更年期の睡眠研究は、長い間、医学の空白地帯にありました。そのギャップを埋める手がかりが、意外にも手首のデバイスから生まれました。ハーバード大学公衆衛生大学院は2026年5月、Apple Watchで記録された9万4,000泊以上の実生活データを用いて、閉経周辺期の睡眠変化を大規模に可視化した研究を発表しました。ウェアラブルは何を「見た」のでしょうか。
ハーバード大学公衆衛生大学院(T.H. Chan School of Public Health)は2026年5月、Apple女性健康研究(AWHS)の参加者を対象に閉経周辺期の睡眠変化を調べた分析結果を公表した。対象は338名(25〜59歳)で、Apple Watchで記録された9万4,118泊分の睡眠データを使用。
研究の主な知見として、閉経に至る18ヶ月間で睡眠データのある女性の60%がWASO(入眠後覚醒時間)の増加を示し、平均増加率は7%だった。最後の月経の前後12ヶ月を比較すると、睡眠時間に占める覚醒割合が平均で約0.8%増加した。8時間睡眠に換算すると約4分多く目が覚める計算になる。一方、単に2歳加齢した場合(閉経を経ない)の覚醒割合増加は約0.2%に留まり、閉経に伴う変化は加齢のみによる変化を上回ることが示された。
参加者が記録した主な更年期症状はホットフラッシュ(82.3%)、いらつき(68.1%)、精神的疲労(65.7%)、性的症状(65.6%)で、より重い症状を持つ参加者では膀胱症状・関節症状・動悸・うつ症状が睡眠悪化との関連が強かった。ただし、研究者たちは変化の程度が参加者間で大きくばらつくことを強調している。
Apple女性健康研究は2019年に開始し、Apple Watchとリサーチアプリを活用した大規模長期研究として2025年2月時点で全米35万人以上の参加者を擁する。
【編集部解説】
世界人口のおよそ半数が経験する更年期は、長い間、医学研究の正面から外れた場所にありました。2023年、科学誌Natureは「更年期はその重要性に比して研究が著しく不足している」と指摘する社説を掲載しています。ハーバード大学医学部の研究によると、老化に関する前臨床研究のうち更年期を考慮したものは1%未満に過ぎません。女性の健康研究に割り当てられるグローバルな研究開発資金は全体の5%に過ぎず、そのうち非がん疾患(更年期・不妊など)が占める割合は1%にとどまるとされています。
1993年まで、妊娠可能性のある女性は多くの薬物臨床試験から広く除外されており、女性は医学研究において長らく過少代表の状態に置かれてきました。ホルモン変動や妊娠リスクが「研究結果を複雑にする」という理由で、女性の身体は長らく「ノイズ」として扱われ、今日も使われている多くの薬や治療指針が男性のデータを基準として設計されたままになっています。更年期ともなれば「生殖機能が終わった後」とみなされ、研究上の優先度はさらに下がりました。今回の研究は、そうした構造的な空白の中から生まれた試みです。
9万4,000泊という数字が意味すること
この規模の更年期睡眠研究を可能にした鍵は、Apple Watchを通じて集められた「実生活データ」にあります。従来の睡眠研究は、病院やラボの睡眠検査室(ポリソムノグラフィー)か、参加者の自己申告に依存していました。検査室は精度が高い反面、「ラボで眠る」という非日常的な環境が本来の睡眠パターンを歪め、参加者数・期間・コストの面でも制約が大きいという問題があります。自己申告は日常生活の文脈で情報が取れる一方、記憶の不正確さや主観的なバイアスを避けられません。ウェアラブルはその両方の限界を同時に乗り越える第三の道を開きました。参加者が普段どおりに生活しながら、毎晩のデータが自動的に記録されます。今回の9万4,118泊という数字は、ラボに泊まり込んだ夜の積み重ねではなく、338名の女性が自宅で、仕事の合間に、家族の傍らで眠った夜の総体です。
ただし、この手法には固有の限界もあります。Apple WatchはEEGで脳波を計測するわけではなく、加速度センサーや心拍数から睡眠段階を推定しています。また今回の参加者はApple Watchを購入・使用できる層に限定されており、より経済的に困難な立場にある女性たちの経験は反映されていません。研究者たち自身も「各人の経験はそれぞれ異なる」と繰り返し強調しており、統計的傾向と個人の経験を安易に重ねることへの慎重さが求められます。
「平均4分」をどう読むか
「平均4分多く目が覚める」という数字は、一見すると小さく見えます。しかし、この数字には二つの読み方が重なっています。一方では、閉経に伴う睡眠変化が「加齢だけでは説明できない」ことを示しています。更年期を経ずに2歳加齢した場合の覚醒割合の増加は平均0.2%(約1分)に留まるのに対し、閉経前後の増加は約0.8%(4分)とその4倍です。「年を取れば眠れなくなるのは仕方ない」という通念に対して、更年期固有の影響が存在することをデータが裏付けました。
もう一方では、WASO増加を示したのが60%だということは、残り40%には顕著な変化がなかったということでもあります。より重い症状を持つ人では「平均4分」をはるかに上回る変化があった一方、まったく影響を受けない人もいます。この分散の大きさこそが、研究が伝えようとしている核心ではないでしょうか。更年期は「こうなる」という一本のストーリーで語れるものではなく、個人の身体状況、症状の重さ、ライフスタイル、心理的状態が複雑に絡み合っています。膀胱症状・関節症状・動悸・うつ症状が重い人では睡眠への影響が顕著に大きいこともわかりました。これは「更年期の睡眠問題」を一律に語ることの危うさを示しながら、同時に「自分のパターンを知ること」の価値を示唆しています。
ウェアラブルと研究インフラの並走
研究者たちは発表の末尾で「月経周期を記録するように、睡眠を記録することで、普段のパターンを把握し、変化や異常の兆しにいち早く気づきやすくなる」と述べています。これは研究者向けの結語というより、デバイスを持つ一人一人へのメッセージとして読めます。「最近眠れない気がする」と感じたとき、それが「気のせい」なのか「更年期の典型的な変化」なのか「医師に相談すべき変化」なのかを判断するには、比較できる自分自身のベースラインが必要です。ウェアラブルはそのベースラインを蓄積する道具になりえます。
米国では現在、更年期研究への連邦資金拡充を目指す超党派法案(Advancing Menopause Care and Mid-Life Women’s Health Act、2026年5月)が提出され、上院での審議が進んでいます。ウェアラブルが生み出すデータと、それを活用する研究インフラの整備が、どこまで並走できるか。今回の9万4,000泊は、その問いへの一つの答えであると同時に、次の問いの出発点でもあります。
【用語解説】
閉経周辺期(周閉経期 / 英:perimenopause)
閉経に至るまでの身体の移行期。平均して40代半ば頃から始まり、2〜8年続く。最後の月経から12ヶ月が経過した時点で「閉経」と定義され、周閉経期はそこで終わる。ホルモンの変動が大きく、ホットフラッシュ・睡眠障害・気分の変化などが現れやすい。
WASO(Wake After Sleep Onset / 入眠後覚醒時間)
入眠してから最終覚醒までの間に目が覚めている時間の合計。睡眠の質を測る重要な指標の一つ。WASAが長いほど睡眠が断片化されており、翌日の疲労感や集中力低下につながりやすい。
実世界データ(Real-World Data / RWD)
臨床試験や病院の記録ではなく、日常生活の中で収集されたデータ。ウェアラブルデバイス、電子医療記録、健康アプリなどが主な収集源。実際の生活環境における健康状態を反映するため、厳密に制御された実験環境のデータとは異なる強みと限界を持つ。
ポリソムノグラフィー(PSG)
睡眠医学における標準的な検査方法。脳波・眼球運動・筋活動・心拍・呼吸などを同時に記録し、睡眠段階を詳細に分析する。精度は高いが、医療機関やラボでの一泊が必要なため、大規模・長期的な研究には不向き。
【参考リンク】
Apple Women’s Health Study(ハーバード大学公衆衛生大学院)(外部)
今回の研究を主導するチームの公式ページ。研究目的・参加方法・過去の知見のほか、参加登録も可能。
研究発表「A Transition of Seasons」(ハーバード大学公衆衛生大学院)(外部)
本記事の一次情報源。睡眠のベストプラクティス(PDFダウンロード可)も掲載されている。
Apple Research アプリ(App Store)(外部)
Apple Women’s Health Studyをはじめ、心臓・運動研究、聴覚研究に参加できる公式アプリ。米国在住のiPhoneユーザーが対象。
Apple リサーチアプリ紹介ページ(Apple公式)(外部)
研究参加の仕組みとプライバシーポリシーの概要。データの使われ方を確認したい方向け。
【参考記事】
Apple Watch sleep data helps Harvard researchers study menopause transition(9to5Mac、2026年5月28日)(外部)
本記事の起点となった英語報道。研究の主要データとハーバードの一次発表へのリンクが整理されている。
Women’s health: end the disparity in funding(Nature Editorial、2023年)(外部)
更年期研究の資金不足に警鐘を鳴らすNatureの社説。NIHが更年期に独自の識別コードを持っていない現状を指摘。
Menopause research is globally underfunded. It’s time to change that(Nature、2025年)(外部)
世界主要ファンダーへの取材をもとに、更年期研究の投資不足の現状と変化の兆しを報告した特集記事。
Funding research on women’s health(Nature Reviews Bioengineering、2024年)(外部)
女性の健康研究への資金配分が全体の5%に過ぎないことを指摘。非がん疾患(更年期・不妊等)への配分はさらに低いと論じる。
Women Are Still Under-Represented in Medical Research(TIME、2026年3月)(外部)
女性が医学研究で過少代表される構造的背景を整理。臨床試験における性差の問題を広く取り上げている。
Transforming Clinical Trials: Wearables for Real-World Data(Pharma Focus Asia、2025年)(外部)
ウェアラブルが臨床研究にもたらす可能性と限界を整理した専門家向け解説。実世界データ(RWD)の活用事例も収録。
【編集部後記】
「最近、眠れていますか」と問われたとき、自分の睡眠が年齢のせいなのか、更年期のせいなのか、それともストレスのせいなのか、多くの人はそれを判別する手がかりを持っていません。今回の研究が示したのは、その問いに答えるためのデータを、日常の中で静かに積み上げることができるという可能性です。
94,000泊という数字の向こうには、それぞれ異なる夜がある。眠れた夜も、眠れなかった夜も、データになって研究に届いている。研究に参加した一人ひとりの「普通の夜」が、医学の空白を少しずつ埋めていく。そのことを、私たちは少し誇らしく思ってもいいのかもしれません。












