病室にいながら、動物園の飼育員と話す。そんな体験が、長期療養中の子どもたちに何をもたらすのか。医療・不動産・公共施設・メタバースプラットフォームという異なる四者が連携して生み出した支援モデルから、メタバースの社会実装が次に向かう場所が見えてきます。
岡山大学病院・近鉄不動産・天王寺動物園・クラスター社の四者が連携し、長期療養中の小児・AYA世代がん患者を対象に、メタバース上で天王寺動物園の現役飼育員が動物解説を行う「バーチャル天王寺動物園ツアー」を開催する。全国30以上の拠点病院・連携施設からタブレットやVRゴーグルを用いて参加でき、患者同士や飼育員との双方向コミュニケーションが可能だ。
メタバース空間「バーチャル天王寺動物園」は、近鉄不動産が天王寺動物園・クラスター社と協働で制作したもので、近鉄不動産調べ(2026年6月)によるとアバターによる体験型メタバース空間としては日本初の取り組みとされる。研究資金はクラウドファンディング「入院中も全国と繋がれる!小児・AYA世代がん患者さん用のメタバース」と公益財団法人日本生命財団の支援によるもので、VRゴーグルやタブレット等の機器購入に充当されている。本企画は、孤独感や社会的隔絶を抱えやすい患者に「コミュニティ」と「治療後の具体的な目標」を同時に提供する支援モデルと位置付けられており、地域格差のない持続可能なケアの実現を目指す。
From:
メタバースが築く、全国の小児・AYA世代患者の「治療の先の未来」|PR TIMES
【編集部解説】
長期療養を強いられる小児・AYA世代のがん患者にとって、孤独は治療と並走する問題です。希少疾患であるがゆえに同じ境遇の仲間に出会いにくく、感染管理や身体的制約から外出も思うままにならない。そうした患者が抱える社会的孤立に対し、岡山大学の長谷井嬢教授らはメタバースを「もう一つの病棟」として位置付け、2023年から全国の小児・AYA世代がん患者が入院中や自宅療養中でも仲間とつながれる交流の場を運営してきました。その取り組みは着実に広がり、現在は全国21病院の患者・医師・看護師・心理士が同じ空間に集まれる環境が整っています。
今回の「バーチャル天王寺動物園ツアー」は、その延長線上にありながら、構造として新しい点があります。岡山大学病院(医療・研究)、近鉄不動産(メタバース空間の構築・運営)、天王寺動物園(コンテンツ提供者)、クラスター社(プラットフォーム)という異なるセクターの四者が役割を分担した連携モデルである点です。これまでの取り組みが「患者同士をつなぐ場」の提供を中心としていたのに対し、今回は「現役飼育員によるリアルタイム双方向解説」という外部コンテンツを医療支援の文脈に接続しています。病院の外にある世界が、病室まで届く設計です。
プラットフォームとしてのclusterは、スマートフォン・PC・VRゴーグルなど様々なデバイスから数万人が同時に接続できる点で、病状や機材環境の異なる患者が参加しやすい基盤になっています。タブレット一台でも参加できるため、VRゴーグルの装着が難しい患者でも排除されない設計は、医療用途への適用として重要な条件です。
一方で、この取り組みが「支援モデルとして再現可能か」という問いは残ります。今回の連携が成立した背景には、近鉄不動産がすでに「バーチャルあべのハルカス」を2023年から運営し、天王寺動物園・クラスター社との三社協定のもとでメタバース空間を構築してきた実績があります。つまり既存のインフラと関係性の上に医療支援の用途が乗っかった形です。全国の病院が類似の取り組みを展開しようとしても、同等のメタバース空間と運営リソースを持つパートナーが地域に存在するかどうかは、自明ではありません。横浜市もメタバースを活用した小児がん患者支援を試行していますが、そのような取り組みが全国に広がるには、今回のような異種連携を引き寄せるための「核」となる組織や資金調達の仕組みが各地域に必要です。
資金調達面でもう一点確認しておく必要があります。今回の研究はクラウドファンディングと公益財団法人日本生命財団の支援によって成り立っており、公的医療保険や病院予算には依存していません。この構造は、取り組みの普及に弾力性をもたらす半面、継続性・安定性の面では不確実性も抱えています。「地域格差のない持続可能なケア」という目標を掲げるのであれば、資金調達モデルそのものの持続可能性も問われることになります。
【用語解説】
AYA世代(エーワイエー世代)
Adolescent and Young Adultの頭文字を取った呼称。主に15歳から39歳までの思春期・若年成人を指す。成長期や人生の転換期(進学・就職・結婚・妊娠など)と治療が重なる特殊な状況にあり、小児がんとは異なる支援ニーズを持つ。
cluster(クラスター)
クラスター株式会社が開発・運営する国内最大級のメタバースプラットフォーム。スマートフォン・PC・VRゴーグルなど複数デバイスから同じ仮想空間にアクセスでき、数万人が同時接続可能。音楽ライブ・展示会・常設ワールドなど幅広い用途で利用されている。
ウェルビーイング(Well-being)
身体的・精神的・社会的に良好な状態にあることを指す概念。医療・福祉分野では、病気の「治療」だけでなく、患者の生活の質(QOL)や社会的つながりを含めた包括的な状態の向上が重視されるようになっている。
【参考リンク】
岡山大学病院(外部)
岡山大学が運営する大学病院。文部科学省の地域中核・特色ある研究大学強化促進事業(J-PEAKS)に採択。小児医療センターを中心に小児がん・難治疾患に高度な医療を提供している。今回の取り組みの研究主体であり、長谷井嬢教授が医療情報化診療支援技術開発講座を率いる。
近鉄不動産株式会社(外部)
近鉄グループの不動産部門中核企業。あべのハルカスをはじめとするオフィスビル・商業施設の運営に加え、バーチャルあべのハルカス・バーチャル天王寺動物園などのメタバース空間を構築・運営。リアルとバーチャルを融合した街づくりを推進している。
地方独立行政法人天王寺動物園(外部)
1915年開園、110年以上の歴史を持つ大阪の動物園。約11ヘクタールの園内におよそ170種1,000点の動物を飼育。近鉄不動産・クラスター社と三社協定を結び、2024年7月にメタバース空間「バーチャル天王寺動物園」を共同開設した。
クラスター株式会社(外部)
「共創空間のOSをつくる」をビジョンに掲げ、国内最大級のメタバースプラットフォーム「cluster」を開発・運営。同社によるとイベント累計動員数は3,500万人超。スマホ・PC・VRなど複数デバイスに対応し、数万人の同時接続が可能。バーチャル渋谷・バーチャル大阪など自治体連携の実績も多数持つ。
READYFOR|小児・AYA世代がん患者さん用のメタバース(外部)
今回の研究の資金調達の一部を担ったクラウドファンディングページ。岡山大学・長谷井嬢教授によるプロジェクトの詳細、患者の声、医療スタッフ見守り体制などの設計思想が掲載されている。目標額456万円に対し866万円超を調達。
【参考記事】
入院中も全国と繋がれる!小児・AYA世代がん患者さん用のメタバース|READYFOR(外部)
岡山大学・長谷井嬢教授が2023年から運営してきたメタバース交流の場の背景・設計・患者の声を詳述。全国21病院が参加し、VRゴーグルやiPadを活用した「もう一つの病棟」構想の全容が分かる。
「バーチャル天王寺動物園」での売上金全額を近鉄不動産・クラスターから「天王寺動物園」に贈呈しました|PR TIMES(外部)
2025年1月に発表された、バーチャル天王寺動物園オープン(2024年7月)から同年12月末までの売上金全額寄附の報告。三社協定の実績とクラスター・近鉄不動産の連携経緯を確認できる。
メタバースによる小児がん患者の交流支援を開催します|横浜市(外部)
横浜市が2024年から独自に試行した小児がん患者向けメタバース交流支援。今回の取り組みと対比することで、自治体主導モデルとの構造的な違いが浮かび上がる。
【関連記事】
クラスター株式会社が創業10周年!「NEXT METAVERSE PROJECT」で日本発メタバースの未来を切り拓く
今回の取り組みでプラットフォームを提供するクラスター社の事業戦略については、こちらの記事も参考にどうぞ。
メタバースと技術革命——人類のコミュニケーションと空間認識を再定義する転換点
メタバースの医療・教育・行政への社会実装の広がりについては、こちらの解説記事もあわせてご覧ください。
【編集部後記】
病室からバーチャルの動物園へ出かけ、退院後に本物の動物園を訪れる。その間にある「具体的な未来の目標」という設計に、私たちはメタバースの一つの使い方を見ます。孤独を和らげるだけでなく、「治療が終わったら行きたい場所」を先に体験させるという発想は、ウェルビーイングへのアプローチとして興味深いものがあります。
同時に、この連携が成立した背景には、既存のインフラと関係性の蓄積があったことも忘れてはなりません。技術よりも先に、誰がどんな動機でリソースを持ち寄るかという問いが、こうした取り組みの広がりを左右します。病室と社会をつなぐ試みが、各地域でどのように根付いていくのでしょうか。












