AIチップの競争は、演算性能をどこまで高めるかだけでは決まりません。ロボットやドローンの中でAIを常時動かすには、データをどう保持し、どれだけ動かさずに計算できるかが重要になります。STとNUSの共同研究は、その設計思想をどこまで変えようとしているのでしょうか。
2026年8月24日、STMicroelectronicsとシンガポール国立大学(NUS)は、次世代エッジAIを研究する「ST–NUS HELIX Corporate Lab」を設立した。研究期間は4年間で、Embodied AIや生成AIを低消費電力の端末上で動作させる技術を開発する。
研究ではメモリ中心アーキテクチャやインメモリコンピューティングを重点とし、STMicroelectronicsのP18 18nm FD-SOIと組み込み型PCMを活用。AIモデルからアクセラレータ、メモリ、回路、シリコン実装までを統合的に研究し、データ移動に伴う消費電力や遅延などエッジAIの課題解決を目指す。
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STMicroelectronics and NUS launch Corporate Lab to power the future of Edge AI in Singapore
【編集部解説】
AIチップの性能はTOPSなどの演算性能で比較されることが多いですが、HELIXが重点を置いているのは、それとは少し違う問題です。STMicroelectronicsは、ニューラルネットワークでは演算そのものより、データを移動させる処理が大きなエネルギーを消費する場合があると説明しています。
従来型のコンピュータでは、プロセッサとメモリが分かれており、演算のたびにデータを両者の間で移動させます。STはこれに対し、メモリと演算器を同一チップ上で近づけるNear-Memory Computing、さらにメモリ内部で演算するIn-Memory Computingへと進む方向を示しています。
一方、HELIXが対象とするエッジ機器では、電力や物理サイズに厳しい制約があります。さらにセンサーから情報を受け取り、その場で判断して動作するため、リアルタイム性も要求されます。
そのため、エッジAIでは「演算器をどれだけ高速にするか」だけでなく、「必要なデータをどこに置き、どれだけ動かさずに計算できるか」が重要になります。HELIXがメモリ中心アーキテクチャを研究の中心に据えている理由はここにあります。
HELIXでは、STのP18 18nm FD-SOIと組み込み型Phase Change Memory(PCM)が研究基盤に使われます。P18 FD-SOIは低消費電力動作と適応型ボディバイアスに対応し、PCMはSRAMと同じダイ上に高密度な不揮発性メモリを配置できます。
不揮発性メモリは電源を切ってもデータを保持できます。STが描くさらに先の構成では、こうしたメモリを単にAIモデルのパラメータを保存する場所として使うだけでなく、メモリ配列そのものを演算にも利用します。STは非揮発性In-Memory Computingについて、モデルの重みをメモリから移動させず、その場所で計算できる構成として説明しています。
これは「プロセッサを高速化して、そのプロセッサへデータを届ける」という従来の発想とは異なります。演算能力を増やす前に、そもそもデータを遠くまで運ばなくて済む構造に変えるという考え方です。
今回のHELIXは、In-Memory Computingという構想を初めて研究するプロジェクトではありません。
STによると、同社は2023年のISSCCで18nm FD-SOIを用いた完全デジタル方式のIn-Memory Computingアクセラレータを発表しており、最大4bitの精度で40〜310TOPS/Wを記録しています。
ただし、この数値だけを現在の商用AIアクセラレータと単純比較することはできません。精度や演算条件、対象となるワークロードが異なるためです。重要なのは、STがIn-Memory Computingをシミュレーション上のアイデアとしてではなく、実際のシリコン上で検証してきた点です。STは、この研究が2017年頃から続く技術開発の延長上にあると説明しています。
HELIXでは、そこからさらに研究範囲を広げます。AIモデル、システムアーキテクチャ、異種アクセラレータ、オンチップメモリ階層、回路、チップ統合、シリコン実装までを一つの研究対象として扱います。
つまり、今回の発表で注目すべきなのは特定のアクセラレータ単体ではなく、AIモデルとメモリ、演算器、半導体技術を別々に最適化するのではなく、システム全体として設計する方向へ研究対象を広げたことです。
HELIXがEmbodied AIを対象としている点も、この研究方針とつながっています。
ロボットやドローンは、カメラや各種センサーから絶えずデータを受け取り、認識、判断、動作を繰り返します。STとNUSは、こうしたシステムではマルチモーダルセンシング、オンデバイス演算、リアルタイム制御を、小型で電力制約のあるハードウェア上で実行する必要があると説明しています。
クラウドにデータを送り、結果を待ってから動く構成だけでは対応しづらい用途が増えれば、AI処理をデータが生まれる場所へ近づける必要があります。そのとき、演算性能と同じくらい重要になるのが、モデルやセンサーデータをどこに保持し、どう演算器へ渡すかです。
HELIXはまだ4年間の研究プロジェクトであり、今回発表された研究成果がそのまま製品化されたわけではありません。どのアーキテクチャが実際の製品へ採用されるのか、性能や消費電力が既存方式に対してどの程度改善するのかも現時点では示されていません。
それでも今回の研究テーマを見ると、エッジAIの競争軸が単純な「演算器の性能」だけではなくなりつつあることが分かります。AIをクラウドからロボットやセンサーの内部へ移すには、プロセッサだけでなく、メモリとデータ移動まで含めてコンピュータの構造を見直す必要があります。HELIXは、その設計をAIモデルからシリコンまで一体で検討する研究拠点として位置づけられます。
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【編集部後記】
AIチップというと、ついTOPSや演算性能の数字ばかり見てしまいます。でも今回の記事で印象に残ったのは、「計算する」より「データを動かす」ことが大きな負担になるという点でした。ロボットやドローンの中でAIが常時動くなら、メモリをどこに置くかまで性能そのものになっていくのでしょう。PCMを保存先ではなく演算の一部として使う発想も、コンピュータの構造自体が変わっていく感じがして面白いです。
まだ4年間の研究計画で、どこまで製品に落ちてくるかは分かりません。それでも次のAIチップを見るときは、演算性能だけでなく「どれだけデータを動かさずに済むのか」も気にして見たくなりました。
【参考リンク】
STMicroelectronics(外部)
半導体メーカーSTMicroelectronicsの公式サイト。マイクロコントローラ、センサー、AIアクセラレータなど、エッジAIを構成するハードウェアと開発環境を展開。
National University of Singapore(NUS)(外部)
シンガポール国立大学の公式サイト。HELIX Corporate LabではCollege of Design and Engineeringを拠点とし、School of Computingも研究に参加。
ST Edge AI Suite|STMicroelectronics(外部)
ST製ハードウェアへのAIモデルの最適化・実装を支援するツール群。STM32マイコン・MPU、Stellarマイコン、MEMSスマートセンサーなどに対応。
NUS College of Design and Engineering(外部)
HELIX Corporate Labのホスト組織。工学とデザインを横断する教育・研究を行い、AIや半導体を含む研究分野を展開。
【参考記事】
The next decade of edge AI will be won inside memory|STMicroelectronics(外部)
STのChief Innovation OfficerであるGiuseppe Desoli氏が、Near-Memory Computingから不揮発性In-Memory Computingまでの技術ロードマップを解説。AI処理でデータ移動を減らす必要性と、メモリ中心設計の考え方を示す。
STMicroelectronics and NUS launch Corporate Lab to power the future of Edge AI in Singapore|NUS(外部)
NUS側によるHELIX Corporate Labの公式発表。Embodied AI、研究体制、P18 18nm FD-SOI、組み込みPCM、シンガポールでの人材育成などを説明。
次世代マイコン設計を変える18nm FD-SOI技術と組み込み相変化メモリの技術革新|STMicroelectronics(外部)
HELIXでも利用される18nm FD-SOIと組み込みPCMについて、性能、メモリ密度、消費電力、信頼性の観点から解説したST公式ホワイトペーパー。
【用語解説】
エッジAI(Edge AI)
AIによる推論処理をクラウド側だけで行わず、マイクロコントローラ、センサー、ロボットなどデータが生成される端末またはその近くで実行する方式。通信遅延やクラウドへのデータ転送を抑えられる一方、消費電力やメモリ容量、演算能力に厳しい制約がある。STのEdge AI環境では、STM32マイコンやMPU、Stellarマイコン、スマートセンサーなどが対象。
In-Memory Computing(インメモリコンピューティング)
データをメモリから演算器へ何度も移動させるのではなく、メモリ内部またはその近傍で演算を行うコンピュータアーキテクチャ。STは、ニューラルネットワークではデータ移動が大きなエネルギーを消費することから、SRAMや不揮発性メモリを演算にも利用する方式を研究している。
FD-SOI(Fully Depleted Silicon On Insulator)
シリコン基板とトランジスタ層の間に絶縁層を設けた半導体技術。STのP18 18nm FD-SOIでは、低消費電力動作やボディバイアスによる性能・消費電力の調整が可能で、HELIXの研究基盤として採用される。
PCM(Phase Change Memory/相変化メモリ)
材料の物理状態を変化させて情報を記録する不揮発性メモリ。電源を切ってもデータを保持できる。HELIXではSTの組み込み型PCMを利用し、オンチップSRAMとともにメモリ階層を構成する。
Embodied AI(エンボディドAI/身体性AI)
AIをロボット、ヒューマノイド、ドローンなどの物理システムへ組み込み、センサーによる認識、オンデバイス演算、リアルタイムの動作を組み合わせるアプローチ。HELIXでは、電力やメモリに制約のある端末上でこうしたAIを動作させることを主要な研究対象としている。


















