消防士になるということは、煙の向こうへ踏み込む覚悟を持つことです。しかし訓練の現場では、その「向こう側」を再現することが長年の課題でした。安全管理上の限界、指導員の数、コスト——複数の制約が重なり、一人の学生が濃煙の中で動く感覚を体で覚える機会は、常に不十分でした。そこにゲーム開発の技術が入ってきました。東京消防庁がスタートアップと組んで開発した消防訓練VRが、初任学生119名への実証を経て、学習効果の深化とコスト適正化の両面で可能性を確認しています。
東京消防庁と株式会社マンカインドゲームズが共同開発した「消防活動訓練VRアプリ」が、東京消防庁消防学校での実証フェーズを終えた。同アプリは、東京都主催のピッチイベント「UPGRADE with TOKYO」第41回で優勝した提案(実施期間:2025年2月〜2026年1月)を起点に開発されたものである。
実証では、消防学校の初任学生119名が会議室でVR訓練を体験した。濃煙による視界不良の再現、ゲーミフィケーションによる行動フィードバック、マルチプレイでの小隊連携など、実科訓練では実施が困難な体験をVR空間で補完。その結果、既存の実科訓練の学習効果をさらに高める可能性が確認された。
運用面では、既存のAFT(模擬消火訓練装置)と比較して実施コストを約90%、必要指導員を100%削減できることが示された。学生1回あたりのコストは約16,666円から約1,666円に下がる試算で、専用施設も不要となる。「バックドラフト」「床抜け」「崩落」といった現実では再現が難しい危機的シナリオも安全に体験可能で、危機管理意識の向上も狙う。マンカインドゲームズは今後、本実証で得た知見を応用し、官公庁・民間企業向けの「バーチャル防災訓練」事業を展開する方針を示している。
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東京消防庁×ゲーム技術。「視界ゼロ」の現場を再現するVR訓練、初任学生119名への効果検証で「学習の深化」と「コスト適正化」の可能性を確認
【編集部解説】
「ゲームの動機づけ」を生命を扱う訓練に持ち込むこと
今回のシステムで注目すべきは、「ゲーミフィケーション」の組み込み方です。低い姿勢の維持、残圧確認といった行動を検知してアラートを出し、終了後にスコアでフィードバックする——これはゲーム設計が長年磨いてきた行動形成の仕組みそのものです。
このアプローチには、世界的に積み重ねられてきた論争があります。賛成派は、エンゲージメントの向上、知識定着、能動的学習の促進を挙げます。一方で批判派は、安全という本来真剣に向き合うべき領域を「ゲーム化」することの副作用を指摘してきました。具体的には、スコア獲得が目的化することで本来の安全行動が歪む可能性、報酬最適化のために手順を急ぐリスク、競争意識が冷静な判断より優先されてしまう恐れなどです。
ただ、今回のシステムは、競争よりも自己評価の客観化に重点を置いた設計に見えます。スコアは終了後に「自分の行動の振り返り」として提示され、学生間の順位競争を煽る仕組みは少なくとも表立っては組み込まれていません。実証アンケートで「煙で本当に周りが見えなくなると実感し、退路を常に確保しておけと言われていた意味を強く理解できた」という声が拾われていることからも、座学で頭に入れた原則がVR体験を介して身体感覚と結びついた、という方向の効果が読み取れます。
この設計が成功するかどうかは、最終的には運用次第です。指導員が監視業務から解放された分、何を担うのか——スコアの数字を超えた、行動の文脈や判断の質をどう振り返らせるか——という、教育者側の課題が新たに浮上してきます。
数字の意味:90%削減が解放しているのは何か
プレスリリースで強調されている「実施コスト約90%削減」「必要指導員100%削減」という数字は、単なる効率化指標として読むとこの記事の核心を取り違える可能性があります。
学生1人あたりの訓練コストが約16,666円から約1,666円に下がるという試算は、年間1,800回という想定回数を前提にしたものですが、本質的な変化はコスト額そのものではなく、「反復回数の上限が事実上外れる」ことにあります。AFT(模擬消火訓練装置)では指導員2名の配置と専用施設が必須で、学生一人が訓練できる頻度は施設稼働と人員配置に縛られていました。VRなら、ゴーグルを装着するだけで2m×2mの空間で完結します。これは学生が「自分が納得するまで」反復できる環境を意味しており、消防学校担当者のコメントもまさにその点に期待を寄せていました。
ただし、ここには率直に書いておかねばならない留保があります。VRが再現できないものは多くあります。実火災の熱気、湿気、重量級装備を背負っての体力消耗、長時間の活動による疲労、そして仲間と自分の命を同時に背負う心理的圧力。プレスリリースの分析でも、VR訓練は「熱さや作業困難性の再現は依然として困難」と明記されています。今回のシステムは「実科訓練を代替するもの」ではなく、これまで構造的に再現できなかった層——濃煙下の判断、視界ゼロでの動作、起きれば致命的な稀少事象の擬似体験——を補完するものとして位置づけられています。
「経験の壁」を技術で迂回する発想は、今度はゲーム開発技術の応用として消防教育の現場に到達しました。しかし最終的な現場対応力が、訓練装置の中だけで完成しないという事実は、おそらく次の100年も変わりません。VRが何を提供でき、何を提供できないのか——その境界を正確に見定めることが、このシステムが社会実装されていく上での実務的な焦点になっていくはずです。
【用語解説】
ゲーミフィケーション
ゲームの設計要素(スコア、フィードバック、達成条件の明示など)をゲーム以外の活動に応用する手法。学習・トレーニング・業務改善などの分野で行動変容や動機づけに活用される。点数化や段階的な達成感の設計が中心となる。
AFT(模擬消火訓練装置)
消防訓練で使用される模擬消火訓練装置の略称。実際の火災に模した炎や煙を制御装置で発生させ、消火ホースを用いた消火訓練を行うための専用施設・装置。実物に近い感覚を得られる一方、専用施設、複数の指導員、消耗品コストが不可欠となる。
バックドラフト
酸素不足の密閉空間で燃焼が継続し、開口部が生じた瞬間に酸素が一気に流入することで起きる爆発的な燃焼現象。1991年公開のアメリカ映画のタイトルとしても知られる。消防活動中の重大事故原因の一つで、対処には扉の温度確認や換気の調整などの手順が求められる。
【参考リンク】
株式会社マンカインドゲームズ(外部)
Unity / Unreal Engineを核にゲーム・XRコンテンツをワンストップで開発する東京都千代田区のスタートアップ。消防訓練VRの開発元。
UPGRADE with TOKYO(外部)
東京都主催のスタートアップ×行政機関のピッチイベント。今回のVR訓練は第41回テーマ「xR技術等を活用した消防活動訓練の充実」から生まれた。
Meta Quest(Meta)(外部)
今回の消防訓練VRで使用されたスタンドアローン型VRヘッドセット。PC接続不要で動作し、セキュリティ制約が厳しい行政施設への導入を可能にした。
東京消防庁(外部)
東京都の消防機関。年間100万件超の出動実績を持ち、消防学校での訓練体制も全国的な規模を誇る。今回の実証では初任学生119名が対象となった。
【参考記事】
東京消防庁への消火訓練VRシステムの導入に向けた取組を開始(PRTimes、2024年11月)(外部)
プロジェクト開始時点のプレスリリース。ピッチイベント優勝発表と当初の応用構想(地震・津波等の災害対応訓練への展開)を含む。
Integrating VR/AR/MR/XR into Fire and Rescue Service Training: A Systematic Literature Review(MDPI Fire, 2025)(外部)
VR/AR/MR/XRを消防・救助訓練に統合した事例の系統的文献レビュー。FLAIM Systems等の既存システムと研究動向を網羅する査読付き学術論文。
SWOT Analysis of VR for Firefighter Training(Frontiers in Robotics and AI, 2019)(外部)
VR消防訓練の強み・弱み・課題を分析した早期の査読論文。技能転移の検証不足、VR酔いなど現在も有効な課題を指摘している。
Gamification in Safety Management: Engaging or Trivialising Serious Matters(Scratchie, 2024)(外部)
安全管理領域におけるゲーミフィケーションの効果と論争を整理した解説記事。スコア最適化による本来目的の歪みなど批判的論点を含む。
【編集部後記】
ゴーグル越しに、119名の学生が何度も濃煙の中を歩いた——その積み重ねが、いつかどこかで誰かの命につながっていきます。火事に遭ったとき、最初に駆けつけてくれる人がどれだけ訓練を重ねてきたか、私たちは普段、意識することがありません。リンクトレーナーから約100年、シミュレーターは訓練を支え続けてきました。技術が補えるものと、現場の身体だけが学べるもの——その境界線は、これから誰によって引かれていくのでしょうか。












