「量子コンピュータを使っているという実感すらない世界」ーIBM Quantum Japan総括部長の語る10年前から少し未来の量子戦略

[更新]2026年7月2日

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量子コンピュータは、いつ「研究室の中にある特別な装置」から、誰もが利用できる計算基盤へと変わるのでしょうか。

IBMは、その問いに早い段階から実装で向き合ってきた企業のひとつです。2016年、同社は5量子ビットの量子コンピュータをクラウド上に公開し、研究者だけでなく、学生や開発者がインターネット越しに実機へアクセスできる環境を開きました。さらに、量子ソフトウェア開発キット「Qiskit」をオープンソースとして提供し、量子回路の作成、最適化、実行を支える開発基盤を育ててきました。現在では、Qiskitは量子コンピューティングに取り組む開発者や研究者にとって、標準的な選択肢のひとつとして存在感を高めています。

興味深いのは、IBMが量子コンピュータを単に高性能な実験装置としてではなく、クラウド、ソフトウェア、教育、開発者コミュニティ、そして古典コンピュータとの連携を含む「計算基盤」として構想してきた点です。IBM Quantum Platformでは現在も量子コンピュータへのアクセス、Qiskitのドキュメント、学習リソースが提供されており、無料枠を通じて実機で量子回路を実行することもできます。量子コンピュータを一部の専門家だけのものに閉じ込めず、より多くの人が試し、学び、応用を探れるものとして開いてきたのです。

IBM箱崎事業所には今までどのぐらいの量子回路が実行されてきたのかがダッシュボード(アイキャッチ画像)上に記録されていました。400兆回をついこの前超えたそうです。

もちろん、量子コンピュータがすでにあらゆる産業課題を解く段階にあるわけではありません。現在の量子コンピュータにはノイズや誤りの課題が残り、実用化に向けた道のりはなお続いています。しかしIBMは、量子プロセッサーを古典コンピュータ(HPC)と組み合わせることを掲げ、将来的にはユーザーが量子コンピュータを直接意識しなくても、その計算能力を利用できる世界を見据えています。

メインフレームからクラウド、AIまで、時代ごとの計算基盤を支えてきたIBMは、なぜ量子コンピュータをこれほど早く社会へ開いたのでしょうか。Qiskitやクラウド公開を通じて、どのようなエコシステムを築こうとしてきたのでしょうか。そして、「量子コンピュータを使っているという実感すらない世界」は、どのように訪れるのでしょうか。

今回は、IBM Quantum Japan総括部長 堀井 洋氏とIBM東京基礎研究所 副所長 立花 隆輝氏に、IBMがこの10年で積み重ねてきた量子戦略と、少し先の計算の未来について聞きました。

日本IBM株式会社 シニア・テクニカル・スタッフ・メンバー、IBM Quantum Japan 統括部長、IBM research-Tokyo 堀井洋氏
博士(工学)クライアント・テクニカル・リード、IBM Quantum、東京基礎研究所 副所長 立花隆輝氏

量子コンピューティングのデファクトスタンダード『QisKit』はどうやって生まれたの?

野村IBMの量子事業は2016年の段階で量子コンピュータを初めてクラウドに接続するなど、かなり早くから量子コンピューティングを牽引する存在として注目を集めています。なぜ早い段階からこのような事業に踏み出したのでしょうか?」

堀井使うことで初めてわかる研究があるということ、そして公開してから実際に使う側がイノベーションを起こしてくれることへの期待があったからです。たとえば、ノイズモデルを事前に構築して出力結果に含まれるノイズの影響を緩和する

といったアプローチも、実際に使われることを前提にした研究から生まれたものです。使うことを前提にした研究は裾野が広い。だからこそ、クラウドに出すという決断がありました」

野村「早く出して、使う側がいろんな使い方をしてくれることへの期待があったんですね。」

堀井「『業界を作っていく』という視点が大切でした。実験室の中だけのものにせず、ユーザーのコミュニティを形成して、オープンに誰でもアクセスできる環境を整えること――それがやはり重要でしたね。

野村「早く開いてみて、何か面白い反応はありましたか?」

堀井「2017年ごろからVQE(変分量子固有値ソルバー)などが流行して、爆発的に論文が出てきました。理論的な優位性がまだ明確でない状態から始まったのに、これほど多くの研究が生まれたことは本当に衝撃的でしたね。公開直後はベル状態を作るといった基礎的な回路を多くのユーザーが試していました。やがてQAOA(量子近似最適化アルゴリズム)やSQD(サンプリングベース量子対角化)が注目を集め、材料科学にインパクトを与える大規模な論文も生まれてきました」

野村「確かに、開放的なアクセスが大きなムーブメントを生み出しましたね。IBMのクラウドにアクセスしたという記事もnoteなどで多く見かけました。この先はどのように進展していくのでしょうか?」

堀井「私たちはロードマップを公表していて、現在は前倒しで更新を続けています。最大の目標は2029年の『Starling(スターリング)』の実現です。そのためにソフト・ハード両面の研究開発を全力で進めています。本当に達成できるのか、という問いはもちろんありました。ですが、すべてのマイルストーンを前倒しで進めてこられています。」

野村「IBMのSDKである『Qiskit(キスキット)』は、量子コンピューティングのデファクトスタンダードになっていますよね。最初からそれを目指していたのですか?」

堀井最初からそのつもりでした。いかにオープンソースで展開し、コミュニティを広げるか――そこに注力してきました。ただ、量子コンピュータのハードウェアの進化に合わせてソフトウェアも変えていく必要があります。新しい機能をどうユーザーに届けるか、日々議論と研究を続けています。」

Qiskitで量子回路を作って遊びたい方向けの動画はすでに複数あります。コミュニティの広がりが開発面でのユーザーの安心感につながっているように感じます。

野村「なぜ超伝導方式を選んだのですか?」

堀井「もともとIBMには半導体技術の蓄積がありました。また、2012年に2量子ビットをきちんと制御できたというセンセーショナルな研究も背景にあります。
スーパーコンピュータの提供やムーアの法則の限界が議論される中で、次の手として多様なプロセッサの開発に取り組んできた。アナログチップもそのひとつですし、量子コンピュータもその流れの中にあります。

野村「実現時期について、感覚として早いと思いますか?」

立花「ロードマップよりも前倒しで進んでいますし、社外の方々からも『思ったよりも早い』という声をよくいただきます。人材育成を急がなければとか、暗号解読が早まってしまうのではといった焦りを感じると、多くの方からおっしゃっていただきますね。

量子コンピュータの原寸大モック:一部部品は企業秘密につき省略はされていますが、それでもマイクロ波制御のためのケーブルの様子や、どのようにQPUを制御するのかについては下画像で詳しく知ることができました。

野村「クラウド提供にあたって、量子コンピュータ特有の難しさとかあったのですか?また、量子コンピュータの浸透についての難しい点はどのようなものですか?」

堀井「何十台と設置してきていますが、デプロイメントやサービスの公開についてはそこまで難しいというところはありませんでした。きちんとした製品としてご提供するようなプロセスはしっかりしていますね。大きな機械――希釈冷凍機とかいろんな機材――をどう扱うかを決めることが大事ですが、デプロイメントやサービス公開については、全自動ではないにしてもある程度自動化されています。

Qiskitのカバーできる領域も増えてきていて、元々は量子情報科学のためのものでしたが、今はアプリケーションに向けたアドオンという形に進化しています。アプリにどう量子を使うのか、そういったエコシステムの構築もそのひとつですし、日本で中心的に進めているスーパーコンピュータとの連携、どこで量子を使い、どこで古典を使うかの役割分担もQiskitのエコシステムの中に組み込んでいく予定です。今後もその役割はさらに広がっていくと考えています。

堀井人材育成についても触れると、量子コンピュータの恩恵に携わる人はそれなりにいます。日本政府の量子未来社会ビジョンでは、2030年までに量子技術の利用者を1000万人に拡大したいとされています。全員が開発者でなくていいにしても、そのくらいの人にQiskitが使われることを見据えて考えなければと思っています。」

野村「1000万人……量子技術の普及を考えるとどうしても今の状況からはかなり遠い話に聞こえてしまいます。今後量子人材を増やすということにしてどのようにお考えですか?」

堀井「まず私たちの目標は、量子コンピュータの優位性-クオンタムアドバンテージを実現することです。古典コンピュータでは解けない問題や難しい問題を、古典と協働して解いていく。そのための計算基盤を提供するのが私たちの役目です。大切なのはコミュニティと一緒に進めること。最適化や機械学習のスペシャリストのような、量子コンピュータの直接の専門家だけでなく、さまざまな分野の専門家が集まって発展していく――それが私たちの見立てです。ドメイン知識を量子コンピュータの使い方にマッチさせることが重要で、いろんな領域でいろんな人材と結びつけていかなければと思っています。」

野村「確かに、様々なバックグラウンドを持つ人が使い方を決めていくというのは、そうかもしれませんね。未来の量子人材、例えば、中高生なら一量子ビットの挙動を理解するだけでも大変だと思いますが、普及を進める中でどんな課題がありますか?」

堀井高校生向けの取り組みとして、Kawasaki Quantum Summer Campは2022年から続けていますね。まず興味を持ってもらうことが非常に大事だなと思います。触って楽しいという体験が重要です。このイベントに来る高校生はそもそも基本的に感度の高い方も多く、量子コンピュータに真剣に向き合ってくれる方も多いです。ただ、学部生向けの量子教育がまだ課題だと感じています。線形代数とその応用先として量子があるわけですから、多くの学科の方が量子コンピューティングを学ぶことも大切だと思います

僕も高校生だったら参加したかったな……

堀井:IBMとしても、より多くの人にQiskitが広まってほしいと思っています。最新の内容に対応したラーニングコンテンツも提供していますので、ぜひ活用してほしいですね。」

量子コンピュータはQPUのみならず、マイクロ波を繊細に制御して量子ビットの状態を変える。ほかにも、多くのモジュールを必要とする。画像は量子コンピュータの制御を含めた系

量子コンピュータの課題とAI時代の計算基盤

野村「量子コンピュータの実用化に向けて、何が一番の課題ですか?」

堀井「2029年のStarling実現に向けた誤り訂正の研究が、ハードウェア面での大きな取り組みです。製造や実験を目下進めているところです。それと並行して、FTQC(誤り耐性量子コンピュータ)に対応したソフトウェアスタックの進化も不可欠です。また、200量子ビットでどのくらいの表現能力があるのか、どんな領域で活用できるのかといったアルゴリズム研究も、引き続き重要な課題だと感じています。

野村「研究チームとして、量子コンピュータの実用化ってどんな雰囲気で捉えているのですか?」

堀井実用化の定義はいろいろありますよね。限定的な意味では、研究室のものではなく実際に公開されているので、もう実現しているとも言えます。エラーをどのレベルまで下げられるか、量子ビットやゲート処理をどう向上させるかは業界ごとに異なる需要があります。ただ、多くの人が気にする『みんなの生活がいつ変わるのか』という話なら、もう少し先かなと思います。技術は確実に進歩していて、2030年から2040年あたりに広く浸透していくのではないかと感じています。」

立花アドオンについてもハイレベルなモジュールが増えてきて、ゲートを直接触らなくてもよくなってきています。最適化などのモジュールなら、従来の古典ソルバーと同じような感覚で使えるものが増えてくるんじゃないかと思います。そのレベルで量子を使う人が出てくるんじゃないかと思います。」

野村そのうち量子ゲートもブラックボックスになって、量子の高級言語が生まれてくる感じですかね。『アセンブリからC言語に』なったように。確かに僕たちがスマホを使うとき、NANDゲートのことなんて考えていないですよね(笑)。でも量子ゲートのことは考え続けないとコンピューティングができないと思ってしまうのも奇妙な話ですね」

堀井「QiskitはPythonが一つのインターフェースになっていますが、コアなところはRustで書かれているんです。私たちの方でもC++やJulia、さらにはFortranなど、いろんな言語からQiskitを使えるようにしています。Qiskitはいろんな広がりを持っているので、形式言語の研究なども進んでいってほしいなと思っています」

(公式エコシステム上で公開されています。Juliaで使えるのはおそらく物理学のバックグラウンドの人は嬉しいのではないでしょうか。個人的に今回の取材で一番聞けて嬉しかったことかもしれません)

野村「言語の並びが非常に物理系の香りがしますね。FortranもJuliaもかなり物理シミュレーションの文脈でよく聞く言語ですね。作った人のバックグラウンドを感じますね。」

立花「高級言語という話ですと、これからは自然言語でコンピュータに命令する。つまり最終的にはAIになるんじゃないかなと思います。自然言語でプログラミングする世界がくるのではと個人的には思いますね」

野村「AIに自然言語を読ませて、そのAIがQPUにタスクを送るか古典コンピュータにタスクを送るかどうかを判断する世界になったりするんですかね。」

立花「そうですね。個人的にはそう思います」

堀井「もしかしたら、AIエージェントが個々の処理を量子で行うかどうかを判断して進めてくれるかもしれないですね。『Genesis Mission』というアメリカの国家プロジェクトもありますが、同様に量子に関わるものについても、いかにAIを活用するか、量子にAIがどう貢献するか――そういったプロジェクトがこの先たくさん出てくるんじゃないかと思います。

地図にあるようにIBMの量子コンピュータは日本で特にアクセスされています。

日本は量子先進国?ポスト量子時代のコンピューティングは?

野村「日本には量子アニーリングの開発者もいますよね。IBM自体は日本をどう位置付けていますか?」

堀井「日本は量子への理解が高く、非常に重要なマーケットだと思っています。Q-STARに参加する企業やQIICにもかなり多くの団体が参加していて、量子に取り組む企業の母数が多い印象です。元々材料科学や物理学に強い背景があることもあり、世界的に見ても日本のマーケットは非常に成熟していて、前に進む勢いがあると感じています。だからこそ日本に2台の量子コンピュータを設置していますし、日本独自のチームを持っているというのも、世界的に見て珍しいことです。

野村「IBMは早い段階から市場に出したパイオニアだと感じています。今思えば、なぜこのポジションが取れていると思いますか?」

堀井「IBM Quantumという組織がIBMの中に作られたことが、ビジネスとしても広報としても重要だったと思います。量子コンピュータをクラウドにつなげて広げていったとき、利用者やコミュニティの広がりが予想を超えて、量子コンピュータに特化した戦略を一つの組織として推進できるようになりました。意思決定が速くなりますし、その段階でロードマップを作ったり、魅力的な展示でアテンションを集めたり、コミュニティを広げるといった、IBMがそれまでしてこなかったことができたのが特徴的だったんじゃないかと思います。

野村「量子コンピュータが最適化計算などさまざまなことができるようになった先に、お二人の個人的な意見として、量子コンピュータの本当の価値、一番の価値って何だと思いますか?」

堀井会社の意見でもありますが、新しいコンピューティングの一つの形だと思っています。次世代のコンピューティングを提供することが一つのミッションです。AIはGPUを基盤にしたことで大きく発展しましたよね。QPUが加わることで、コンピューティングの未来がさらに豊かになっていくんじゃないかと思います。

立花「やはり、量子ビットという今までとは異なる新しい情報の単位を使うことで、表現が根本的に違う。その表現の違いこそが、従来のコンピュータとは異なる強みなんじゃないかと思います。

野村「どんな社会になると思いますか?IBMはどんな存在になっていますか?」

堀井スーパーコンピュータと量子が連携して、その恩恵を多くの人が受けられるようになる――それが目標です。ただ、多くの人がクラウドを使っているように、ATMのシステムやGPSがそうであるような状態。つまり、その裏側が量子なのかどうか、どこで実装されているのかを意識しないまま恩恵を受けられる。生活をよくするツールとして量子が提供され、それを意識しないで使える。それが在るべき姿かなと思います。そういう時代が来ることを願っています。」

立花今まで研究者が試薬を使って時間をかけていた薬の開発が量子によって圧倒的に速くなる。それがもたらす社会への価値は非常に大きいですよね。そういう意味でも、量子は私たちの生活を大きく変えるんじゃないかと思います。」

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野村貴之
大学院を修了してからも細々と研究をさせていただいております。理学が専攻ですが、哲学や西洋美術が好きです。日本量子コンピューティング協会にて量子エンジニア認定試験の解説記事の執筆とかしています。寄稿や出版のお問い合わせはinnovaTopiaのお問い合わせフォームからお願いします(大歓迎です)。