「代替データを学習させたAIモデルは、手作業による審査よりもはるかに広く『融資可能』な範囲を切り拓ける」——そう語ったのは、本来AIのリスクを警戒する側であるはずの中央銀行総裁でした。世界の金融当局がAIの与信判断への活用に慎重な姿勢を崩さない中、インド準備銀行(RBI)のサンジャイ・マルホトラ総裁は、ムンバイでの講演で踏み込んだ発言をしています。
インド準備銀行(RBI)総裁のサンジャイ・マルホトラ氏は、ムンバイで開催された金融カンファレンスFIBACの講演で、銀行に対しAIをより積極的に与信判断へ活用するよう求めた。対象は、正式な帳簿を持たない零細事業者や初めて借り入れをする人、ギグワーカーなど、従来の審査では融資を正当化しにくい層だ。
キャッシュフローやGST申告、公共料金の支払い履歴、デジタルフットプリントといった代替データを学習したAIモデルを使えば、人手による審査よりも「融資可能」な範囲を広げられるとの見方を示した。一方で、AIの判断根拠が説明しにくい「ブラックボックス問題」や、特定の地域・職業・コミュニティへのバイアス、少数のAIベンダーへの依存集中といったリスクにも言及し、「モデルがそう判断した」は顧客や規制当局への説明にはならないとして、銀行側に人間による実効的な監督の維持を求めた。
From:
India’s central bank wants AI to approve loans that humans would reject
【編集部解説】
なぜ「規制する側」がAI活用を後押しするのか
中央銀行がAIを「抑え込むべきリスク」ではなく「責任を持って活用すべき能力」だと明言するのは、実はかなり珍しい立場です。多くの規制当局は、AIをまず監視・制御の対象として語ります。今回の講演を複数の現地報道と突き合わせると、マルホトラ総裁はAIを、1990年代の経済自由化、2010年代のデジタル化と並ぶ「この10年を規定する変化」として位置づけていたことがわかります。総裁にとって与信へのAI活用は、個別の技術導入というより、インドの銀行業そのものの土台を作り替える動きの一部として語られているわけです。
その基盤として名指しされているのが、Aadhaar(生体認証ID)、UPI(統一決済インターフェース)、DigiLocker、ONDCといった、インドが官民一体で整備してきたデジタル公共インフラです。多くの国では、代替データによる与信判断を語ろうにも、キャッシュフローやGST申告データを機械的に集約する社会的な仕組み自体が整っていません。インドの場合は、この「配線」がすでに国レベルで敷かれている。総裁の踏み込んだ発言は、この既存インフラへの自信の裏返しとも読めます。
もうひとつ見落とせないのが、規制当局自身の監督業務にとっての実利です。AIを使った信用リスクモデルやシナリオ分析は、財務諸表という「遅行指標」が表に出るより前に、金融ストレスの兆候を捉えられると総裁は述べています。これは銀行の与信判断を助けるだけでなく、RBI自身が金融システム全体を見張る目を強化する狙いでもあります。AI活用の後押しは、規制する側にとっても実利のある選択なのです。
「AIでAIと戦う」という切迫感
講演のもう一つの柱として、AIを使った不正への対抗にもAIを充てるという発言があったことも、現地報道からは読み取れます。不正はすでに「APIコール一つ分の速度」で進化しており、ルールベースの不正検知システムはどうしても後手に回る、というのが総裁の見立てです。ここには理想論だけでなく、「対抗手段としてAIを使わざるを得ない」という現実的な切迫感もにじんでいます。
総裁自身が示した、解けていない緊張関係
一方で、この講演がそのまま「AI礼賛」で終わっていない点は誠実です。総裁は「ブラックボックス問題」を名指しし、AIが与信を否認した場合、借り手にも規制当局にも理由を知る権利があると述べました。特定の地域・職業・コミュニティへの偏見が温存されるリスク、少数のAIベンダーへの依存が業界全体のシステミックリスクになりうる点にも触れています。
ただ、ここには構造的な緊張がそのまま残っていると私は感じています。「人間なら断る融資をAIに承認させたい」という狙いは、人間の判断基準を超えてAIの判断を信頼する場面を増やすことを意味します。その一方で総裁は「モデルがそう判断した、は説明にならない」とも述べ、人間による説明・介入・覆す力を手放すなと釘を刺しています。
講演では、AIシステムの棚卸しやガバナンス方針の策定、導入前後のレッドチーム演習、人間による監督の維持など、銀行に向けた具体的な行動指針も示されました。手ぶらで「両立させろ」と言っているわけではありません。ただし、AIの判断を人間より広く信頼することと、その判断を常に人間が検証可能な状態に保つこと——この二つの要請を運用レベルでどう両立させるかという、より踏み込んだ設計までは、講演の中では示されていませんでした。
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【編集部後記】
「人間なら断る融資も、AIになら任せられる」——そう言い切るには、判断の理由をきちんと説明できる仕組みが欠かせません。今回の講演で印象的だったのは、その両立の難しさを総裁自身が正直に語っていた点です。もし身近な銀行や貸金サービスがこの発想を取り入れたら、「説明できる」とはどこまでを指すのでしょうか。
【用語解説】
FIBAC
FICCI(インド商工会議所連合会)とIBA(インド銀行協会)が共催する、インド銀行業界最大級の年次カンファレンス。2026年のテーマは「AI時代の勝ち方(Winning in the AI Era)」。
GST(物品・サービス税)
2017年にインドで導入された、財・サービスの流通にかかる間接税。中央政府・州政府に分かれていた複数の税を統合した制度で、事業者の取引実態を示すデータとしても扱われる。
ブラックボックス問題
AIモデル、特にディープラーニングや生成AIが、自らの判断根拠を人間に説明できない状態を指す概念。説明責任や監査可能性をめぐる課題として議論される。
アンダーバンクト(Underbanked)
銀行口座は保有していても、融資やクレジットカードなど正規の金融サービスを十分に利用できず、高コストな非正規の貸金業者等に頼らざるを得ない状態の人々を指す言葉。
【参考リンク】
RBI公式サイト(Reserve Bank of India)(外部)
インドの中央銀行の公式サイト。金融政策・規制方針・総裁講演の原稿などを公開している。
UIDAI公式サイト(Aadhaar)(外部)
12桁の生体認証ID「Aadhaar」を管理するインド政府機関の公式サイト。インドの人口のほぼ全員が登録する世界最大級のID基盤。
NPCI「UPI」製品ページ(外部)
インドの即時決済システムUPIを運営するNPCI(インド決済公社)による製品概要ページ。
DigiLocker公式サイト(外部)
インド政府が提供する、証明書や公的書類をデジタルで保管・共有できるプラットフォーム。
ONDC公式サイト(外部)
特定のプラットフォームに依存しない、オープンなプロトコルでeコマースの実現を目指すインド政府主導の取り組み。
【参考記事】
Only AI alone can help limit AI frauds, says RBI Governor Malhotra — Business Standard(外部)
AIによる不正検知の必要性と、AIを「この10年を規定する変化」と位置づけた発言を報じる記事。
India Must Shape AI in Banking, Not Be Shaped by It — Open Magazine(外部)
Aadhaar・UPI・DigiLocker・ONDCなど、インドのデジタル公共インフラを基盤としたAI活用の可能性を報じる記事。
India must shape its AI journey rather than be shaped by default — The Tribune(ANI配信)(外部)
講演の日時(2026年8月11日、FIBAC 2026)の確認に使用した記事。


















