Thinking Machines Lab「Inkling」発表|975B・マルチモーダルのオープンウェイトモデルが自社データ活用を変える

元OpenAIのトップ技術者がゼロから作り上げたモデルの発表で、開発元は「これは今日いちばん強いモデルではありません」と自ら明言しました。最強を競う場所から一歩降りて、なお注目を集めているのはなぜなのか。その答えは、モデルの性能表ではなく、重みを丸ごと手渡すという配り方のほうに隠れています。


Thinking Machines Lab は2026年7月15日、オープンウェイトモデル「Inkling」を公開した。総パラメータ975B・アクティブ41BのMixture-of-Expertsトランスフォーマーで、最大100万トークンのコンテキストに対応し、テキスト・画像・音声・動画45兆トークンで事前学習された。

テキスト・画像・音声をネイティブに推論し、思考努力を0.2から0.99の範囲で制御できる。同日、アクティブ12BのInkling-Smallのプレビューも公開された。学習はNVIDIA GB300 NVL72上で行われ、事後学習ではKimi K2.5などが生成した合成データによるSFTを経て、3000万超のロールアウトで大規模RLを実施した。Inkling はTinker上で64K・256Kのコンテキスト長でファインチューニング可能で、期間限定50%割引が提供される。フルウェイトはHugging Faceで公開された。

From: 文献リンクInkling: Our open-weights model – Thinking Machines Lab

【編集部解説】

「いちばん強いモデルではない」と自ら言い切る新モデル。それが今回、いちばん語る価値のある部分だと思います。

Inkling を発表した Thinking Machines Lab は、OpenAI で最高技術責任者(CTO)を務めたミラ・ムラティ氏が2025年2月に立ち上げた研究企業です。設立から間もない2025年7月に、120億ドル(12B)の企業価値評価で20億ドルという当時としては過去最大級のシード資金を調達し、その名を一気に知られる存在になりました。Andreessen Horowitz が主導し、Nvidia や AMD、Cisco、Jane Street らが名を連ねています。

ここで押さえておきたいのは、Inkling が「同社にとって初のプロダクト」ではない、という点です。同社は2025年10月に、モデルを微調整(ファインチューニング)するためのAPI「Tinker」を先にリリースしています。今回の Inkling は、あくまで「自社でゼロから学習させた初のモデル」。ビジネスの中心は依然として Tinker にあり、Inkling はその上で自由に育てられる「素材」として置かれている——この関係を掴むと、今回の発表の狙いが見えやすくなります。

では、なぜ「最強ではない」と言い切るのか。

Inkling は総パラメータ975B(9750億)を持ちながら、実際の処理では約41B(410億)分だけを使うMixture-of-Experts(MoE)という設計です。巨大な脳の中から、その場に必要な専門家だけを呼び出す仕組み、と捉えると分かりやすいかもしれません。これにより、大きさと速度・コストのバランスを取っています。

ただ、公開されたベンチマークを見ると、Inkling は多くの項目で GLM 5.2 や Kimi K2.6 といった他のオープンウェイトモデルに及ばない場面もあります。同社はそれを隠さず、「今日いちばん強いモデルではない」と明言しました。狙いは順位表の頂点ではなく、「幅広く、バランスよく、そして自分好みに作り替えられる土台」であること。ベンチマーク競争にあえて乗らない、という選択そのものが、このリリースのメッセージだと私は受け取っています。

「オープンウェイト」という言葉が、なぜ実務家にとって重い意味を持つのか。

Inkling は全重み(フルウェイト)が Hugging Face で公開されています。これは、開発者や企業がモデルそのものをダウンロードし、自社のインフラ上で動かし(自己ホストし)、自社の専有データで微調整し、その成果を自分たちの手元に留められることを意味します。この自己ホストの道を選べば、OpenAI や Anthropic のような従量課金型の中央APIを経由せずに済む——この差は、機密情報を外に出したくない企業にとって、とりわけ大きい。

ひとつ注意しておきたいのは、同じ Inkling を同社の Tinker で微調整する場合は、処理が Thinking Machines Lab の管理するクラウド基盤上で行われる、という点です(同社は顧客データを自社モデルの学習には使わないとしています)。「データを手元に留める」という自由は、あくまで重みを自前の環境に持ち込んで動かしたときの話であり、クラウドのマネージドサービスを使うかどうかは、また別の判断になります。

私が「デジタルの窓口」として情報セキュリティの相談を受ける中でも、「便利だけれど、社内のデータを外部AIに預けていいのか」という不安は本当によく聞きます。オープンウェイトのモデルは、その不安に対する一つの現実的な答えになり得ます。データを自分たちの管理下に置いたまま、最先端の能力を取り込む。ここに、今このニュースを取り上げる意味があると考えています。

一方で、開かれていることには裏側もあります。

重みが誰にでも手に入るということは、安全のための仕組みも、後からの微調整で外されうる、ということです。同社自身も、CBRN(化学・生物・放射性物質・核)やサイバー領域での危険な能力を外部テスターと検証し、FORTRESS などの安全性ベンチマークで良好な結果を示したうえで、「Tinker 上でのファインチューニングが安全挙動にどう影響するかを研究し続けている」と述べています。開かれた力を配る側の責任として、この慎重さは見落とせません。

興味深いのは、Inkling の事後学習の立ち上げに、中国の Moonshot AI が公開する Kimi K2.5 が生成した合成データが使われている点です。開かれたモデルが、別の開かれたモデルを土台に育つ。オープンなエコシステムが互いを踏み台にして積み上がっていく構図は、これからのAI開発の一つの典型になっていくのかもしれません。

最後に、少し視座を上げて。

同社が掲げるミッションは「人間の意思と判断を拡張するAI」です。中央に一つの巨大な頭脳を据えるのではなく、力を可能な限り広く配り、一人ひとりが自分の目的に合わせて作り替えていく。ここで思い出しておきたいのが、開くか閉じるかは決して一本道ではない、ということです。ムラティ氏がかつて所属した OpenAI は、2019年2月に悪用への懸念から GPT-2 完全版の即時公開をいったん見送り、段階的な公開を選びました。ただし同年11月には完全版を公開し、2025年8月には gpt-oss でオープンウェイトモデルの提供にも戻っています。各社は状況に応じて「開く/閉じる」を選び直してきたのであり、今回ムラティ氏が「開く」側から一歩を踏み出したことも、その揺れ動きの延長線上にあると私は見ています。

これはあくまで私の解釈ですが、Inkling が投げかけているのは「AIの価値は、どれだけ強いかではなく、どれだけ自分のものにできるかで測られる時代が来る」という問いなのだと思います。未来に触れ、関わりたい私たちにとって、それは決して他人事ではありません。

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【編集部後記】

自分自身をファインチューニングさせる、という今回のデモが、しばらく頭から離れませんでした。モデルが自らの学習ジョブを書き、実行し、その結果を評価する。人間はゴールを指定するだけです。

道具が道具を研ぐ光景は鮮やかですが、では、そこで最後まで人の手に残すべき判断とは何なのか。合成データがKimi K2.5から流れ込み、モデルがモデルを育てる循環が回り始めた今、「どこで解釈し、どこで責任を引き受けるか」の線引きは、使う私たち一人ひとりの宿題として残されている気がします。


【用語解説】

オープンウェイト(open-weights)
モデルの「重み(学習で得たパラメータ)」を公開し、ライセンスや利用規約、法令の範囲内でダウンロード・改変・自社環境での実行ができる形態を指す。学習コードや学習データまで公開する「オープンソース」とは必ずしも同義ではなく、無条件に自由なわけでもない点には注意したい。

Mixture-of-Experts(MoE/混合エキスパート)
モデル内部に多数の「専門家(エキスパート)」を持ち、入力ごとに必要な一部だけを動かす設計。全体は巨大でも計算量を抑えられる。Inkling は総パラメータ975Bのうち約41Bだけを稼働させる。

アクティブパラメータ
1回の処理で実際に使われるパラメータ数。アクティブ数が少ないほど計算量を抑えやすく、動作が速く安価になりやすい(実際の速度やコストは実装やハードウェアにも左右される)。

コンテキストウィンドウ/トークン
モデルが一度に扱える情報量の上限。トークンは文章を分割した処理単位で、Inkling は最大100万トークンに対応する。

事前学習(pretraining)/事後学習(post-training)
前者は大量データでモデルの基礎能力を作る工程、後者はその後に用途や振る舞いを整える工程を指す。

SFT(教師ありファインチューニング)
正解例を与えてモデルを微調整する手法。Inkling では事後学習の立ち上げに用いられた。

強化学習(RL)/ロールアウト
モデルの出力に報酬を与えて振る舞いを最適化する手法。ロールアウトはその試行1回分を指し、Inkling は3000万回超を実施した。

ファインチューニング(微調整)
既存モデルを特定の用途やデータに合わせて作り替える作業。オープンウェイトなら自社データで自由に行える。

思考努力(thinking effort)
モデルがどれだけ「考える」か(推論の深さや生成トークン量など)を左右する制御値。多く考えれば精度、少なく考えれば速度・低コストに寄る。

合成データ(synthetic data)
人間が作ったデータではなく、別のAIモデルが生成した学習用データ。Inkling は Kimi K2.5 などの出力を初期学習に活用した。

CBRN
化学(Chemical)・生物(Biological)・放射性物質(Radiological)・核(Nuclear)の頭字語。AIの安全性評価で「危険な能力」の代表領域とされる。

FORTRESS
危険な要求(CBRNE、政治的暴力・テロ、犯罪・金融不正など)を拒否できるか、かつ良性のよく似た質問を過剰に拒否しないかを測る安全性ベンチマーク。

【参考リンク】

Thinking Machines Lab(公式サイト)(外部)
ミラ・ムラティ氏が2025年に設立したAI研究企業の公式サイト。ミッションや研究記事、最新ニュースを掲載している。

Inkling(Hugging Face 配布ページ)(外部)
Inkling のフルウェイトが公開されているページ。オリジナル版とNVIDIA Blackwell向けNVFP4版を入手できる。

Tinker(公式サイト)(外部)
オープンモデルを微調整する同社のAPIプラットフォーム。基盤選択から学習・サンプリングまでを支援する。

OpenAI(公式サイト)(外部)
ChatGPT などを開発する企業。ムラティ氏が2024年9月まで最高技術責任者を務めていた組織である。

NVIDIA(公式サイト)(外部)
Inkling の学習に使われたGB300 NVL72の開発元。同社はThinking Machines Labへの出資者でもある。

Hugging Face(公式サイト)(外部)
機械学習モデルを公開・共有するプラットフォーム。Inkling をはじめ多数のオープンモデルが配布されている。

【参考記事】

Mira Murati’s Thinking Machines drops Inkling, an open-weights model anyone can access(SiliconANGLE)(外部)
975B/41B構成やゼロから9カ月未満での開発、GB300での学習、Tinker中心の収益方針を報じた記事。

Mira Murati’s Thinking Machines debuts its first AI model(Axios)(外部)
最終学習にKimi K2.5の生成データを用いた点や、120億ドル評価・20億ドルのシード調達を伝える記事。

AI startup Thinking Machines launches an open-weight AI model(Reuters)(外部)
Inkling公開を報じた通信社記事。中国勢の対抗軸となる西側発オープンモデルという位置づけを伝える。

Thinking Machines amps up its bet against one-size-fits-all AI with Inkling(TechCrunch)(外部)
公開モデルの出力が当面テキストに限られる点や、蒸留・収益方針への言及を含む詳報。

Murati’s Thinking Machines releases first AI model for broad use(Fortune)(外部)
収益源がTinkerであることやBridgewater事例、OpenAI・Metaのオープン化状況を整理した記事。

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山本 達也
『デジタルの窓口』代表。名前の通り、テクノロジーに関するあらゆる相談の”最初の窓口”になることが私の役割です。未来技術がもたらす「期待」と、情報セキュリティという「不安」の両方に寄り添い、誰もが安心して新しい一歩を踏み出せるような道しるべを発信します。 ブロックチェーンやスペーステクノロジーといったワクワクする未来の話から、サイバー攻撃から身を守る実践的な知識まで、幅広くカバー。ハイブリッド異業種交流会『クロストーク』のファウンダーとしての顔も持つ。未来を語り合う場を創っていきたいです。