ーTech for Human Evolutionー

6月21日【今日は何の日?】「世界初のプログラム内蔵式コンピュータが稼動」4500年前から始まった計算装置の歴史

 - innovaTopia - (イノベトピア)

77年前の今日、人類の歴史を変える小さな「ピッ」という音が響きました。

1948年6月21日、英国マンチェスター大学で「Manchester Small-Scale Experimental Machine(SSEM)」が初めて稼働した瞬間です。わずか32ワードのメモリしか持たないこの小さなマシンが、現代のデジタル社会の扉を開いたのです。

人類と計算の長い旅路

4500年前から始まった計算装置の歴史

コンピュータの歴史を語る前に、人類と計算装置の関係を振り返ってみましょう。紀元前2700-2300年頃、古代メソポタミアのシュメールでは既に「アバクス」と呼ばれる計算装置が使われていました。この初期のアバクスは、砂を敷いた浅い箱に線を引き、その上に小石を置くという単純なシステムでした。

アバクスはローマ時代に携帯可能になり、やがて中国に伝わりました。1570年代に中国の算盤(スワンパン)が日本に伝来し、これが日本独自の「そろばん」として発展しました。江戸時代(1603-1868年)には、商人や武士階級に広く使われるようになり、寺子屋で読み書きや算術とともに子どもたちに教えられました。

そろばんの素晴らしさは、その直感的な操作性にあります。珠を弾くという物理的な動作が、数の概念と直結している点は、後のコンピュータのインターフェース設計にも通じる思想と言えるでしょう。熟練した使い手の手元で珠が踊る様子は、まさに人間の知性と道具の完璧な融合でした。

機械式計算機の時代

17世紀に入ると、より複雑な計算を自動化する試みが始まりました。1642年、わずか19歳のブレーズ・パスカルが発明した「パスカリーヌ」は、歯車を使った世界初の機械式計算機でした。父親の税務計算を楽にしたいという、極めて人間的な動機から生まれたこの発明は、計算の自動化という概念を世に示しました。

その後、ゴットフリート・ライプニッツが四則演算すべてを自動化した「ライプニッツの計算機」を開発し、19世紀には計算機械史上最も野心的な試みが始まりました。

バベッジの壮大な夢:蒸気で動く計算機械

1822年、チャールズ・バベッジは英国王立天文学会で「階差機関(Difference Engine)」の構想を発表しました。これは、数学表の作成を完全に機械化しようという革命的なアイデアでした。当時、航海や砲術に不可欠な数学表は、人間が手計算で作成していたため、計算ミスが頻繁に起こり、時には船の遭難や戦闘での敗北につながることもありました。

バベッジの階差機関は、蒸気機関の動力を使って巨大な歯車群を動かし、多項式の計算を自動化する設計でした。完成すれば、人間が何ヶ月もかけて行う計算を、蒸気の力で数時間のうちに完了できる予定でした。まさに産業革命の申し子とも言える発想だったのです。

しかし、この壮大な計画は、当時の機械加工技術の限界により頓挫してしまいます。必要な精度の歯車を大量に製造することは不可能だったのです。それでもバベッジは諦めず、さらに野心的な「解析機関(Analytical Engine)」の設計に取り組みました。

時代を100年先取りした設計思想

解析機関は、現代のコンピュータの基本概念(演算装置、記憶装置、制御装置、入出力装置)をすべて備えていました。パンチカードでプログラムを入力し、条件分岐や繰り返し処理も可能な設計は、まさに「機械式コンピュータ」と呼ぶにふさわしいものでした。

興味深いことに、この解析機関のプログラムを世界で初めて書いたのは、詩人バイロンの娘であるエイダ・ラブレス伯爵夫人でした。彼女は「機械は与えられた指示以外のことはできない」としながらも、「音楽を作曲する可能性」についても言及しており、現代のコンピュータミュージックを予見していたとも言えるでしょう。

バベッジの階差機関と解析機関は、蒸気機関という19世紀の最新技術と精密機械工学の融合を目指した、まさに時代の最先端プロジェクトでした。技術的な制約により実現はしませんでしたが、その設計思想は100年後の電子計算機時代に結実することになります。

電子計算機への道のり

20世紀に入ると、電気技術の発達により計算装置は飛躍的な進歩を遂げます。1930年代には、リレー式計算機が登場し、計算速度が大幅に向上しました。そして1940年代、真空管を使った電子計算機の時代が到来します。

この時代の計算機は、現代から見ると巨大で消費電力も莫大でしたが、機械式計算機とは比較にならない高速性を実現していました。しかし、決定的な問題が残っていました。それが「プログラム変更の困難さ」だったのです。

革命前夜:配線と格闘する日々

プログラムを「書く」ということの意味

今、私たちはキーボードを叩いてプログラムを書きます。しかし、SSEMが登場する前の世界では、「プログラムを書く」ことは文字通り配線を繋ぎ直すことを意味していました。

1946年に完成したENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)は、当時としては画期的な電子計算機でした。しかし、新しい計算を行うためには、パッチボードのケーブルを抜き差しし、スイッチを切り替える必要がありました。この作業は熟練した技術者でも数時間から数日を要する大仕事でした。

「今日は因数分解、明日は弾道計算」といった具合に計算内容を変更するたびに、エンジニアたちは巨大なマシンの前で配線作業に追われていたのです。まさに「ハードウェア」という言葉が文字通りの意味を持っていた時代でした。

専用機の時代

この時代のコンピュータは、特定の計算に特化した「専用機」が主流でした。砲弾の軌道計算、暗号解読、気象予測など、それぞれの目的に合わせて設計されたマシンが存在していました。汎用性という概念は、まだ夢のまた夢だったのです。

プログラムは主にパンチカードや紙テープに記録され、外部から読み込まれていました。この方式では、プログラムの実行速度に制限があり、複雑な処理を行うには根本的な限界がありました。

歴史の転換点:「Baby」の誕生

32ワードの奇跡

SSEMは愛称を「Baby」と呼ばれていました。現代のスマートフォンが数十億ワードのメモリを持つことを考えると、32ワードという数字は微笑ましく思えるかもしれません。しかし、この小さなメモリの中に、人類史上初めて「プログラム」が格納されたのです。

1948年6月21日、Babyは世界初のプログラム内蔵式コンピュータとして動作を開始しました。最初に実行されたプログラムは、2の18乗(262,144)の最大因数を求めるという、今思えばシンプルな計算でした。しかし、この瞬間こそが、コンピュータが「機械」から「知的な道具」へと変貌を遂げた歴史的瞬間だったのです。

ソフトウェアという概念の誕生

プログラムがメモリに格納されることで、革命的な変化が起こりました。プログラムがデータとして扱われるようになったのです。これにより、プログラム自体を他のプログラムで操作したり、動的に変更したりすることが可能になりました。

この概念の誕生により、「ソフトウェア」という言葉が意味を持つようになりました。ハードウェアの物理的な変更なしに、コンピュータの動作を変更できる──これこそが、現代のIT産業の基盤となる考え方でした。

人類の歩みを加速させた技術革新

汎用性の獲得

プログラム内蔵方式の最大の革新は、コンピュータに「汎用性」をもたらしたことです。同じハードウェアで科学技術計算、事務処理、シミュレーション、ゲームまで、あらゆる処理が可能になりました。

これは人類の道具の歴史において、極めて特異な出来事でした。石器時代から現代まで、ほとんどの道具は特定の目的のために作られてきました。しかし、コンピュータは「万能の道具」として機能するようになったのです。

知識の民主化

プログラム内蔵方式により、プログラミングという行為が専門技術者の独占から解放されました。配線作業から解放されたプログラミングは、より多くの人々がアクセスできる技術となりました。

この変化は、知識と創造性の民主化を促進しました。アイデアを持つ人々が、物理的な制約に縛られることなく、そのアイデアをコンピュータ上で実現できるようになったのです。

社会インフラの変革

コンピュータの汎用性は、社会のあらゆる分野に波及効果をもたらしました。銀行システム、交通管制、医療診断、教育、エンターテインメント──現代社会のインフラの多くが、この技術革新の恩恵を受けています。

現代への架け橋:ノイマン型アーキテクチャの遺産

永続的な影響

SSEMの成功を受けて、マンチェスター大学ではMark I、ケンブリッジ大学ではEDSACなど、次世代のプログラム内蔵式コンピュータが相次いで開発されました。これらは現代のコンピュータの基本構造である「ノイマン型アーキテクチャ」の礎となりました。

興味深いことに、77年が経過した現在でも、私たちが使用するコンピュータの基本原理は、SSEMが確立した原則から大きく変わっていません。プロセッサがメモリから命令を読み出し、順次実行するという基本的な動作は、スマートフォンからスーパーコンピュータまで共通しています。

プログラミングの進化

プログラム内蔵方式の確立により、ソフトウェア技術は急速な発展を遂げました。機械語から始まり、アセンブラ、FORTRAN、COBOL、そして現代の高級言語まで、プログラミング言語の進化は目覚ましいものがありました。

オペレーティングシステムの概念も、この技術革新から生まれました。複数のプログラムを効率的に管理し、実行する仕組みは、現代のマルチタスク環境の基礎となっています。

人類の歩みを支える見えない力

デジタル変革の原動力

SSEMの登場から77年が経過した現在、私たちの生活はデジタル技術に深く依存しています。朝起きてスマートフォンでニュースをチェックし、電車の時刻をアプリで確認し、オンラインで買い物をする──これらすべてが、1948年6月21日の技術革新の延長線上にあります。

新型コロナウイルスのパンデミックでは、リモートワークやオンライン教育が急速に普及しました。これらの技術も、根本的にはプログラム内蔵式コンピュータの概念に基づいています。

創造性の解放と計算文化の変化

プログラム内蔵方式は、人類の創造性を物理的制約から解放しました。そろばんでパチパチと珠を弾いていた時代から、機械式計算機のガチャガチャという音、そして電子計算機の無音の計算へ──計算という行為そのものが、人間の感覚から離れていく過程でもありました。

しかし、プログラム内蔵式コンピュータの登場により、計算は再び人間の創造的活動の一部となったのです。アーティストはデジタルアートを創作し、音楽家は電子音楽を作曲し、映画製作者はCGを駆使した映像を生み出すようになりました。計算が単なる「手段」から「表現の道具」へと昇華したのです。

そろばんの珠を弾く職人技から、キーボードでコードを書くプログラマーまで──計算装置と人間の関係は、道具の進歩とともに常に進化し続けてきました。77年前にマンチェスター大学の研究室で鳴り響いた小さな「ピッ」という音は、そうした長い歴史の集大成だったのです。

未来への展望

人工知能時代の基盤

現在、人工知能や機械学習が大きな注目を集めています。しかし、これらの技術も基本的にはプログラム内蔵式コンピュータ上で動作しています。ChatGPTのような大規模言語モデルも、その根本的な動作原理は、SSEMが確立した原則の延長線上にあります。

量子コンピュータへの道

量子コンピュータの研究が進む中、従来のノイマン型アーキテクチャとは根本的に異なる計算パラダイムへの移行が始まっています。

しかし、古典的なコンピュータとの共存やハイブリッド処理において、ノイマン型アーキテクチャの重要性は今後も続くでしょう。

記憶に残る一日:5000年の計算史の頂点

77年前の6月21日は、人類5000年の計算史における革命の日でした。

古代メソポタミアのアバクスから始まり、日本のそろばん、パスカルの機械式計算機、バベッジの解析機関、そして電子計算機へと続いた長い旅路。その集大成として、マンチェスター大学の研究室で響いた小さな電子音は、やがて世界を変える大きな波となりました。

プログラム内蔵式コンピュータの誕生は、単なる技術革新ではありませんでした。それは、人類の知的活動に新たな次元をもたらし、創造性の可能性を無限に広げる文化的革命でもあったのです。

今日、私たちが当たり前のように使っているデジタル技術の恩恵を受けながら、5000年にわたる計算装置の歴史と、77年前のこの日に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。そろばんの珠を弾く音からコンピュータの電子音まで、人類と計算の関係の深さと豊かさを感じられるはずです。

小さな「Baby」が踏み出した一歩は、人類の計算史における最も重要な節目であり、確実に私たちの未来を明るく照らし続けているのです。

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さつき
社会情勢とテクノロジーへの関心をもとに記事を書いていきます。AIとそれに関連する倫理課題について勉強中です。ギターをやっています!
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