Vesuvius Challenge、ヘルクラネウムの巻物をAIで解読─2000年の沈黙が再び語り出す

火山に焼かれて炭の塊になった巻物が、開かれることなく中身を語り出した——そんなSFのような出来事が、現実になりました。鍵を握るのは、目に見えないインクを浮かび上がらせるAIと、原子レベルの精度で物体を透視する巨大な実験装置。ページをめくる代わりに、コンピューターの中で巻物を「ほどく」。その先に現れたのは、2,000年前の哲学者が書き残した、これまで誰も読めなかった言葉でした。古代と最先端技術が交わる現場で、いま何が起きているのか。順を追って見ていきます。


2026年6月25日、Vesuvius Challengeがヘルクラネウムの巻物から新たなテキスト、書名、著者を解読したと発表した。発見はESRF(欧州シンクロトロン放射光施設)と英国Diamond Light Sourceの高解像度マイクロCTスキャンによるものである。ナポリに収蔵されるPHerc. 1667では、約1.5メートルの連続したテキストと約20列(公式では約22列とも)の文字が仮想的に開封された。

この巻物は1980年代に一部が開封された際は判読不能とされ、紀元前2世紀、または紀元前3世紀後半のものと推定される。共同創設者でケンタッキー大学教授のブレント・シールズ、ナポリ・フェデリコ2世大学のフェデリカ・ニコラルディ助教らが分析にあたった。PHerc. 139からは「フィロデモス『神々について』第8巻」の書名が特定された。スキャンはESRFのExtremely Brilliant SourceとビームラインBM18で実施され、巻物1本あたり最大300テラバイトのデータを生成した。未開封の巻物は600本以上残る。

From: 文献リンクThe day the Herculaneum scrolls began speaking again

【編集部解説】

まず、今回のニュースの「主役」を整理しておきましょう。発表したのはVesuvius Challenge(ヴェスヴィオ・チャレンジ)という国際的なプロジェクトです。これは2023年3月、GitHub前CEOのナット・フリードマン、起業家のダニエル・グロス、そしてケンタッキー大学のブレント・シールズの3名が立ち上げた、賞金付きのオープンな技術コンテストです。火山の高熱で炭化して開けなくなったヘルクラネウムの巻物を、「物理的に開かずに読む」という難題に世界中の頭脳を呼び込むのが狙いでした。

ここで起きていることの本質は、考古学の発見というより「画像処理とAIの勝利」です。巻物はインクも紙(パピルス)も同じ炭素でできているため、X線で撮影しても普通は文字が見えません。そこで競技者たちは、パピルス表面のわずかな質感の違いから「ここにインクがある」と判定するニューラルネットワークを訓練しました。撮影を担うのがESRFやDiamond Light Sourceといったシンクロトロン施設で、巻物を1本あたり最大300テラバイトという膨大な三次元データに変換します。この生データの上に、巻きを仮想的にほどく「バーチャル・アンラッピング」とAI解析が乗る、という二段構えの構造です。

今回の発表で押さえるべきは、ESRF版が伝える以上に成果が広いという点です。ケンタッキー大学やDiamond Light Sourceの発表によれば、PHerc. 1667の約1.5メートル・20列に加え、オックスフォードのボドリアン図書館が所蔵するPHerc. 172から70列以上のテキストが回収され、こちらはフィロデモスの『悪徳について(On Vices)』第1巻と特定されています。ESRFの記事はこのPHerc. 172に触れていないため、全体像を知るには複数のソースを重ねる必要があります。innovaTopiaが今あえてこの一報を取り上げるのは、「単発の解読」が「複数の巻物をまるごと読む」段階へ移ったことを示す節目だからです。

ソースを重ねる価値は、巻物の中身そのものにも表れています。ESRF版がPHerc. 1667の著者を「不明」とするにとどめているのに対し、Diamond Light Sourceの発表はもう一歩踏み込み、断片しか現存しないストア派の哲学者クリュシッポスの著作と関連する可能性を指摘しています。一方が慎重に保留した点を、もう一方が仮説として提示する——同じ成果でも施設ごとに解像度が異なるわけで、ここに一次情報を読み比べる意味があります。

そして見逃せないのが、記事の後半でシールズが語る「転換点は技術ではなく目的にある」という一文です。2023年の最初の解読では、ある巻物の約5%が読めたにすぎませんでした。それが今や、AIがテキストを吐き出す速度に、人間の解読が追いつかなくなりつつあります。つまり主役が、ツールを設計するエンジニアから、ギリシア語を読み解き文脈に位置づける古典学者・パピルス学者へと移り始めているのです。技術が成熟すると、価値の源泉が「動かすこと」から「意味を与えること」へ移る——これはAI時代の多くの分野に通じる構図と言えるでしょう。

この技術が開くのは、ヘルクラネウムだけではありません。バーチャル・アンラッピングは、古い書物の装丁に再利用された別の文書や、リサイクルされたパピルスで作られたミイラのマスクなど、「壊さずに中身を読みたい」あらゆる対象に応用が利きます。失われたと思われていた古代の著作が、物理的に触れることなく次々と人類の知識に復帰しうる——文化遺産の保存と解読が両立する点が、最大の意義です。

一方で、潜在的な課題も冷静に見ておきましょう。AIが「インクがある」と推定して描き出す文字は、あくまで確率的な復元です。人間の校訂が伴わなければ、存在しなかった読みを生み出すリスクは残ります。だからこそチームは、各読みをパピルス学者が一つずつ検証する体制を敷いています。古代の思想を扱う以上、スピードよりも検証の厳密さが問われる領域だと言えるでしょう。

長期的な視点では、未開封の巻物が依然600本以上残っていることが重要です(資料によっては約800本という数字も見られますが、これは「未開封の数」と「パピルス全体の数」とで母数の取り方が異なるためで、いずれにせよ膨大な量が手つかずである点は変わりません)。これらがすべて読まれれば、古代ギリシア・ローマ世界の思想史が部分的に書き換わる可能性すらあります。今回特定された『神々について』が第8巻まで存在したという事実一つをとっても、これまで第1巻しか知られていなかった著作の全体像が一変するのですから、その波及効果は計り知れません。沈黙していた2,000年分の声が、これからどんな順番で、何を語り出すのか——その入り口に私たちは立っています。

ヘルクラネウムの巻物(Herculaneum scrolls)
西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火で、近郊の都市ヘルクラネウムにあった邸宅の図書館ごと炭化した古代の巻物群。炭の塊と化しているが、古代世界から唯一まとまった形で残る蔵書とされ、その学術的価値は極めて高い。

バーチャル・アンラッピング(仮想開封)
壊れやすい巻物を物理的に開かず、X線CTスキャンで得た三次元データ上で「巻きを仮想的にほどき」、平らな一枚のシートに展開して読めるようにする技術。物体を破壊せず内部を読める点が最大の特徴である。

マイクロCTスキャン
医療用CTよりはるかに高い解像度で対象を撮影する手法。人毛より薄いパピルスの層を一枚ずつ識別する必要があり、通常の機器では到達できない精度が求められる。

シンクロトロン(放射光施設)
電子をほぼ光速まで加速し、その際に生じる極めて明るいX線を利用する大型研究施設。巨大な顕微鏡のように物質の内部構造を可視化できる。ESRFやDiamond Light Sourceがこれにあたる。

Extremely Brilliant Source(EBS)/ BM18
ESRFが導入した次世代の高輝度放射光源がEBS。BM18はその能力を活かした旗艦ビームライン(実験ステーション)で、微細かつ安定したビームにより高品質な断層画像の再構築を可能にする。

ニューラルネットワーク/機械学習
炭素でできたインクが同じ炭素のパピルスにほぼ埋もれて見えない問題を解くため、表面の質感の違いから「インクの有無」を推定するAIの手法。スキャンデータから文字を浮かび上がらせる中核を担う。

フィロデモス(ガダラのフィロデモス)
紀元前1世紀ごろに活躍したエピクロス派のギリシア哲学者。ヘルクラネウムの邸宅に住み込んだ哲学者と考えられ、これまで解読された巻物の多くが彼の著作で占められている。今回『神々について』第8巻の存在が確認された。

クリュシッポス(Chrysippus)
紀元前3世紀のストア派を代表する哲学者。膨大な著作を残したとされるが、現在は断片しか現存しない。Diamond Light Sourceは、PHerc. 1667がこのクリュシッポスの著作と関連する可能性を指摘している。

ストア派/エピクロス派
ともに古代ギリシア・ローマの哲学学派。PHerc. 1667はストア派の思想を反映する倫理の論考と見られ、ホルメー(衝動)やフロネーシス(実践的知恵)といった概念が登場する。一方フィロデモスはエピクロス派に属する。

パピルス学(パピロロジー)
古代のパピルス文書を読み解き、年代・著者・内容を考証する学問分野。AIが文字を抽出した後、その読みを検証し文脈に位置づける役割を担う。

PHerc.(PHerc. 1667 / 139 / 172 / 26)
「Papyri Herculanenses」の略で、ヘルクラネウム・パピルスに付された整理番号。1667はナポリ収蔵、172はオックスフォードのボドリアン図書館収蔵など、番号ごとに別個の巻物を指す。

【参考リンク】

Vesuvius Challenge(公式サイト)(外部)
炭化した巻物をAI・コンピュータービジョン・幾何学で読み解く賞金コンテストの公式サイト。データや参加方法を公開。

ESRF(欧州シンクロトロン放射光施設)(外部)
フランス・グルノーブルにある世界最高輝度級のシンクロトロン施設。BM18ビームラインでの撮影を担当した。

Diamond Light Source(外部)
英国のシンクロトロン施設。PHerc. 172を撮影し、『悪徳について』第1巻の特定につながるスキャンを実施した。

ケンタッキー大学 ヘルクラネウム特設ページ(外部)
プロジェクトを主導するケンタッキー大学の特設ページ。発表概要やメディアキット、動画素材を提供している。

Biblioteca Nazionale di Napoli(ナポリ国立図書館)(外部)
ヘルクラネウム・パピルスを保管するナポリの国立図書館。今回の発表式典の会場でもある協力機関。

【参考記事】

Historic Breakthrough: Ancient works recovered from carbonized Herculaneum scrolls(Newswise)(外部)
ケンタッキー大学発の公式発表。PHerc. 1667の1.5メートル・20段、PHerc. 172の70段以上の回収と新著作の特定を報じる。

New secrets revealed from Herculaneum scrolls(Diamond Light Source)(外部)
撮影を担ったDiamond側の発表。『悪徳について』の確認、『神々について』8巻構成、クリュシッポス関連説を伝える。

An entire Herculaneum scroll has been read for the first time(Vesuvius Challenge 公式)(外部)
PHerc. 1667の現存部分が、開かずに最初から最後まで全文読まれた初の例だと説明。撮影・再構築・機械学習の工程やデータ公開先を示す。

Vesuvius Challenge 2023 Grand Prize awarded: we can read the scrolls!(Vesuvius Challenge 公式)(外部)
2023年に賞金70万ドルのグランプリが授与された経緯を記録。今回の成果に至る出発点となった回の記録。

Three Students Just Deciphered the First Passages of a 2,000-Year-Old Scroll(Smithsonian Magazine)(外部)
2023年時点で解読は1本の約5%、賞金総額100万ドル超だったと報じ、今回までの飛躍の大きさを裏づける。

Scientists have just unlocked the secrets of an ancient scroll torched by Mount Vesuvius(The Washington Post)(外部)
大手一般紙の視点で今回の発表を報道。約20段の解読と、触れただけで崩れる炭化巻物の困難さを解説する。

【関連記事】

古代ローマの焼け焦げたパピルス、AI技術で読解成功:歴史に新光
Vesuvius Challengeが最初の巻物の解読に成功し、70万ドルのグランプリが授与された2024年時点の到達点を伝える記事。今回の成果の出発点にあたる。

AIが解読、古代ローマスクロールが歴史研究に新風
ヘルクラネウムのスクロールがAIで読み解かれ、失われた哲学対話の回復可能性が見え始めた段階を報じた記事。本記事と合わせて読むと進展がわかる。

【編集部後記】

この話のおもしろさは、最先端のAIが向かった先が「未来」ではなく「過去」だった、という逆転にあると思います。私たちはつい、AIに明日の天気や来年の市場を予測させたくなりますが、ここではその力が、2,000年前の沈黙へと差し向けられました。前に進むための道具が、振り返るために使われている。その絵柄がどこか新鮮で、しばらく頭から離れませんでした。

このプロジェクトの歩みは、これまでも何度か追いかけてきました。2024年の段階では、最初の巻物のほんの数%が読めただけで「ゲームチェンジャーだ」と沸いていたのを覚えている方もいるかもしれません。あれから2年、いまや巻物を一本まるごと読み、書名も著者も特定できるところまで来ています。一つの技術が、驚きの発見から日常的な手法へと地続きに育っていく様子を、時間をかけて見られるのは貴重なことだと感じます。

もうひとつ印象に残ったのが、技術が一段落したところで主役が交代していく、という流れです。文字を浮かび上がらせるところまではエンジニアの仕事でしたが、それが「何を意味するのか」を読み解く段になると、バトンはギリシャ語と格闘してきた人文学者へと渡されます。AIが速く正確になるほど、その出力を受け止めて意味に変える人の存在が、かえって重くなる。これはおそらく、巻物の話に限らない予感です。

考えてみれば、炭になったあの巻物は、ずっとそこにあったわけです。図書館の棚に、博物館の収蔵庫に、ただ黒い円筒として。読めないから価値がないとみなされ、けれど捨てられもせず、誰かが読める日を待っていた。技術が追いついた瞬間、それは資料に変わりました。今この瞬間にも、「まだ読めないだけ」のものが世界中に眠っているのだとしたら、私たちが手にしているのは解読の道具であると同時に、何を残しておくべきかという問いそのものなのかもしれません。

未開封の巻物は、まだ600本以上あります。次にどんな声が聞こえてくるのか、同じ読者として、その続きを楽しみに待ちたいと思います。過去の記事もあわせて読んでもらえれば、この2年の進みかたがより立体的に見えてくるはずです。

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山本 達也
『デジタルの窓口』代表。名前の通り、テクノロジーに関するあらゆる相談の”最初の窓口”になることが私の役割です。未来技術がもたらす「期待」と、情報セキュリティという「不安」の両方に寄り添い、誰もが安心して新しい一歩を踏み出せるような道しるべを発信します。 ブロックチェーンやスペーステクノロジーといったワクワクする未来の話から、サイバー攻撃から身を守る実践的な知識まで、幅広くカバー。ハイブリッド異業種交流会『クロストーク』のファウンダーとしての顔も持つ。未来を語り合う場を創っていきたいです。