「ありがとう」と書くとき、私たちは何気なく仮名を選びます。「感謝」と書くときは漢字を選びます。同じ手で、同じペンで、同じ紙の上に。けれどその瞬間、脳の中では違う配線が働いているとしたら、どうでしょうか。日本語は、音を写す仮名と、意味を担う漢字を、一つの文の中で切り替えながら使う珍しい言語です。その切り替えは、単なる書き分けの習慣ではなく、脳の配線そのものに刻まれているのかもしれない。横浜市立大学の研究チームが、脳卒中で言葉を失った315人の脳を調べ、その手がかりを見つけました。仮名と漢字は、脳の中で違う道を通っていた——文字を書くという、あまりに当たり前の営みの奥行きを、この研究は静かに照らし出します。
横浜市立大学は2026年7月10日、脳卒中後の失語症でみられる日本語の仮名と漢字の書字障害に、それぞれ異なる脳神経線維の損傷が関わることを明らかにしたと発表した。同大大学院医学研究科の伊東毅医師、東山雄一准教授、田中章景主任教授(研究当時)らの研究グループが、横浜市立脳卒中・神経脊椎センター、横浜新都市脳神経外科病院、横浜南共済病院と共同で実施した。
脳卒中後に失語症をきたした患者315名を対象に、MRI画像と標準失語症検査(SLTA)のデータをDisconnectome解析で調べた。その結果、仮名の書字障害は脳の背側の音韻処理に関わる経路の損傷と、漢字の書字障害は腹側の意味・語彙処理に関わる経路の損傷と関連した。
成果は2026年7月1日、国際学術誌「Brain」にオンライン掲載された。
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【横浜市立大学】仮名と漢字の書字障害には異なる脳内ネットワークの障害が関与

【編集部解説】
まず、この研究が「なぜ今」私たちの目に留まるのかをお伝えします。日本語は、音を表す仮名と、意味を担う漢字という2系統の文字を同時に走らせる、世界でも特徴的な書記体系をもちます。その二重構造は、脳が「言葉」をどう処理しているかを外から覗くための、またとない観察窓になります。この問いは従来、少数例の症例報告を中心に語られてきましたが、今回の成果は、315人という多施設の大規模データでその仮説を検証したものです。
研究の核心は、「仮名は脳の背側、漢字は腹側」という関連の偏りにあります。背側経路とは、聞いた音を発話や書字の運動と結びつける「音寄りの通り道」で、弓状束や上縦束といった神経線維の束が関わります。一方の腹側経路は、文字の形や意味を扱う「意味寄りの通り道」で、下前頭後頭束や下縦束が関わります。仮名は音韻の経路、漢字は語彙・正書法の経路への依存が相対的に強い――そんなモデルが、白質ネットワークの解析でも支持されたわけです。ただし両経路には重なりもあり、仮名が音だけ・漢字が意味だけを担うという単純な二分ではない点は押さえておきたいところです。
注目したいのは、結論そのものより「どう調べたか」です。研究チームが用いたDisconnectome解析は、患者一人ひとりに拡散MRIなどの特殊な撮像を行うことなく、健常者178名から作った神経線維の地図に病巣を重ね、どの配線が断たれたかを確率的に推定します。損傷した「点」ではなく、脳の領域をつなぐ「線」の障害を捉える発想です。既存の臨床画像を再解釈してネットワークの障害を統計的に推定する、データ駆動型の画像解析といえます。
臨床への波及は、あくまで今後の可能性としてですが具体的です。書字障害が仮名寄りか漢字寄りかを見極めることは、将来的に、障害の型に応じた評価やリハビリ計画の個別化に役立つかもしれません。高齢化が進む日本において、脳卒中後の失語症は生活に大きな影響を及ぼす重要な後遺症の一つであり、一人ひとりに合わせた訓練設計は生活の質を大きく左右しうるテーマです。ただし今回の研究は、経路を狙った訓練の効果までを検証したものではありません。
あわせて、冷静に見るべき点もあります。これは関連を示した研究であり、その経路の損傷が書字障害の「原因」だと断定したものではありません。主要な関連は脳の左半球の経路で示され、2016〜2024年に3施設で集められた臨床データを解析したという設計上の制約もあります。研究チーム自身、損傷部位の違いで障害の質が変わりうると認め、今後はより詳細な検査を用いた前向き研究で詰めると述べています。ここは誠実な姿勢だといえるでしょう。
最後に長期的な視点について考えていきます。脳の言語処理を「音の経路」と「意味の経路」に分ける二重経路の発想は、大規模言語モデルの内部で言葉がどう表現されているかを探る研究とも響き合うように見えます。実際、2026年2月には、脳卒中後失語症の病巣や誤りのパターンをLLMの解釈可能性研究の手がかりに使う試み(未査読のプレプリント)も公開されました。もっとも、これは人間の脳とAIが同じ仕組みで言語を処理すると示したものではありません。それでも、日本語という特徴的な文字体系が、人間の脳を読み解くだけでなく、人工知能が言語を扱う仕組みを照らす手がかりにもなりうる――そんな未来への糸口は、想像をかき立てます。
【関連記事】
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脳とAIが同じ仕組みで言語を扱うのかを問う研究。本記事の二重経路とAI解釈可能性を結ぶ視点の出発点となる。
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言語野と大規模言語モデルの対応をNature誌が報告。背側・腹側の経路論をAIの側から捉え直す助けになる。
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文字を読む脳領域VWFAの仕組みを解説。仮名と漢字の書字処理を理解するうえで、最も主題の近い記事である。
【編集部後記】
この研究を読んで、最初に手が止まったのは「書けなくなる」という言葉の重さでした。仮名は書けるのに漢字が出てこない。あるいはその逆。それは単に不便というだけでなく、自分の中にあるはずの言葉が、外に出る道を塞がれてしまう経験なのだと思います。
私たちは日々、仮名と漢字を無自覚に往復しています。変換キーを押し、候補から選び、時には手書きで漢字を思い出せずに立ち止まる。そのすべてが、脳の中の別々の通り道を行き来する営みだったとすれば、書くという行為はもう少し敬意を払われてもいいのかもしれません。
もっとも、今回わかったのは「関連がある」というところまでです。仮名は音の道、漢字は意味の道と、きれいに二分できるわけでもない。重なり合う領域もあります。それでも、315人分の脳画像から浮かび上がった赤と青の経路の図を見ると、日本語という文字体系が人間の脳を読み解くための特別な窓になっていることは、たしかに伝わってきます。
そしてもう一つ。言葉を「音」と「意味」の二系統で処理するという発想は、AIが言語をどう扱っているかを探る研究とも、どこか響き合って見えます。もちろん、脳とAIが同じ仕組みで動いていると言えるほどの証拠はまだありません。それでも、人間の言語を理解しようとする営みと、機械の言語を理解しようとする営みが、少しずつ近づいてきている——その気配は感じられます。
次に何かを書き留めるとき、仮名と漢字を選ぶその一瞬に、自分の脳のどこかで信号が分かれていく。そんな想像をしてみると、いつもの手書きが少しだけ違って見えてくるかもしれません。みなさんはどちらの文字のほうが、すらすらと手が動くでしょうか。
【用語解説】
背側経路/腹側経路(はいそく/ふくそくけいろ)
大脳内で言語情報を運ぶ2系統の神経の通り道。背側経路は脳の上側を走り音を運動へ結びつける「音寄りの通り道」、腹側経路は下側を走り形と意味を扱う「意味寄りの通り道」とされる。両者の役割には重なりもある。
弓状束・上縦束(きゅうじょうそく・じょうじゅうそく)
背側経路を構成する主要な神経線維の束。前方(前頭葉)と後方(側頭・頭頂葉)を結び、音韻処理に関わるとされる。
下前頭後頭束・下縦束(かぜんとうこうとうそく・かじゅうそく)
腹側経路を構成する主要な神経線維の束。前後方向に長く走り、意味・語彙・正書法の処理との関連が指摘される。
Disconnectome(ディスコネクトーム)解析
個々の患者の脳損傷部位を、多数の健常者から作った神経線維の地図に重ね、どの白質経路のつながりが断たれたかを確率的に推定する手法。患者本人の特殊な撮像を必要とせず、間接的に推定する点が特徴。
標準失語症検査(SLTA)
日本で広く用いられる失語症検査。「聞く・話す・読む・書く」の言語機能を総合的に評価する。Standard Language Test of Aphasia の略。
【参考リンク】
横浜市立大学(外部)
本研究を主導した公立大学。神奈川県横浜市に所在し、医学部・医学研究科を擁する。本プレスリリースの発信元となった大学である。
Brain(Oxford Academic)論文ページ(外部)
本研究が掲載された国際学術誌「Brain」の論文ページ。オックスフォード大学出版局が刊行する神経学分野の学術誌である。
横浜市立脳卒中・神経脊椎センター(外部)
共同研究に参加した横浜市立の専門病院。脳卒中・神経疾患・脊椎脊髄疾患・リハビリテーションなどを扱う専門機関である。
日本学術振興会(JSPS)(外部)
本研究を支援した科学研究費助成事業を運営する独立行政法人。日本の学術研究を資金面で支える中核的な機関である。
【参考記事】
Two scripts, two pathways(Brain, Oxford Academic)(外部)
脳卒中後失語症315名を解析し、仮名は背側経路、漢字は腹側経路の損傷と関連することを示した、本研究の原論文(一次情報)である。
Structural disconnections in chronic post-stroke aphasia(PMC)(外部)
慢性期失語症76名にDisconnectome解析を適用し、白質経路の離断と言語機能低下の関連を示した本手法の先行研究である。
Naming errors dissociated by dual stream axonal loss(PMC)(外部)
上縦束と下縦束の軸索損傷を計測し、呼称時の音韻性の誤りは背側、意味性の誤りは腹側と結びつくことを示した研究である。
Verbal working memory and syntactic comprehension(Brain Communications)(外部)
慢性期失語症で、言語性ワーキングメモリ負荷は主に背側、統語理解は主に腹側の損傷と関連することを示した研究である。
Alexia and agraphia in Japanese(Wiley)(外部)
日本語の失読・失書を総説的に整理し、仮名と漢字で損傷部位や症状の質が異なる知見を俯瞰できる2022年の論文である。
Stroke Lesions as a Rosetta Stone for Language Model Interpretability(arXiv)(外部)
脳卒中の損傷パターンを言語モデルの内部表現を読み解く手がかりに用いる、2026年2月公開の未査読プレプリントである。












