で再現する技術。常に電力を消費する従来型回路と違い、必要なときだけ動くため省電力性に優れる。
負性微分抵抗(NDR)
通常、電圧を上げれば電流も増えるが、ある領域では電圧を上げると逆に電流が減る特異な電気的振る舞いのこと。この「逆転」がスイッチや発振の引き金として使え、今回のニューロン素子の核となっている。
炭化ケイ素(SiC)MOSFET
ケイ素と炭素の化合物半導体で作られたトランジスタ。高温・高電圧に強く、電気自動車や電力網ですでに量産されている。今回はこれを極低温で新用途に転用した点が新しい。
量子ビット(qubit)
量子コンピューターの計算単位。0と1を重ね合わせて扱えるが、極めて繊細で、ミリケルビンの極低温で外乱から守る必要がある。
ミリケルビン(mK)/ケルビン(K)
絶対温度の単位。0K(絶対零度)は約マイナス273.15℃。10mKは絶対零度のわずか100分の1度上で、宇宙空間よりも冷たい人工環境にあたる。
電子供与体衝突電離(EDII)
今回のNDRを生む物理メカニズム。極低温で凍りついた電子が、電界によって弾き出され雪崩的に増える現象。熱に頼らず材料の原子構造に由来するため再現性が高い。
スパイキング/積分発火(integrate-and-fire)ニューロン
入力が一定量たまると一気に信号を「発火」する、生体ニューロンの基本動作。今回は感覚ニューロン、論理ニューロン、積分発火ニューロンの3種が実証された。
量子エラー訂正(QEC)
量子ビットのエラーを検出・修正する技術。大規模な量子計算に不可欠で、量子ビット近傍での高速処理が求められる。
カスケード接続(縦続接続)
複数のニューロン素子を数珠つなぎにして、より大きな回路網を構成すること。今回その動作が実証された。
希釈冷凍機(dilution refrigerator)
ミリケルビン領域まで冷却できる装置。量子コンピューターの心臓部を収める。冷却能力に限りがあり、発熱を抑えることが大きな課題となる。
耐量子暗号(PQC)
量子コンピューターでも破られにくいよう設計された次世代の暗号方式。量子計算の大規模化が現実味を帯びるほど、移行の必要性が高まる。
ファウンドリ
半導体の製造を専門に請け負う工場。既存ファウンドリで作れることは、量産・低コスト化の鍵になる。
【参考リンク】
香港大学(The University of Hong Kong)公式サイト(外部)
本研究を担った香港の総合研究大学。工学部とCASIC(先端半導体・集積回路研究センター)が研究を行った。
香港大学 電気・コンピュータ工学科(HKU ECE)(外部)
研究チームが所属する学科の公式サイト。半導体デバイスや集積回路、量子技術などの研究教育を行っている。
Nature Communications(論文掲載誌)(外部)
本研究の原著論文が掲載されたオープンアクセス誌。デバイス物理や回路構成などの技術的詳細を無料で確認できる。
Virginia Tech(バージニア工科大学)(外部)
共同責任著者のLinbo Shao氏が所属する米国の研究大学。論文の謝辞によれば実験が行われた拠点でもある。
Massachusetts Institute of Technology(MIT)(外部)
チャン教授が博士号・修士号を取得した米国の工科大学。本文の研究者プロフィールに登場する。
NIST Post-Quantum Cryptography(CSRC)(外部)
米国NISTによる耐量子暗号(PQC)の標準化プロジェクト。本文で触れたPQC移行の公的背景を確認できる。
【参考動画】
研究内容そのものを解説する香港大学やNature Communicationsの公式動画は、現時点で確認できなかったため掲載を見送る。
【参考記事】
Quantum Computing Wiring Bottleneck Cracked by HKU Silicon Carbide Chip at Qubit Temperature(TechTimes)(外部)
量子ビットと同じ10mKで動く初の制御チップとして、数千量子ビットへの大規模化を阻む配線問題を回避する道筋と位置づけた記事。
HKU Engineering Develops World-First Cryogenic Neuromorphic Chip to Advance Quantum Scaling(Quantum Computing Report)(外部)
EDIIが結晶格子固有の物理現象であるため再現性が高く、300mmウェハーで量産できる優位性を詳述した記事。
SiC Transistors Mimic Brain Cells At 10mK For Quantum Control(Quantum Zeitgeist)(外部)
SiC MOSFETの安定したS字型NDRで、絶対零度近傍のニューロン的スパイキング動作を実現した技術的勘所を整理した記事。
Brain-inspired chip runs near absolute zero and could transform quantum computing(ScienceDaily)(外部)
標準SiCトランジスタを新たな使い方で単一ニューロンとして動かした点を解説。共著者全11名とDOIを明記した記事。
New cryogenic silicon carbide hardware addresses quantum computing bottleneck(Phys.org)(外部)
研究の全体像を中立的にまとめ、量子コンピューターの大規模化と深宇宙探査という二つの応用先を併記した科学ニュース。
HKU Engineering Develops ‘Brain-Like’ Chip to Advance Quantum Computing And Deep-Space Exploration(The Quantum Insider)(外部)
量子エラー訂正からリアルタイム制御、深宇宙探査まで応用範囲を整理した業界専門メディアの記事。
【関連記事】
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【編集部後記】
「脳に学ぶ」と「量子を操る」。別々の文脈で語られてきた二つの潮流が、極低温という一点で重なり始めたことに、私たちは静かな興奮を覚えています。とはいえ今回の成果は、市販部品を使った概念実証の段階。フェムトジュール級という数字も、微細化を前提とした試算です。
だからこそ、ここから何が現実になり、何が課題として残るのか——その歩みを、みなさんと一緒に追いかけていけたらと思います。次にこの技術の名前を聞くのは、どんなニュースのときでしょうか。












