オンラインで食品や衣料品を選ぶとき、写真だけでは伝わらないものがあります。それが「質感」です。柔らかさ、粘り気——指先で触れてはじめて分かるはずのその感覚を、触らずに視覚だけで伝えることができるとしたら。NTTの研究者たちが、その問いに向き合った世界初の成果を発表しました。ARと日常デバイスだけでどうやって質感の錯覚を起こすのか、その仕組みと可能性を解説します。
2026年5月12日にNTTが発表した研究成果によると、拡張現実(AR)環境において仮想対象の変形パラメータを操作することで、柔らかさや粘り気といった質感を非接触で提示する錯覚手法が世界で初めて考案された。
専用の触覚デバイスを使わず、PCやスマートフォンのカメラと通常のディスプレイのみで質感の錯覚を実現する。柔らかさは押込量と空間変形範囲の組み合わせで、粘り気はちぎれ距離(指を離した際に仮想対象が伸びる長さ)でそれぞれ制御できることを参加者実験で確認した。成果の一部はIEEE Transactions on Visualization and Computer Graphicsに掲載済みで、5月20日からのオープンハウス2026でデモ展示が予定されている。

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世界初、柔らかさや粘り気を触らずに伝える錯覚手法を考案 ~身近なデバイスで遠隔地に質感を伝え、体験価値向上に寄与~
【編集部解説】
今回の研究の意味を正確に理解するには、この技術が属する研究の系譜から見る必要があります。
視覚的なフィードバックを通じて触覚の錯覚を引き起こす手法は「Pseudo-haptics(疑似触覚)」と呼ばれ、研究の歴史は2000年代初頭に遡ります。Anatole Lécuyerらの研究グループは2000年のIEEE Virtual Reality会議において、マウスやSpaceballなどの入力デバイスと組み合わせた視覚フィードバックの操作だけで、摩擦感や剛性感を錯覚させられることを示しました。カーソルが減速する視覚的変化が抵抗感を生む——その原理は25年後の今も本研究の根幹に変わっていません。
では今回の研究の新規性はどこにあるのか。Pseudo-hapticsの研究は長らくVR環境の中で発展してきており、「剛性」「摩擦」「重量」といった力覚的な感覚の再現が主な対象でした。これに対してNTTの研究は、「柔らかさ(弾力性)」と「粘り気(粘性)」というより複雑な質感属性の提示に正面から取り組み、どのような変形パラメータの組み合わせがどの程度の錯覚を生むのかを、130名規模の参加者実験で体系的に解明した点に固有の貢献があります。
さらに決定的な工学的選択として、専用の触覚デバイスを一切使用しないことを前提に置きました。PCやスマートフォンのカメラと通常のディスプレイだけで成立するシステム設計です。研究としての知見の深さと、社会実装への距離の近さを同時に追求した、この選択に研究の骨格があります。論文タイトルに含まれる「elicit touch desire(触りたさを喚起する)」というフレーズも示唆的です。質感を「正確に伝える」だけでなく、「触れてみたい」という欲求そのものを生み出すことを射程に置いた研究だということです。
触覚伝達技術の地図──NTTの手法はどこに位置するのか
触覚を伝える技術は複数の系統に分かれており、それぞれにコストと再現性のトレードオフがあります。整理すると、大きく5つの系統に分類できます。
第一は「力覚デバイス」です。PHANToMやSenseGloveといった機器が代表的で、モーターやアクチュエータによる物理的な反力をユーザーの手や指先に与えます。再現精度は高いものの、機器が大型で高価であり、外科手術のシミュレーターや産業用の遠隔操作など専門的な用途に限られます。
第二は「振動触覚デバイス」です。スマートフォンのバイブレーションやゲームコントローラーのHD振動がこれにあたります。小型・安価ですが、伝えられる情報は主に「テクスチャ(表面の粗さ)」や「衝撃」に限られ、柔らかさや粘り気を表現することは技術的に困難です。
第三は「超音波空中触覚」です。Ultraleapや、NTTが東京大学との共同研究として2025年5月に発表した技術がこの系統に属します。超音波の焦点制御によって空中の一点に圧力を生み出し、手をかざした状態で触覚を生じさせます。非接触という点でPseudo-hapticsと共通しますが、超音波を皮膚に集束させる専用装置が必要です。
第四は「装着型ハプティクス」です。グローブ型やスーツ型のデバイスが指先や皮膚に直接振動・圧力を加えます。再現性は高い一方、装着のコストと煩わしさがあり、日常的な購買シーンへの導入には現実的な課題があります。
そして第五が「Pseudo-haptics」、つまり今回の研究が属する系統です。専用のハードウェアを一切付け加えることなく、既存の画面とカメラだけで質感の錯覚を生み出す。コストの低さと導入ハードルの低さという点で、EC・遠隔コミュニケーション・教育といった大衆的な応用文脈との親和性が際立っています。
NTTが選んだのは、「物理の再現」ではなく「知覚の操作」というアプローチです。これは応用領域から逆算した判断と言えます。
EC返品問題への現実的解と射程
この技術が最もインパクトを持ちうる文脈のひとつが、ECにおける質感の伝達困難という問題です。
経済産業省「令和6年度電子商取引に関する市場調査」によると、2024年の国内BtoC-EC市場規模は26兆1,225億円に達しています。物販系分野のEC化率を業種別に見ると、衣類・服装雑貨は23.38%、食品・飲料・酒類は4.52%です。EC化率の差は、商品の質感がオンラインで伝わるかどうかと密接に関係しています。「書籍・映像・音楽ソフト」が56.45%とEC化が最も進んでいるのは、タイトルと品番が明確で、実物を手に取る必要性が低いからです。
Recustomerが2023年度に実施した自社プラットフォーム内データによる調査(同社導入企業を対象)では、導入企業の平均返品率は6.61%ですが、アンダーウェア・下着は15.1%、靴・スニーカーは11.1%と突出して高くなっています。いずれも質感・サイズ感が購買判断に大きく影響する分野です。
NTTの技術が実用化されれば、ECサイト上で商品の柔らかさや粘り気を体感できるようになり、この返品率の低減に直接貢献できる可能性があります。
ただし、現在の技術が伝えられるのは「柔らかさ」と「粘り気」という2つの質感属性に限られています。食品の「とろみ」「コシ」、衣料の「シャリ感」「しなやかさ」、素材の「摩擦感」など、消費者が購買時に感じ取る質感は多次元的です。温度感や重量感、香りといった属性は現段階では対象外であり、「ECの質感問題を解決した」と断言できるものではありません。足場の一段が組まれた、というのが正確な表現です。
「錯覚で十分なのか」という新しい問い
今回の研究が提起する問いで、研究論文では正面から扱われていないが将来的に無視できなくなるもの——それが「錯覚で十分なのか」という問いです。
Pseudo-hapticsは本質的に「知覚の操作」であり「物理の再現」ではありません。実際の素材が持つ物理的な弾性係数や粘性係数とは無関係に、視覚的な変形の見せ方だけで柔らかさや粘り気の錯覚を引き起こします。これ自体は学術的に問題を孕みません。しかし、応用文脈では新しい責任問題を生み出します。たとえばECで「柔らかさ★★★★★」と提示された商品が実際に届いたとき、購入者の知覚した柔らかさと実物の柔らかさにギャップがあれば、それは誰の責任なのか。錯覚のパラメータを誰がどのように決めるのか。実物の物理特性とAR上の変形パラメータの対応関係は、業界標準として整備される必要があるのか——。
こうした問いは、現段階では研究室の中で語られる仮想的なものに見えるかもしれません。しかし、技術がEC事業者の商品ページに実装される段階になれば、消費者保護の論点として浮上してきます。「写真と実物が違う」という伝統的なECのクレームに、「触覚と実物が違う」が加わる日は、思っているより遠くないかもしれません。
NTTの触覚研究系譜が示すもの
最後に、組織戦略の観点から触れておきます。今回の研究を率いるNTTコミュニケーション科学基礎研究所は、視覚を通じた質感伝達の研究を継続的に積み上げてきました。
2024年9月には資生堂との共同研究を開始し、2025年5月には超音波空中触覚を発表、そして2026年5月の今回の発表に至ります。基礎研究を社会実装へつなぐパスを、複数のアプローチで並行して設計しているように見えます。
本研究は2026年5月20日からNTT CS研のオープンハウス2026でデモ展示される予定です。論文の数値で示された錯覚効果が、実際にどこまで再現性のある体験として成立するのか——「分かった気」になる前に、自分の手で確かめてみる価値がある対象です。
【用語解説】
Pseudo-haptics(疑似触覚)
視覚情報を操作することで、実際には触れていないにもかかわらず触覚の錯覚を引き起こす手法の総称。専用の触覚デバイスを必要とせず、視覚と触覚の感覚統合の仕組みを利用する。
力覚デバイス
ユーザーの手や指先に物理的な反力や抵抗を与えることで、物体の硬さや形状を体感させる装置。外科手術のシミュレーターや産業用遠隔操作などに用いられるが、装置が大型かつ高価なため一般消費者向けの普及は限られている。
空間変形範囲
本研究で用いるパラメータのひとつ。仮想対象を押し込んだ際に変形が周囲にどの程度広がるかを示す。この広がりの大きさが柔らかさの知覚を左右することが実験により示された。
ちぎれ距離
本研究で用いるパラメータのひとつ。指を仮想対象から離した際に、対象がどの程度まで伸びてから切れるかの長さ。この距離が長いほど粘り気を強く感じることが確認された。
IEEE Transactions on Visualization and Computer Graphics(TVCG)
米国電気電子学会(IEEE)が発行する、コンピューターグラフィックス・視覚化・ヒューマンコンピューターインタラクション分野の国際学術誌。本分野における代表的な査読付き学術誌のひとつ。
【参考リンク】
NTT株式会社(外部)
NTTグループの持株会社。コミュニケーション科学基礎研究所など複数の研究所が基礎研究を担う。
NTT コミュニケーション科学基礎研究所 オープンハウス2026(外部)
2026年5月20〜22日、大阪・QUINTBRIDGE・PRISMにて開催。最新研究成果のデモ展示に事前登録(無料)で参加できる。
IEEE Transactions on Visualization and Computer Graphics(論文)(外部)
本研究の柔らかさ知覚に関する成果を掲載した査読論文。弾力知覚と「触りたさ」への視覚的特徴の影響を詳細に報告。
NTT技術ジャーナル「触りたさの科学的理解とクロスモーダル知覚に基づく触覚提示法の提案」(外部)
NTT CS研の研究者による解説記事。「触りたさ」の心理学的研究とその応用を一般読者向けに紹介している。
【参考動画】
【NTT】触れずに「粘り気」「柔らかさ」伝える 世界初の技術公開(2026年5月、メディア向け内覧会)
何もない空間に触覚を生み出す…超音波使ったNTT新技術(2025年5月、超音波空中触覚の発表時映像)
【参考記事】
Visual features involved in determining apparent elasticity elicit touch desire(IEEE Xplore)(外部)
川辺享也・氏家弘裕によるTVCG掲載論文。空間変形範囲が柔らかさ知覚と「触りたさ」に影響し、変形範囲のピーク効果を130名の実験で示した中核論文。
Anatole Lécuyer — Pseudo-haptics projects(INRIA)(外部)
Pseudo-haptics概念の提唱者Lécuyerの研究ページ。2000年の起点から現在までの系譜と初期モデルの詳細を確認できる基礎資料。
2024年 BtoC-EC市場調査(コマースピック)(外部)
経済産業省データをもとにした国内EC市場解説。衣類(EC化率23.38%)・食品(4.52%)の差など本技術の応用背景となる数値を参照した。
ECサイト返品率実態調査2023年度(PR Times)(外部)
Recustomer導入企業対象の自主調査。アンダーウェア15.1%・靴11.1%と質感が関わる分野の突出した返品率を示すデータ。
資生堂とNTT、化粧品の触り心地を遠隔・非接触で体験できる技術開発に向けた共同研究を開始(NTT)(外部)
2024年9月開始の共同研究プレス。今回の研究の産業応用フェーズへの布石となる取り組みを示す資料。
【編集部後記】
オンラインで商品を選ぶとき、私たちはすでに多くの「手がかり」を頼りにしています。写真の色合い、レビューの文章、サイズ表の数値——どれも本物ではなく、本物を想像するための代替情報です。今回の技術は、その手がかりに「触覚の錯覚」を加えようとするものです。
ふと気になるのは、「十分に伝わった」という体験と、「正確に伝わった」という事実は、同じなのだろうかということです。私たちはいつ、その問いに向き合うことになるのでしょう。












