「実在する」とは、そもそもどのようなことなのでしょうか。私たちはNMRやIRといった分光測定を通じて、目には見えない「分子の形」を理解し、やがて原子や分子の存在を自然に受け入れるようになってきました。けれども、そもそも直接見ることのできないものを「ある」と言ってよいのでしょうか。
さらに考えを進めれば、磁場や力もまた、目に見えるものではありません。それでも電磁気学やニュートン力学は、そうした概念を中心に自然を記述してきました。では、それらは本当に「実在」しているのでしょうか。それとも、自然を理解するために私たちが選び取った、最も有効な表現なのでしょうか。
量子力学の誕生からおよそ100年。私たちの世界に対する描像は大きく変わり、いまでは量子コンピュータや量子センシングといった技術を通じて、かつては遠い理論だった量子論の名を、日常の中でも耳にするようになりました。では、量子論は私たちの「実在」への見方を、どのように変えてきたのでしょうか。
今回は、量子論とその哲学を研究されている、上智大学文学部の杉尾一准教授にお話を伺いました。

上智大学文学部と杉尾一准教授について
上智大学文学部哲学科准教授(大学院文学研究科哲学専攻主任)
博士(哲学)(慶應義塾大学、2014年7月)
現代自然哲学を専門としている。物理学を学んだのち哲学に転じ、量子論の成立をめぐる思想的背景に加え、量子基礎論における測定、物理量、文脈依存性、実在などの概念的問題を研究している。特定の存在論や形而上学をあらかじめ前提とするのではなく、私たちがどのような条件のもとで世界を理解し、記述することができるのかを問い直すことが、研究の中心的な課題である。近年は、AIと意識をめぐる哲学的問題にも取り組んでいる。AIが高度な言語的・知的振る舞いを示すことと、人間のような理解や主観的経験、意識をもつこととは区別されなければならないという立場から、現在のAIに意識を帰属する議論の理論的妥当性を批判的に検討している。
主な著書に『入門 科学哲学:論文とディスカッション』(慶應義塾大学出版会・共著)、主な論文に「Reconstructing Physical Quantities after Quantum Mechanics: Measurement, Context, and the Limits of Classical Reality」および「物理的“実在”についての哲学的試論」などがある。
野村「杉尾さんは、量子論の哲学についての研究もされていますね。この分野に進んだきっかけについて教えてください」
杉尾「今、私は哲学科にいますが、哲学科を卒業したことは一度もないんですよね(笑)物理学科出身なんです。卒業研究では、量子論の散乱問題をやりました。もともと哲学にも関心があったんですけどね。学部4年次に相対論のゼミに参加していたとき、『一般相対論では重力を時空多様体上で記述するけど、時空多様体は実在するんですか?』と先生に聞いたら、ため息をつかれて、『杉尾君ねぇ、そんなの考えても意味ないんだよ』と言われたんです。なんか、がっかりですよねー(苦笑)私が思うに、ボーアもアインシュタインも、物理学の根本にある哲学的問題を真剣に考えていた研究者だったと思うんです。それなのに、『そんなことを考えても意味がない』って言われると、当然、学生としては『えー』ってなりますよね?(苦笑)」
野村「それで、哲学に移られたのですね?」
杉尾「そうです。途中、足踏みもしましたが、結果として、修士で慶應の哲学専攻に行きました。当時、慶應には西脇与作先生という科学哲学の先生がいて、その先生のとこに行ったんです。そこで、ひたすら英米系の科学哲学をやりましたね。後、数学と論理学ですね。むしろ、それしかやってないんで、いわゆる文献解釈を中心とする哲学研究とは、少し違う訓練を受けてきたんですね(苦笑)とはいえ、そんなこんなで、慶應で学位を取って、研究員として、国内外を転々としました(笑)」
野村「現在は上智大学の文学部に所属されていますが、上智大学には、杉尾さんの研究につながる歴史的背景があるのでしょうか。また、文学部で担当されている授業でも、ご専門について話す機会はあるのでしょうか?」
杉尾「上智大学には、かつて柳瀬睦男先生という方がいて、その方はカトリックの神父でありながら、物理学者でもあったんです。Wigner-Araki-Yanase Theorem で知られている先生ですね。もっとも、既に亡くなられていて、お目にかかったことはないですけどね。上智大学の理工学部の創設には、柳瀬先生が関わったという歴史があります。ですから、上智大学自体には、そういうバックグラウンドがあるのです。もっとも、哲学科の学生は、私のことを『理系の先生』だと思って、警戒しているようですけどね(苦笑)まぁ、仕方ないですよね。文学部の学生の多くにとって、数学はハードルが高いようです。歴史上の偉大な哲学者には、数学に通じていた人も多いんですけどねぇ(苦笑)もちろん、関心を持って講義を聴いてくれている学生もいますよ!」
野村「杉尾さんの研究室の学生も、『量子力学の哲学』のようなテーマで卒業論文を書くことが多いのでしょうか?」
杉尾「中には何人かいました。ただ、科学哲学一般を扱う人もいれば、論理学に関する卒業論文を書く人もいます。本当にいろいろですね」

ボーア vs. アインシュタイン――量子論をめぐる論争とは何だったのか?
上記の論文で杉尾先生は、「アインシュタインは古典論にしがみつき、ボーアは量子論の勝者だった」という単純な対立図式を退け、両者の議論の背後には、カント的な認識論と通じる問題があったと論じています。
野村「論文の中で、ボーアとアインシュタインの議論には、カント的な認識論と通じる問題があったと書かれていましたね。カントの三批判書は、認識論や形而上学、倫理学、美学など、その後の哲学の多くの領域に大きな影響を与えました。現在でも、分野によっては、カントへの応答を避けて通れないほどの存在です。当時のヨーロッパでは、カントの思想は知識人にとって共通の教養だったのでしょうか。それとも、ボーアとアインシュタインの考え方には、より具体的な共通点があったのでしょうか?」
杉尾「そうですね。まず単純な話として、当時の物理学者は博識で、哲学的な教養もありました。二人ともヨーロッパの知識人ですから、カントの思想には当然触れていたでしょうね。ただ、二人が同じ仕方でカント的だった、というわけではありません。アインシュタインは、理論がなければ、そもそも何を観測できるのかも定まらないと考えていました。一方、ボーアは、実験条件や、そこで用いられる古典的な概念を抜きにして、量子現象について語ることはできないと考えていました。方向性はかなり異なりますが、私たちが世界について語るときには、理論や観測、記述の条件を無視できないという問題意識は、両者に共通していたと思います。量子論では、観測や記述の条件そのものが避けられない問題になりますから、そこにカント的な問題が現れてくるのだと思います。」
野村「今のお話は、世界を記述するために、どのような理論的な枠組みを選ぶのかという問題にもつながりそうですね。物理学者が理論を組み立てるとき、どのような基準で基本原理を選ぶのでしょうか。複数の理論的な選択肢がある場合、やはり理論の単純さが重要なのでしょうか?」
杉尾「そうですね。まず、観測や実験の結果と合っていることが大前提です。そのうえで、シンプルであるというのも、一つの重要な基準だと思います。オッカムの剃刀ですね。もちろん、単純であればよいというわけではないですけどね(笑)もう一つ重要なのは、どれだけ広い範囲の現象を説明できるかということですね。より少ない前提から、より多くの現象を統一的に説明できる。そういう理論が選ばれやすいのだと思います。」
野村「ただ、どのような理論を選ぶのかは、観測や実験の結果だけで一意に決まるわけではなく、その時代の思想的な背景も関わってきますよね。量子論が成立した20世紀前半には、哲学の側でも、論理実証主義や現象学といった新しい潮流が現れていました。こうした哲学の動きと、当時の物理学者との間には、何らかの応答関係があったのでしょうか?」
杉尾「ありましたね。ちょうどここにヴァイツゼッカーが書いた『大物理学者』という本がありますが、その中でも触れられていたと思います。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』が出たとき、ウィーン学団の論理実証主義者たちは、『論考』から強い影響を受けました。ただ、彼らの受け取り方と、ウィトゲンシュタイン自身が重視していたこととの間には、かなりのズレがあったと思います。
確かに『論考』では、語りうることと語りえないことが厳しく区別されています。例のキメ台詞『語り得ぬものについては、沈黙しなければならない』ってやつですね(笑)でも、ウィトゲンシュタインにとっては、語りえないものがあるということ自体が重要だったと思います。『語ることのできないものについては、命題として語ることはできず、沈黙するしかない』ということだと思います。
ところが、論理実証主義の側では、経験的に検証できず、論理的・分析的でもない形而上学的言明は、有意味な命題とは認められない傾向がありました。まぁ、確かに『論考』でも、世界のあり方を命題として表現できない言明は、有意味な命題にはならず、ナンセンスになる。ただ、少なくとも私の読みでは、ウィトゲンシュタインにとってのナンセンスは、無価値という意味ではなく、言語によって命題として表現できる限界を示すものでした。むしろ彼は、語りえないもののうちに、倫理や宗教、美といった重要なものが含まれていたと考えていたはずです。
これに対して、少なくともウィーン学団の論理実証主義者たちは、形而上学的言明を批判し、言語を明晰化することで、諸科学を統一的に記述することを目指しました。いわゆる『統一科学』ですね。
ボーアも、観測可能なものを重視していたように見えるため、論理実証主義に近いと理解されることがあります。でも、ヴァイツゼッカーの記述によれば、ボーア自身の問題意識は、それほど単純なものではありませんでした。ボーアにとって量子論の問題は、『観測できることだけを語ればよい』というような話ではなかったんです。古典的な概念を使わなければ実験について語れない一方で、その概念を量子現象にそのまま当てはめることもできない。そこに、より深刻な問題を感じていたのだと思います」
野村「論理実証主義と物理学との関係は、よく分かりました。では、もう一方の現象学についてはどうでしょうか。自然科学との関係や、論理実証主義の側からの反応はあったのでしょうか?」
杉尾「ありました。フッサールは、もともと数学を学んでいた人です。数学や自然科学を含め、さまざまな学問がどのような基盤の上に成り立っているのかを考えていった。その結果として、意識に現れる経験の構造を記述する現象学に向かったわけです。私自身、数学を経由したフッサールの現象学は、とても意義があると思います。
ただ、フッサールの弟子であるハイデガーになると、正直、私にはかなり疑問があります。ハイデガーは、ドイツ語特有の造語力を駆使して独自の概念を作り出しますよね。しかし、その概念形成が本当に不可欠だったのか、それとも、本来もっと明晰に語ることのできる問題を不必要に難解にしているだけなのかは、批判的に検討する必要があると思います。少なくとも私には、後者のように感じる箇所が少なくありません。人間や自己についての理解という点では、例えば、古代インドのサーンキヤ学派でも、プルシャ(純粋意識)、ブッディ(知性)、アハンカーラ(自我意識)、マナス(心)などが区別され、非常に精緻な分析が行われています。もちろん、サーンキヤとハイデガーでは、議論の目的も枠組みも同じではありません。ただ、人間や自己についての理解、意識経験の構造について、どこまで明晰に分節できるかという点では、重要な比較対象になります。精神修行の実践を伴って発展してきた東洋の分析と比べたとき、ハイデガー固有の造語が、実際に概念として機能し、どれほど新しい説明や洞察を与えているのか。それとも、問題を必要以上に難しく見せているだけなのか。私は、そこをもっと厳しく問う必要があると思いますね。」
野村「ハイデガーは20世紀を代表する哲学者の一人で、その後の哲学にも大きな影響を与えました。それだけに、当時からそのような厳しい批判があったというのは少し意外です。逆に言えば、それほど大きな問題を提起したからこそ、賛否を含めて、その後の哲学に大きな影響を与えたとも言えそうですね」
結局、何をもって「実在する」と言えるのか?
野村「『何が実在するのか』というのは、あらためて考えると難しい問題ですね。例えば、ここにある私と杉尾さんの名刺は、明らかに実在するように思えます。一方、場の量子論では、粒子は場の量子的な励起として記述されます。しかし、場や粒子は、名刺のように直接目で見られるものではありません。
科学では、現象を説明するために、さまざまな理論やモデルを構築します。しかし、理論の中で重要な役割を果たしていることと、それが実在することとは同じなのでしょうか。どうしても、『場なんて見えないのに、本当にあるの? 結局、何が実在するの?』と思ってしまいます。」
杉尾「例えば、ファラデーの話がありますね。ファラデーは貧しい家庭の出身で、大学で高度な数学を体系的に学んだ人ではありませんでした。その一方で、実験を重ねながら、非常に優れた物理的直観を身につけていった。
中学校の理科では、磁石の周りに砂鉄をまくと、磁力線のような模様が現れるのを見ますよね。もちろん、あの砂鉄の模様そのものが磁力線というわけではありません。ファラデーは、力が離れた物体の間で突然作用するという遠隔作用ではなく、空間を通じて連続的に作用するという考え方を重視しました。その考えを表現するために、力線という概念を用いたわけです。
力線や場を、名刺と同じ意味で直接見た人はいません。でも、そうした概念を用いることによって、さまざまな現象を統一的に理解できるようになった。では、それを理由に、名刺と同じ意味で『場は実在する』と言ってよいのか。ここで、『ある』という言葉が厄介になってくるんですよね。」
野村「見えるか見えないかだけでは、実在するかどうかは決められないということですね。そもそも、ここに何かが『ある』とは、どういうことなのでしょうか。実在は解釈の問題だと言ってしまえば、そうなのかもしれません。それでも私たちは、どうしても『実在』について考えてしまいます。」
杉尾「そうですね。私たちは日常的に、『ある』とか『ない』とか言いますよね。ただ、『Xがある』という言明を考えると、その言明が真になるための条件が必要になります。どのような対象について語っているのか、どのような理論や概念を用いているのか、何を根拠として『ある』と主張できるのか。そうした条件が明らかにならなければ、『Xがある』という言明が真なのか偽なのかを判断できません。」
野村「要するに、『条件』が対象の存在を作っている、ということですか?」
杉尾「いや、条件を設定することによって、私たちが対象そのものを作り出す、という話ではありません。そこは区別しなければならないと思います。私たちとは無関係に何かが存在するかどうかという問題と、私たちがどのような条件のもとで、『それが存在する』と語ることができるのかという問題は、同じではありません。私が問題にしているのは、後者なんです。何かが私たちとは独立に存在する可能性を否定しているわけではありません。ただ、それについて私たちが『ある』と語るときには、必ず何らかの理論的・概念的条件、あるいは観測・記述の条件が関わってきます。」
野村「西洋哲学では、『ある』ということについて、どのような立場が考えられてきたのでしょうか?」
杉尾「大雑把に言ってしまえば、私たちが認識しているかどうかとは無関係に、対象はそれ自体として存在すると考える立場があります。いわゆる実在論ですね。わかりやすさ優先でちょっと単純化しすぎかもしれませんけど(笑)それに対して、どのような条件のもとで、何かを存在するものとして認識し、記述できるのかを問題にする立場もあります。私は、後者の問題を重視しています。ただし、これは『人間が認識しなければ何も存在しない』という話ではありません。存在そのものと、存在について語るための条件を区別したいということです。
数学でも、命題がどの範囲で成り立つのかを明示しますよね。例えば、x²+1=0という方程式は、実数の範囲では解をもちません。でも、複素数まで範囲を広げれば、x=±iという解をもちます。
これは、私たちが複素数を定義することで、解を恣意的に作ったという話ではありません。どのような領域を考えているのかによって、『解がある』という主張の真偽が変わるということです。
もちろん、数学的対象の存在と、物理的対象の実在は同じではありません。ただ、『ある』と語るためには、何について、どの範囲で語っているのかを明らかにしなければならない、という点は共通しています。」
野村「なるほど。『ある』か『ない』かをそれだけで問うのではなく、まず、どのような条件や範囲のもとでそう言っているのかを明らかにしなければならない、ということですね。ただ、哲学はむしろ、そうした条件に左右されない普遍的な存在や真理を求めてきたようにも思います。そこに問題があるのでしょうか?」
杉尾「確かに哲学では、『普遍性』とか『真理』が剥き出しの状態で語られることがありますよね?(苦笑)一応、私も哲学者なのですが、正直、いかがなものかと(笑)
実際は特定の条件のもとで成り立っているにもかかわらず、あらゆる条件から独立して成り立つことのように扱ってしまう。いや、むしろ、いかなる条件からも独立な何かについて論じることができると思い込んでいるのです。いわば、自分が宇宙全体を外から眺めているかのような、『神の視点』を取ってしまうわけです。もちろん、ここで言う『神の視点』とは、いかなる理論的・認識的条件にも依存しない立場という意味です。
ただ、実際の私たちは、つねに何らかの理論や概念を使い、特定の条件のもとで世界を記述しています。その条件をすべて取り払って、世界そのものをそのまま語ることができるのか。私は、そこにかなり慎重…というより、疑問を感じるんですよね。」
野村「量子論は、そのような『神の視点』を取ることの難しさを明らかにしたのでしょうか?」
杉尾「そういう面はあると思います。量子論では、どの物理量を測るのか、どのような実験装置を用いるのか、どのような基底や測定の文脈を選ぶのかによって、意味をもつ問いや、記述できる性質が変わってきます。例えば、位置と運動量のような非可換な物理量について、少なくとも標準的な量子力学の枠内では、測定の文脈とは無関係に、すべての値が同時に確定していると単純に考えることはできません。
もちろん、ここから直ちに、『観測しなければ何も存在しない』という結論が出てくるわけではありません。量子論が示しているのは、何が存在するかという問いが不要だ、ということでもありません。
むしろ、ある物理量が『この値をもつ』という言明をするとき、その言明がどのような理論的・実験的条件のもとで意味をもつのかを明らかにしなければならない、ということです。その意味で、量子論の登場によって、存在についての言明や、『この値をもつ』という言明が、何の条件も伴わない絶対的なものではなく、つねに何らかの条件のもとで意味をもつのだということが、よりはっきり見えてきたように思います。」
野村「しかし、それは結局、対象が存在するかという存在論の問題ではなく、私たちが対象をどのように認識するかという認識論の問題に帰着するのではありませんか?」
杉尾「そういう反論は当然あると思います。伝統的には、私たちとは無関係に何が存在するのかという存在論と、私たちがそれをどのように知るのかという認識論を分けますよね。また、現在の私たちが認識していないものでも、存在している可能性は当然あります。私たちがまだ発見していない対象もあるでしょう。ただ、その対象について、私たちが『存在する』と主張するときには、何らかの理論的、観測的な根拠が必要になります。
つまり、未知のものが存在する可能性と、根拠も条件も示さずに、『直観』だけを根拠として存在論的・形而上学的な主張を行うこととは別です。私は、存在論を単純に認識論へ還元したいわけではありません。ただ、存在論的な主張も、私たちの認識や記述の条件から完全に切り離して行うことはできない、と考えているんです。その意味で、西洋哲学の認識論/存在論・形而上学の区分を自明に考えてはいけないでしょう。まぁ、区分自体が悪いというより、それを固定的に扱い、存在論的主張を認識や記述の条件から完全に切り離せると考えることには大きな問題を感じています。私は、21世紀の哲学は、この問題を乗り越えていく必要があると思っています。
私の立場からすれば、『まだ認識されていないものが存在するかもしれない』という言明も、少なくとも何らかの認識可能性を前提としているように思います。その意味で、『存在する』という言明は、その成立条件を認識可能性と完全に切り離して理解することはできないのです。」
野村「その点について、アインシュタインはどのように考えていたのでしょうか。一般には、かなり強い実在論者だったという印象があります」
杉尾「例えば、ハイゼンベルクの『部分と全体』には、若いハイゼンベルクとアインシュタインの会話が出てきます。
そこでハイゼンベルクは、観測可能な量だけを使って理論を組み立てるべきだ、という趣旨のことを言います。それに対して、アインシュタインは、『何を観測できるのかを決めるのは理論である』とたしなめるんです。
これは、かなりカント的な問題意識だと思います。私たちは、何の理論も介さずに、世界をそのまま見ているわけではありません。何が観測可能なのか、どの物理量が重要なのかは、理論の枠組みの中で初めて意味をもつようになります。
例えば、熱力学におけるエントロピーも、単に目の前の現象を眺めていれば、そのまま見つかるような量ではありません。理論の枠組みの中で初めて、それが重要な物理量として理解されるわけです。ですから、アインシュタインを、理論とは無関係に、物理的対象のあり方があらかじめ定まっていると考えた実在論者として理解するのは、違うと思います。」
野村「一方で、アインシュタインは、量子力学の確率的な性格には強い抵抗をもっていましたよね?」
杉尾「そうですね。EPR論文では『ある物理系を乱すことなく、ある物理量の値を確率1で予測できるならば、その物理量に対応する物理的実在の要素がある』という物理的実在の要素を認めるための十分条件が提示されています。この点は、きちんと押さえておく必要があります。
アインシュタインは、量子力学が統計的に正しい予測を与えていることを否定したわけではありません。問題は、それが個々の物理系について完全な記述を与えているのか、ということだったんです。量子力学が確率的な予測しか与えないとしても、その背後に、個々の現象についても確定的な記述を与える、より完全な理論があるのではないか。少なくともアインシュタイン自身は、個々の物理系について客観的な物理的状態を記述する、より完全な理論の可能性を捨てなかったのだと私は解釈しています。
ただし、だからといって、EPR論文の基準によって『実在とは何か』そのものが明らかになったことにはなりません。物理的実在の要素を認めるための十分条件を提示することと、『実在そのものが何であるかを私たちは知らない』ことは、別に矛盾しないんです」
野村「『実在』についての基準は考えているけれども、『実在そのものが何であるか』を知っているとは言っていない、ということですね?」
杉尾「そうです。そこが重要なんです。アインシュタインは、シュレーディンガー宛ての手紙の中で、物理学は一種の形而上学であり、『実在』を記述するけれども、私たちは『実在』が何であるかを知らず、物理学的な記述を通してのみ、それを知ることができる、という趣旨のことを述べています。
つまり、私たちは、理論とは無関係に『実在そのもの』を直接捉えることはできない。物理理論という、ある種のフィルターを通してしか、『実在』について語ることができないわけです。
アインシュタインは、物理学が『実在』へ迫ることを諦めたわけではありません。むしろ、現在の経験や理論を超えて、より完全で統一的な記述を探究しようとした。その際に、個々の物理系について客観的な物理的状態を記述することを重視したわけです。
ただし、理論によって記述された『実在』を、そのまま理論から独立した『実在そのもの』と同一視していたわけではありません。彼自身が、私たちは『実在』が何であるかを知らない、と言っているんです。
アインシュタインは強い実在論的要請を保持していましたが、それは、理論を介さずに実在そのものへ直接アクセスできると考える素朴実在論ではありませんでした。少なくとも、アインシュタインは、物理理論による記述を通して『実在』について語ろうとしていた、と理解するのが適切だと思います。」
科学者にとっての「実在」って何?

野村「物理学というと、自然科学である以上、僕にはどうしても『形而下学』という感じがします。ところが、先ほどのお話では、アインシュタインにとっては必ずしもそうではなかったんですね。では、現代の物理学者はどうなのでしょうか。そもそも、『実在』という言葉で科学者が思い描いているものは一致しているのでしょうか?」
杉尾「いや、実在については、科学者の間でも異なる解釈が採られているのではないでしょうか。いわゆるコペンハーゲン解釈についても、全員が同じことを考えていたわけではありません。
例えば、ボーア自身の文献では、『状態の収縮』あるいは『波束の収縮』という言葉は、少なくとも中心的な概念としては使われていません。一方、フォン・ノイマンは、測定に伴う状態の変化を数学的に定式化しました。今、『コペンハーゲン解釈』と呼ばれているものの中には、歴史的には異なる立場がまとめて含まれている面もあると思います。
ボーアの議論も、表面的には『観測できるものだけを語る』という論理実証主義的な立場に見えるかもしれません。でも、ボーアが考えていたのは、それほど単純な話ではないんです。
量子力学の解釈が難しくなる理由の一つは、自然について語る以上、私たちは自然言語を使わざるをえないことにあると思います。日常の言葉遣いは、基本的にはマクロな世界についての経験からできています。でも、量子論が記述する世界は、それとはかなり異なっていますよね。
例えば、量子力学でも『位置』や『運動量』という言葉を使います。でも、古典力学では、位置や運動量は相空間上の関数として表され、系の状態が定まれば、それぞれの値も定まります。一方、量子力学では、位置や運動量はヒルベルト空間上の自己共役作用素によって表されます。日常生活や古典力学で考えている『位置』や『運動量』と、まったく無関係ではありませんが、まったく同じ概念でもない。そこには、意味や理論的役割の重要な違いがあるわけです。
私たちは何かを説明するとき、どうしてもマクロな世界についての言葉遣いをせざるをえません。ところが、ミクロな世界を、私たちの日常的・古典的な言葉だけで記述しようとすると、変になっちゃう。『重ね合わせ状態を説明してください』と言われても、数式では書けるけれど、それを日常の言葉だけで説明するのは難しいのです。」
野村「『数学でしか表現できない』ことと、『日常の言葉遣いでは表現できない』ことの間には、そんなに大きなギャップがあるのでしょうか。僕からすると、数式になっていて、それで腑に落ちるならよいのでは、と思ってしまいます。」
杉尾「ボーアは、自然言語による記述に非常にこだわっていましたね。より正確に言えば、実験装置や実験結果については、日常言語を基礎とした古典的な概念を使わなければならない、と考えていた。
ただし、古典的な概念を量子現象にそのまま適用するのではなく、適用できる範囲を限定し、ある意味ではその概念を緩めながら使っているわけです。数学的形式の上では、物理量は自己共役作用素によって表され、それによって計算を行うことができます。しかし、それだけで、その形式が世界それ自体について何を言っているのかが自動的に分かるわけではありません。
ここで、つい『本当の世界ではどうなっているのか』と言いたくなりますよね?(笑)でも、この『本当の』という言い方自体が、すでに『神の視点』を前提としているんです。私たちは思わず使ってしまうけれど、そもそも、その『本当の世界』に直接アクセスできるのか、という問題が出てきます。私は、そこに西洋哲学に内在する深刻な問題を感じるんですよね。」
野村「なるほど。そうすると、量子論が突きつけているのは、単にミクロな世界をどう解釈するかという問題だけではなく、『世界そのものを条件なしに語ることができる』と考えてきた哲学の枠組み自体を、見直す必要があるということでしょうか?」
杉尾「もちろん、私は伝統的な哲学を全否定するつもりはありません。でも、少なくとも、その一部の前提や枠組みについては見直していかなければならないとも思っています。現在の私たちがもっている世界観に応じて、哲学の側も新しい概念や議論を作っていくべきだと思うんですよね。過去の哲学者が残した著作についての解釈も必要かもしれませんが、そんなことばかりしていても仕方ないでしょう?(苦笑)私は、過去の哲学者の解釈だけに終始するつもりはありません(笑)
そういえば、中世には、「哲学は神学の婢女である」という言葉がありますよね。私の恩師である西脇先生は、それをもじって、「今は、哲学は科学の婢女でもいいんじゃないか」とおっしゃっていましたけど(笑)同業者の戸田山和久さんにその話をすると、彼は「婢女ならまだいいだろ?」と言っていましたが(笑)
野村「哲学の先生たちが、そんなことをおっしゃったのですか?(笑)」
杉尾「はい(笑)でも、私は哲学を科学の下に置こうと言いたいわけではないんです。もちろん、上に置くつもりもありません(笑)要するに、上下関係の話ではなく、科学が私たちの世界理解をどのように変えてきたのかを、哲学も真剣に受け止めるべきだということなんです。
そのことは、科学の歴史を見るとよく分かります。例えば、天動説ですが、天動説的なモデルでも、暦を作るという目的には十分に役立ちます。つまり、理論は「正しいか、間違っているか」だけで評価できるものではありません。『どの範囲で正しいのか、どの範囲で間違っているのか』と考えれば、地球上の観測者から見た天体の運動を記述するという点では、天動説も十分に役立つわけです。
そもそも、中学校の理科で『天球』という概念を習いますが、あれも発想としては天動説的ですよね?(笑)もちろん、天球というモデルを使うことと、宇宙が文字どおり地球を中心に回っていると主張することは別です。
ところが、観測や実験を通して世界についてより多くの情報が得られるようになり、ケプラーやニュートンが登場すると、地球中心の宇宙論では、さまざまな現象を統一的かつ自然に説明することが難しくなってきました。つまり、大切なのは、理論が絶対に正しいか間違っているかではなく、観測や実験を通して世界の側からどれだけ情報を引き出せるのか、その理論がどの範囲の現象を説明でき、その理論のもとでどのような言明が成り立つのかということなんです。
私は、哲学もこうした科学の歩みから学びながら、自らの概念や考え方を更新していくべきだと思っています。」
野村「確かに、相対論や量子力学も、まさにそうですね。私たちは、観測や実験を通して世界からさまざまな情報を引き出し、それに応じて新しい理論を作り続けてきた。そして、そのことは哲学にも大きな影響を与えてきたということですね。」
杉尾「そうです。そして、私たちは、理論の正しさを『神の視点』から捉えてはいけないと思います。この範囲では正しいけれども、この範囲では正しくない。ある理論のもとで、どのような言明が意味をもち、成立するのかという問題なんだと思います。
カントの議論に即して言えば、物自体は、私たちの認識のあり方とは独立したものとして考えられますが、それ自体を認識することはできません。ですから、科学の発展によって物自体そのものに肉薄できる、と単純に言うことはできない。
ただ、物理学による『実在』の記述を、より豊かにしていくことはできると思います。より多くの現象を説明し、新しい予測を可能にし、それまで見えていなかった関係を明らかにすることはできますからね。
私たちは、いわば万華鏡のような世界の中で、どのような見方や記述が許されるのかを考えているのだと思います。
少し乱暴なたとえですが、ウミガメは、ビニール袋とクラゲをうまく区別できず、ビニール袋を飲み込んでしまうことがありますよね?もちろん、ビニール袋とクラゲが同じものだという話ではありません。でも、ウミガメにとっては、その知覚の条件のもとで両者を区別できないことがある。
見え方や記述の仕方が違えば、世界について成り立つ記述も異なってきます。『世界は本当はどうなっているのか』と問うとき、その問いの立て方自体が、私たちの認識や記述の条件を見落としている場合があるのだと思います。」
野村「結局のところ、私たちに『完全な知識』などなく、ある種の『モデル』を採用しているということなのでしょうか?」
杉尾「そうですね。少し意地悪な言い方をすれば、我々ホモ・サピエンスの宿命でしょう。問いを立てても、その答えに必要な情報へ私たちがアクセスできないため、結局、分からないことはあると思います。
それに、形式的には別の体系も作れるはずなのに、人はどうしても、自分が手に入れた理論を普遍化してしまう。真理だと思ってしまう。自分たちが慣れ親しんだ体系だけが、唯一正しい体系であるかのように扱ってしまう癖があるんだと思います。ある種のナルシシズムかもしれません(笑)
それに、哲学者は『直観』を重視することがあります。ここでいう直観とは、推論を重ねることなく、対象や命題を直接に捉えたり、『そうであるように思われる』と判断したりすることです。もちろん、直観そのものが悪いわけではありません。ただ、直観したというだけで結論が正当化されるわけでもない。なぜそう考えられるのか、きちんと根拠を示して議論しなければならないと思います。数学者はちゃんと根拠を明示する訓練を受けているのですが、哲学者はなんだかねぇ…という感じですね(苦笑)
西洋哲学のある種の体系的な伝統は、異なる出発点から、別の体系を構成する可能性に、十分自覚的でないことがありますね。なんか、批判ばかりしていて申し訳ないですが…(苦笑)
例えば、デカルトは神を完全な存在として捉え、その完全性と善を結びつけて考えました。デカルトは受け入れないでしょうが、発想を反転させて、『完全な悪』を出発点としたら、どのような体系になるのかと考えることもできます。
もちろん、デカルト自身の体系では、「完全な悪」という概念は成立しないでしょう。ただ、そこにこそ、その体系がどのような前提によって組み立てられているのかが表れています。ある体系の内部では自然に見える出発点も、別の出発点から見れば、必ずしも唯一のものではありません。
形式的な体系を作るときにも、何を原始概念とし、どの命題を出発点にするのかには、ある程度の選択の余地があります。なのに、私たちは、自分たちが慣れ親しんだ概念や出発点だけを自然なものと考え、それとは異なる体系の可能性を見落としてしまうことがある。そういう別の見方が、人間はあまり得意ではないのかもしれません。だから、一つの意味での『正しさ』にこだわってしまう面があるのだと思います。
とりわけ西洋哲学のある種の体系では、『神の視点』のように、世界全体を俯瞰する立場を暗黙のうちに前提しているように、私には思えるんです。」
野村「確かに、西洋哲学には、プラトンのイデア論やカントの物自体のように、立場はまったく異なるにしても、目の前に現れているものだけではなく、その背後にある全体的な枠組みを通して世界を理解しようとする傾向があるように思います。」
杉尾「そうですね。ただ、プラトンとカントでは議論の目的も内容も違いますから、同じものとしてまとめることはできません。ただ、現れているものだけで議論を終わらせず、その背後にある原理や条件を問おうとする点では、ある種の共通性を見ることはできるかもしれません。
西洋哲学のある種の体系的な伝統には、理論的・認識的な前提を無自覚に固定したまま、世界全体を捉えるための特権的な視点として扱おうとする傾向があります。そこに、大きな問題があると考えています。
もちろん、全体を体系的に捉えることが悪いわけではありません。個別の条件や視点から考えることと、全体を統一的に捉えようとすることの、どちらか一方だけがあればよいというわけでもない。両方が必要なんだと思いますね。」

ソーカル事件から考える、哲学における「実在」の問題
野村「『物理学と哲学』という話題で、どうしても思い浮かぶ有名な出来事の一つが、ソーカル事件ではないでしょうか。今でもそうなのですが、私が学部生の頃、岩波文庫の青帯を読んでいると、物理学科の友人に少し嫌な顔をされた経験があります(笑)科学者と人文学者は、水と油なんじゃないかと思うことがあります。物理学者の前で哲学の話をすると、少し煙たがられることもありますよね。なぜ、そういう分断が生まれるのでしょうか?」
杉尾「まず、ソーカル事件の背景からお話ししますね。ソーカル自身は科学哲学にも関心をもち、科学哲学者とも交流していました。
ですから、あの事件は、『物理学者が哲学者を攻撃した』という単純な話ではありません。まして、科学哲学を攻撃した事件でもないんです。当時、いわゆるサイエンス・ウォーズと呼ばれる論争がありました。その中で、一部のポストモダン思想やカルチュラル・スタディーズの論者が、数学や物理学の概念を、本来の意味とは切り離して、レトリックとして用いているのではないか。それは問題ではないか、という議論があったんです。つまり、科学的な概念が、本来の意味を十分に吟味されないまま修辞的に使われているのではないか、という批判だったわけです。
まぁ、私は、そういう文章は、ただのポエムだと思いますが(笑)もっとも、本当に優れたポエムに失礼ですけどね(笑)
とにかく、そこでソーカルが、『それなら、俺が実際にやってみよう』という感じになった(笑)もちろん、実際にはもう少し政治的、思想的な問題意識があったわけですけどね。
ソーカルは、物理学や数学の用語をもっともらしく並べ、編集方針や思想的傾向に合うような結論をもたせたパロディー論文を、カルチュラル・スタディーズの雑誌『ソーシャル・テクスト』に投稿したわけです。それが実際に掲載された後で、『あれは意図的に書いたナンセンスな論文でした』と明かした(笑)それがソーカル事件です。
ですから、ソーカルが直接問題にしたのは哲学一般ではなく、科学的な概念を十分に吟味しないまま借用することや、思想的・政治的立場との整合性が学術的内容よりも重視されるような議論や評価のあり方だったと思います。」
野村「なるほど。科学と哲学の全面的な対立というより、科学用語の扱い方や、議論を評価する姿勢が問題だったのですね。この事件の後には、どのような反応があったのでしょうか?」
杉尾「まぁ、賛否両論だったでしょうね(苦笑)科学者の中には、それほど関心をもたずに、『よくやった』というくらいの受け止め方をしていた人もいました。
一方、哲学者や人文系の研究者の中には、批判したかった問題は理解できるけれども、相手をだまして論文を掲載させるという方法は、『さすがにやりすぎじゃないの?』と考える人も多かったと思います。実際、事件後には、批判の内容だけでなく、ソーカルの方法が研究倫理上許されるのかという議論も起こりました。まぁ、正直に言えば、私は『よくやった』派ですけどね(笑)
日本では、なぜか『ソーカルが科学哲学を攻撃した事件だ』と誤解している人もいましたね(苦笑)科学哲学は、科学の概念や方法、理論の成り立ちを検討する分野ですから、ソーカルが批判した対象と同じではありません。
最近は、そのような誤解も少なくなってきたように思います。少なくとも、私の周囲では、ソーカル事件を単純な『科学 vs 哲学』として捉える人は減ってきたと感じます。」
世界の見え方と形而上学――いつになったら量子力学は「当たり前」になるの?

杉尾「私はバックグラウンドが物理ですからね。科学と哲学の関係を考えるときも、どうしても理学寄りの考え方になってしまいます。関心は哲学にありますが、マインドセットは理学なんですよね(苦笑)」
野村「どうしても、マインドセットはそちらに寄りますよね。僕は学部と修士、それから企業で研究していた期間を合わせて、8年間ほど化学をやっていました。自分の考え方を振り返って、やはり化学のマインドセットになっているな、と思うことがあります(笑)」
杉尾「私を形作っているのも、そういうものかもしれませんね。私というものは、外から入ってくる情報や経験によって、つねに書き換えられていく。たぶん、私が化学を本格的に勉強したら、世界の見方も変わると思います(笑)
ハンソンのいう『観察の理論負荷性』もそうですが、自分がどのような知識や理論をもっているかによって、見え方が変わってきます。人間というのは、そういうものなんじゃないかなぁと思います。」
野村「そういうところはあるかもしれませんね。ずいぶん昔の話なのですが、僕は、『化学には分子という実在があるけれど、物理学は磁場や力のような目に見えないものを扱っていて難しいよね』と話したことがあります。
そのとき、生物学科の人から、『君が見ているのは、単なるNMRやIRのスペクトルじゃないの? それか、紙に書かれた構造式を見て、分子を見た気になっているだけじゃない? 本当に自分の目で分子を見たことがあるの?』と言われたんです(苦笑)
もちろん、スペクトルや構造式が単なる虚構というわけではありません。けれども、分子そのものを日常的な対象と同じように直接見ているわけでもない。そう言われて、確かにそうだなと思いました。どうしても、自分が『実在する』と認める範囲を、無意識に限定してしまうというか……」
杉尾「野村さんが前提としている理論や観測の条件のもとでは、分子が『ある』と呼んでよいわけです。ただ、哲学者の中には、そういったときに『神の視点』を持ち込んでしまう人もいるんですよね(苦笑)
『この条件のもとでは、それを実在するとみなしてよい』という話なのに、その条件を取り払って、『それは本当に実在する』と語ってしまうんですよね。私にとって『実在』とは、その程度の限定された意味しかもちません。なので、『実在』という言葉に、条件を超えた特別な哲学的意味を与える必要はないと思っています。
結局のところ、制限や条件を明らかにすることが大切なんです。どの理論や概念体系からも独立した『ある』を、私たちは語ることはできないのではないでしょうか?」
野村「科学の祖先をどこに求めるかといえば、一つには、タレス以来の自然哲学に行き着くと思います。その後、アリストテレスが学問を分類していった。科学が独立した学問として成立していく前には、自然について考えることと、形而上学的な問題を考えることが、現在ほど明確に分かれていなかったように思います。では、科学はどの時代から、いわゆる『形而下学』になったとお考えですか?」
杉尾「うーん、ここで明確な時期を一つに決めるのは難しいと思います。近代科学が成立する過程で、観測や実験、数学的記述が重視されるようになり、自然科学は哲学から次第に独立していきました。さらに、19世紀の実証主義から20世紀の論理実証主義にかけて、経験的に検証できず、論理的・分析的でもない形而上学的言明を、有意味な言明とは認めない傾向がかなり強くなった。量子論が現れた20世紀には、何が観測可能で、何を物理学の言葉で語れるのかという問題が、いっそう切実になりました。
ただ、物理学者が形而上学的な問題を考えなくなったわけではないんですよね。先ほど触れたように、アインシュタイン自身も、物理学は一種の形而上学だと言っていました。
人間にとって、形而上学は魅力的なんだと思います。人間は無駄に賢いのでしょう(苦笑)経験できる世界だけでは満足できず、この世界とは異なる世界や、世界の『向こう側』を求めてしまう…なんなら、死んだ後のことまで気になってしまう生き物ですからね。とりあえず、死ぬまで待つのも手かと私は思うのですが。下手に空想するより、私は楽しみに待ちたいですね(笑)」
野村「私たちは有限な存在ですし、自分の『死』を経験して説明することはできませんよね?(笑)
僕も幼稚園の頃、ベッドに入ってから、『死んだらどうなるんだろう』と考えて、不安になったことがあります。ところが、いくら考えても答えは出ない。そういう経験は、多くの人にあるのではないでしょうか?」
杉尾「それによって、神話や死後の世界についての物語が生まれた面もあるのかもしれません。ただ、それだけでは満足できないから、今度は万物の根源が気になってくる。
人間には、『本当のことって何?』と知りたがるところがありますよね?『本当のこと』が何かは知らないけれど、それが私たちにとって切実だから、知りたい。だけど、分からない。
私たちが『ここまでは分かっている』と言うと、その範囲の外には、必ず分からないことが残ります。分かることがあるということは、同時に、分からないことがあるということでもあります。
ところが、人間は、その分からなさに耐えられないことがある。それで、不安を埋めるために、本来語れる範囲を越えてしまう。十分な根拠のない問題についても、観念のうえで答えを成立させようとしてしまう。そういうところはあるのではないでしょうか?」
野村「分からないことに耐えられず、根拠のない答えを作ってしまう危うさがある一方で、その『分からない』の先を考えようとすること自体が、科学や哲学を発展させてきたようにも思います。『向こう側』を考えることには、越権と探究の両面があるということでしょうか?」
杉尾「そうですね。もちろん、『向こう側』を考えることが、すべて悪いわけではありません。私たちは『向こう側』を考えたいからこそ、さまざまな概念を拡張してきたのだとも思います。
現在分かっている範囲だけで考えていたら、何の発展もありません。まだ知られていないものや、現在の理論では説明できないものを求めるから、科学も発展してきた。
ただ、『向こう側』にも、いろいろな意味がありますよね。何が経験可能で、何が認識の限界を超えているのか。その区別を哲学的に整理した一人がカントです。
カントは、理性が経験を超えたものへ向かおうとすること自体を、単純に否定したわけではありません。でも、それを経験的な対象についての知識と同じように扱えば、理性は越権してしまう。
私たちは『向こう側』へ向かうことができるし、それが、これまで知らなかったことを知るための原動力にもなる。ただ、一歩間違えると、根拠のないことばかり言うようにもなる。人間は、そういう存在なのかもしれませんね(苦笑)。実際、科学者の中にも変なことを言う人は少なからずいますしね。別に哲学者だけの専売特許ではないのかもしれません(苦笑)
何事も大事なのは、バランスですね。あとは、自分が何を言っているのかメタ認知できることでしょうか?じゃないと、すぐに自分の現在地を見失います(苦笑)」
野村「科学は、日常生活における物の見方にも影響を与えていると思います。今の時代に、アリストテレスの自然学を、そのまま現在の科学的自然観として持ち出すことはありません。太陽が空を動いて見えるからといって、多くの人は、宇宙全体が文字どおり地球の周りを回っているとは考えないでしょう。そう考えると、科学は、人間の認識のあり方や、日常的な生活感覚まで変えているのではないでしょうか?いかがですか?」
杉尾「そうだと思います。ただ、その変化は、私たち自身には意外と見えにくいんですよね。何かが当たり前になってしまうと、『それが当たり前になった後の世界に生きている私たち』には、以前との違いが認識しにくくなりますから。
例えば、風邪を引いたら薬を飲んだり、必要なら医療機関を受診したりする、ということがそうかもしれません。もちろん、薬が風邪の原因そのものを必ず取り除くという話ではありませんが、症状に対して医学的に対処しようとしますよね?
体調が悪いときに、治療よりも祈祷だけに頼るとか、雨が降ってほしいときに、雨乞いだけで解決しようとする人は、現代社会では少ないでしょう。そういう変化の中に、科学的な世界観が当たり前になってきたことが現れているのかもしれません。」
野村「では、量子論や相対論が、私たちにとって『当たり前』になるのは、いつだと思いますか?それとも、すでに当たり前になりつつあるのでしょうか?」
杉尾「まだのように思います。スマートフォンに使われている半導体の理論的な基礎に量子論があることや、GPSの補正に特殊相対論と一般相対論の両方が関わっていることを、普段から意識している人は、あまり多くないと思います。技術としては日常生活に入っているけれど、それが世界観として当たり前になっているわけではないんですよね。
とはいえ、世界観というものは一朝一夕に変わるものではありません。科学的な世界観も、教育や技術の発展を通して、少しずつ社会に浸透していくのではないでしょうか。
人は案外、頑固です。結局、人は、自分なりの世界観の中で生きています。その世界観を揺さぶるような何かが出てくると、簡単には受け入れられない。ある種の陰謀論についても言えることですが、反証となる事例を示されても、その事例そのものを疑ってしまい、自分の世界観を守ろうとすることがありますよね?
もちろん、これは陰謀論を信じる人だけの問題ではありません。私たちにも、程度の差はあっても、そういうところがあるのかもしれません。」
野村「何だか不思議ですね。自分の思想体系は守りたいのに、その一方で、語れる範囲を越えて『本当の世界』について知りたがる。少しわがままなのかもしれません(笑)自分の中での世界の意味づけが変わってしまうと、不安になるのでしょうか。だから、今ある体系を守ろうとしてしまうのかもしれませんね。」
杉尾「そうだと思います。世界観は、単なる知識の集まりではありません。一つの体系なんです。つまり、自分が世界の中でどういう位置にいるのか、何を正しいと考えてよいのかを支えるものでもあります。ですから、それが崩れると不安になる。新しい情報に出会っても、自分の世界観を書き換えるより、その情報を、今の世界観の中で解釈し直すほうが楽なんですよね(苦笑)
量子論や相対論が、なかなか日常的な世界観にならないのも、そういうところがあるのかもしれません。」
野村「量子論や相対論が完全に当たり前になるところまではいかなくても、ニュートン力学と同じくらいの常識には、すでになっていると思いますか?」
杉尾「これも難しいですね(苦笑)。物理学を学んだ人にとっては、ある程度当たり前でしょう。でも、一般的な生活感覚の中で当たり前になっているかと言えば、まだだと思います。
その理由の一つは、量子論や相対論に特徴的な現象を、私たちが日常生活の中で直接経験することがほとんどないからです。私たちは普段、目に見える物体が動き、物を持ち上げたり落としたりするような、マクロな世界の中で暮らしています。
ボーアの議論に即して言えば、私たちが日常的に使っている言葉も、基本的にはそうしたマクロな世界についての言葉です。古典物理学で使われる物体、位置、軌道といった概念は、日常的な経験と結びつけやすい。もちろん、慣性の法則まで含めて、ニュートン力学の内容がすべて直観的だというわけではありません。ただ、古典物理学の言葉は、私たちの日常的な物の見方にはるかに近いんですよね。
一方で、量子論は、そうした日常的な物の見方では捉えにくい世界を扱います。相対論もまた、光に近い速度や非常に強い重力場といった、私たちが普段経験しない状況を対象にしています。
もちろん、量子論や相対論は科学として確立され、技術として私たちの生活を支えています。ただ、その世界観そのものが日常感覚として定着するには、まだ時間がかかるのだと思います。
例えば、私たちは天動説を信じていないのに、『日の出』や『日の入り』という言葉を今でも使っています。私たちの日常的な経験では、太陽が動いて見えるからです。
アリストテレス自然学が長く受け入れられた理由の一つも、それが私たちの日常的な経験とよく対応していたからかもしれません。結局のところ、人間は日常的な経験と結びついた世界観を手放しにくいんですよね(苦笑)だから、量子論や相対論は科学として理解されていても、その世界観が日常感覚の中にまで浸透するには、まだ時間がかかるのだと思います。
例えば、量子コンピュータも、ただ使うだけであれば、一種のブラックボックス、つまり、仕組みは分からないけれど答えを返してくれるものになってしまいます。中学生や高校生でも量子コンピュータに実際に触れ、その振る舞いについて考える機会があるような社会になれば、量子論も、もう少し身近なものとして受け止められるようになるのかもしれません。
さらに、『ちょっと火星まで行ってくるわ』というくらいの感覚で、現在とは比較にならないほどの高速の宇宙旅行をする時代になれば、相対論的な時間のずれも生活上の問題として実感するようになるかもしれません。そうなれば、相対論も私たちの日常感覚の一部になるでしょう。
結局のところ、私たち自身の生活経験が変わらない限り、量子論や相対論は知識として理解することはできても、それを『当たり前』として受け入れるには、まだ時間がかかるのかもしれませんね(苦笑)」












