白いトイプードルのモモの目を見つめると、不思議な感覚に包まれます。言葉は通じないはずなのに、確かに「通じ合って」いる。出かける準備を始めると鞄を持つだけでそわそわし、話しかければ嬉しそうに尾を振る。
この感覚は、飼い主の思い込みなのでしょうか?
11月1日は「犬の日」です。1987年、「ワン・ワン・ワン」の語呂合わせで制定されましたが、今この日が持つ意味は当時よりはるかに深くなっています。21世紀の脳科学と遺伝学が、犬と人間の絆の正体を解き明かし始めているからです。

3万年の共進化が生んだ「友好性」
犬は人類が初めて家畜化した動物です。DNA研究によれば、犬とオオカミの分岐は15,000〜40,000年前。農耕が始まるずっと前、私たちがまだ狩猟採集生活を送っていた時代のことです。
オーストリアのウルフサイエンスセンターでは、オオカミと犬を同じ条件で育て、比較する研究が行われています。テーブルに肉を置いて「ダメ」と言うと、犬は従います。しかしオオカミは人間の目を見ながら肉を取るのです。
この違いは遺伝子レベルでも確認されています。犬とオオカミの間には、オキシトシン受容体(OXTR)遺伝子のエピジェネティックな変化が存在します。オキシトシンは「愛情ホルモン」とも呼ばれ、母子の絆や信頼関係に関わる神経ペプチドです。
最近の研究では、犬は「社会的戦略」に、オオカミは「物理的問題解決」に優れていることが示されています。人間に育てられたオオカミも訓練によって人間の指差しを理解できるようになりますが、犬は生後数週間で自然にこの能力を習得します。
脳スキャナーが映し出した「報酬」
2012年、エモリー大学の神経科学者グレゴリー・バーンズは、犬を完全に覚醒した状態で、拘束なしで、fMRIスキャナーの中に静かに横たわらせることに成功しました。それまで動物の脳活動測定には麻酔が必要でしたが、それでは意識のある状態での反応を調べられません。
飼い主の顔を見たとき、犬の脳で何が起きるのか?
結果は明確でした。飼い主の顔を見ると、犬の脳では「尾状核」が活性化しました。この部位は報酬や喜び、動機づけに関わる領域です。人間が愛する人の顔を見たとき、おいしい食事を食べたとき、母親が赤ちゃんを見たときに活性化する、まさにその部位です。
2020年の研究では、犬は飼い主の顔を見ると感情処理とアタッチメント(愛着)に関わる脳領域が活性化することが確認されました。一方、見知らぬ人の顔には主に視覚処理と運動処理の領域が反応するだけでした。
バーンズ自身が問いかけました。「これを『愛』と呼んでもいいのではないか?」と。
見つめ合うとき、回り始める「ループ」
2015年、Science誌に画期的な論文が掲載されました。日本の研究者、永澤美保らによる研究です。
実験は驚くほどシンプルでした。犬と飼い主を部屋に入れ、30分間自由に交流してもらい、その前後で双方の尿中オキシトシン濃度を測定する。ただそれだけです。
犬が飼い主を長く見つめた場合、飼い主のオキシトシン濃度が上昇しました。飼い主のオキシトシンが上昇すると、飼い主は犬により多く触れ、より多く話しかけます。すると今度は、犬のオキシトシン濃度が上昇するのです。
このポジティブ・フィードバック・ループは、人間の母親と乳児の間で観察されるのと同じメカニズムです。
さらに研究チームは人間に育てられたオオカミでも同じ実験を行いましたが、オオカミはこの効果に抵抗性を示しました。オオカミは飼い主をあまり見つめず、見つめてもオキシトシンの増加は観察されなかったのです。
このオキシトシン-視線ループは、犬だけが持つメカニズムであり、異種間で観察された唯一の例です。
「除外学習」で単語を覚える
2004年、Science誌に掲載された研究は世界を驚かせました。ドイツのボーダーコリー、リコは200個以上のおもちゃの名前を理解していました。
研究者たちは、リコが知っている7つのおもちゃの中に1つだけ新しいおもちゃを混ぜ、リコが一度も聞いたことのない名前で呼びかけました。リコは10回中7回、正しく新しいおもちゃを持ってきたのです。
これは「除外学習」と呼ばれる推論能力です。「他のおもちゃの名前は知っている。だから、この新しい名前は知らないおもちゃのことに違いない」という論理的思考。人間の子どもが言語を習得する際に使う、まさに同じプロセスです。
2011年には別のボーダーコリー、チェイサーが1,022語を理解することが報告されました。これは人間の3歳児の語彙に匹敵します。ヨークシャーテリアのベイリーも117語を理解し、訓練者以外の声、異なる方言でも理解できることが示されています。
fMRI研究では、犬が新しい単語を聞いたときの脳活動も観察されています。犬の聴覚野が活性化し、意味のある単語と無意味な音を区別していることが確認されているのです。
感情が「伝染」する
2013年、ポルトガルの研究チームが25頭の犬に、飼い主か見知らぬ人があくびをする様子を見せました。犬は見知らぬ人よりも飼い主のあくびに対して、有意に多くあくびで反応しました。72%の犬が人間のあくびに「伝染」したのです。
同時に測定された心拍数に変化はありませんでした。つまり、これはストレス反応ではなく、共感によるものだと考えられます。
2014年の研究では、犬と人間に赤ちゃんの泣き声を聞かせると、犬も人間もコルチゾール(ストレスホルモン)のレベルが有意に上昇しました。2019年の研究では、飼い主がストレスを感じているとき、犬の心拍変動が飼い主と同期することが示されています。飼育期間が長いほど、この同期は強くなるのです。
15,000世代を超える絆
犬の目を見つめるとき、そこには15,000世代を超える絆が宿っています。オキシトシンが分泌され、尾状核が活性化し、心拍が同期する。これらすべてが科学の言葉で語られる証です。
日本では令和5年度、約2,100頭の犬が殺処分されています。20年前の15万頭から大幅に減少したものの、今も1日平均6頭の命が失われている計算です。一方で約17,000頭の犬が返還・譲渡により生き延びており、神奈川県や東京都では行政と民間団体の協働により、犬の殺処分ゼロを達成しています。
認知科学の知見は犬のトレーニング方法を変えつつあり、脳科学は保護犬のトラウマケアに応用され始めています。
3万年前、最初のオオカミが人間の焚火に近づいたあの瞬間から、私たちは互いを変え続けてきました。その進化は、まだ終わっていません。
【Information】
主要な研究論文
- Nagasawa, M., et al. (2015). “Oxytocin-gaze positive loop and the coevolution of human-dog bonds.” Science, 348(6232), 333-336.
- Berns, G.S., et al. (2012). “Functional MRI in awake unrestrained dogs.” PLOS ONE, 7(5).
- Kaminski, J., et al. (2004). “Word Learning in a Domestic Dog: Evidence for Fast Mapping.” Science, 304(5677), 1682-1683.
- Romero, T., et al. (2013). “Familiarity Bias and Physiological Responses in Contagious Yawning by Dogs Support Link to Empathy.” PLOS ONE, 8(8).
- Karl, S., et al. (2020). “Exploring the dog–human relationship by combining fMRI, eye-tracking and behavioural measures.” Scientific Reports, 10, 22273.
用語解説
fMRI(機能的磁気共鳴画像法):脳の活動を可視化する技術。血流の変化を検出することで、どの脳領域が活性化しているかを測定する。
オキシトシン:神経ペプチドホルモンの一種。母子間の愛着形成、信頼関係の構築に関わることから「愛情ホルモン」とも呼ばれる。
尾状核:脳の深部にある神経核。報酬、動機づけ、学習に関わる領域で、快感や喜びを感じるときに活性化する。
Fast Mapping(速い写像):1回の提示で新しい単語とその意味を結びつける学習能力。人間の子どもの言語習得において重要な役割を果たす。
感情の伝染(Emotional Contagion):他者の感情状態を観察することで、自分も同じ感情を感じる現象。共感の原始的な形態と考えられている。
エピジェネティクス:DNA配列の変化を伴わない、遺伝子発現の変化。環境要因により遺伝子のスイッチがオン/オフされる仕組み。
支援団体
- 環境省 動物愛護管理室:https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/
- ピースワンコ・ジャパン:https://wanko.peace-winds.org/
- 公益財団法人動物環境・福祉協会Eva:https://www.eva.or.jp/
























