「そのモデル、どのチップで鍛えたと思いますか」——この一言が、今回のニュースのいちばん面白いところです。強いAIが出た、というだけならもう珍しくありません。けれど今回は、性能の数字よりも「どこで、何を使って作られたか」が話題をさらいました。しかも仕掛けたのは、AIの老舗でも半導体メーカーでもありません。Meituan(美団)——日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、中国では数億人が使うフードデリバリー最大手です。その会社が、匿名で腕試しをして、正体を明かしたら業界がざわついた。そんな少し痛快な経緯もありました。技術の中身に入る前に、まずはこの意外性の輪郭から一緒に眺めていきましょう。
Meituanは2026年6月30日、1.6兆パラメータのMoEモデル「LongCat-2.0」をMITライセンスのもとでオープンソース化し、GitHub、Hugging Face、自社プラットフォームで公開した。LongCat-2.0は以前「Owl Alpha」として知られた匿名モデルであり、正体が明かされる前からOpenRouter上で利用量上位に入っていた。
ReutersやLongCat公式は「利用量ベースで世界トップ3」と伝えており、一部の開発者向けランキングでは首位だったとされる。自律的コーディング、ソフトウェアエンジニアリング、AIエージェント、リポジトリ管理向けに設計され、100万トークンのコンテキストウィンドウに対応する。Meituanは、5万基を超える国産ASICチップのクラスターのみで訓練したと主張している。
公開前、Owl Alphaは月間約10.1兆トークンを処理し、1日平均5590億トークン、前月比242%の成長を記録したとされる(OpenRouter由来のデータ)。SWE-bench Proでは59.5を記録し、GPT-5.5の58.6を上回ったとされる。LongCat Sparse Attention、Zero-Compute Experts、MOPDポストトレーニングフレームワークを導入している。
From:
Meituan Open Sources LongCat-2.0 Under MIT License
【編集部解説】
このニュースの本当の核心は、「また中国から巨大モデルが出た」ということではありません。注目すべきは、Meituanが1.6兆パラメータ級のモデルを、事前学習(プレトレーニング)から推論まで一貫して国産チップだけで完結させたと主張している点にあります。
ここは少し補足が要ります。AIの計算には大きく「事前学習」と「推論」の2段階があります。推論は完成したモデルを動かす比較的軽い処理で、中国のDeepSeekが2026年4月に公開したV4-Proについても、Huawei製チップ上で動作するとの報道がありました。しかし、膨大なデータを流し込んでモデルを一から鍛える事前学習は桁違いに重く、これまでNvidiaの高性能GPUがほぼ必須とされてきた領域です。
Meituanは、この最も重い工程をNvidia抜きで、5万基超の国産ASICクラスターでやり切ったと述べています。米国の対中輸出規制が前提としてきた「先端GPUを止めればフロンティアAIの開発も止められる」という論理に、正面から疑問符を突きつける事例だと言えるでしょう。
ここで一次情報を確認したうえで、いくつか慎重に扱うべき点を補います。まず、Meituanは「国産チップ」とだけ述べ、チップメーカーや型番を公式には明かしていません。Reutersも「チップメーカーは名指しされていない」と報じています。米国の輸出規制以降、HuaweiやEnflame(燧原)といった国内勢が供給の隙間を埋めて存在感を増しており、業界ではHuaweiのAscend系が有力視されていますが、これはあくまで推測の域を出ません。
もう一点、公開当日時点でGitHubとHugging Faceのページには「モデル重みは近日公開」と記されており、完全な重みはまだ配布されていませんでした。「オープンソース化」という言葉から誰でもすぐに全てをダウンロードできる状態を想像すると、実態とずれる可能性があります。API経由での利用は可能でしたが、重みを手元に置く「オープンウェイト」としての完全な利用は、この時点では待ちの状態でした。
ベンチマークについても注意が必要です。SWE-bench Proで59.5を記録しGPT-5.5の58.6を上回った、という数字は、あくまでMeituanの自己申告値です。Artificial Analysisのような第三者評価はまだ出ておらず、独立検証を経ていません。ベンダー発表の「〜に匹敵」という見出しは、後の精査で印象が和らぐことが少なくない、というのが技術報道の経験則です。
では、この技術で何ができるようになるのか。LongCat-2.0は汎用チャットボットではなく、コードの理解、リポジトリ規模の改修、ツール実行といった「エージェント型のコーディング」に特化して設計されています。100万トークンという広大なコンテキストは、比較的大規模なコードベースをまとめて読み込ませて作業させることを可能にします。MITライセンスのため、企業は派生物を公開する義務を負わずに自社製品へ組み込める設計です。
ポジティブに見れば、これは開発現場にとって選択肢の拡大です。重みが完全公開されれば、セルフホストによってAPI依存やデータ流出リスクを下げ、コストを抑えながら高性能な支援を受けられる可能性が開けます。西側のクローズドモデルへのアクセス制限が強まるなか、代替肢としての存在感は増していくはずです。
一方で潜在的なリスクも見据えておく必要があります。国産チップを支えるソフトウェア群は、Nvidiaの成熟した「CUDA」エコシステムに比べればまだ発展途上と見る向きがあります。性能最適化が特定の国産ハードに紐づけば、モデルの真の可搬性には限界が生じます。なお、中国の国産チップ主張全般については、非公式・一部報道レベルで、密輸されたNvidia製ハードが混じる可能性を指摘する声もあります。ただし、これはLongCat-2.0に関して確認された事実ではありません。
規制と地政学の観点では、この一件は輸出規制をめぐる議論を確実に動かします。国産ハードでの大規模訓練が一つ成功するたびに、チップ規制という戦略カードの有効期間は短くなっていく——そうした見立てが現実味を帯びてきました。
長期的な展望として、今私たちが目撃しているのはAIの「計算基盤そのものが国ごとに分岐していく」時代の入り口かもしれません。モデルの優劣以上に、どの土台の上でAIが育つのかが問われ始めています。食品デリバリー企業が地政学の最前線に立つという意外性こそ、この技術の潮流がどれほど広く社会を巻き込みつつあるかを物語っています。
【用語解説】
MoE(Mixture-of-Experts/混合エキスパート)
巨大なモデルを多数の「専門家(エキスパート)」に分割し、入力ごとに必要な一部だけを動かす仕組みだ。LongCat-2.0は総パラメータ1.6兆のうち、1トークンあたり平均約480億(33B〜56B)だけを活性化させ、規模と効率を両立している。
ASIC(特定用途向け集積回路)
特定の処理に最適化して設計されたチップ。汎用のGPUと異なり、AI計算などの用途に絞ることで効率を高められる。
LongCat Sparse Attention(LSA)
100万トークンという長大な文脈を、計算資源を過度に消費せず処理するための独自の注意機構(アテンション)。
Zero-Compute Experts
定型的な処理を軽量な経路に通し、無駄な計算を省くMoEの工夫。過密なモデルにありがちな計算の浪費を抑える。
MOPD(Multi-Teacher On-Policy Distill)
複数の「教師モデル」の知識を統合してモデルを鍛えるポストトレーニング(事後学習)手法。
Owl Alpha
LongCat-2.0の正体が明かされる前に使われていた匿名の開発コード名。素性を隠したまま利用量ランキングで上位に立っていた。
SWE-bench Pro
実際のソフトウェア開発課題を解かせてAIの能力を測るベンチマーク。数値は開発元の自己申告であり、第三者検証は別途必要となる。
SuperPod(スーパーポッド)
多数のAIチップを高速に連結した大規模な計算ユニット。数万基規模のクラスターを構成する単位となる。
【参考リンク】
LongCat(Meituan)公式サイト(外部)
MeituanのLongCatモデル群の公式サイト。LongCat-2.0の仕様やベンチマーク、リリース情報を確認できる。
LongCat-2.0 GitHubリポジトリ(外部)
LongCat-2.0の公式リポジトリ。技術資料が置かれ、モデル重みは公開当初「近日公開」と記載されていた。
LongCat-2.0 Hugging Faceページ(外部)
LongCat-2.0のモデルカード掲載ページ。総1.6兆パラメータや約480億活性化などの技術仕様が記される。
OpenRouter(Owl Alphaページ)(外部)
匿名モデルOwl Alphaの提供ページ。1Mコンテキストや公開日など、利用状況の確認に使える。
SWE-bench(外部)
実在のソフト課題でAIのコーディング能力を測るベンチマークの公式サイト。SWE-bench Proなどの派生版がある。
DeepSeek(外部)
中国のAI企業。4月公開のV4-Proが、LongCat-2.0との比較対象としてたびたび言及される。
NVIDIA(外部)
AI学習向けGPUで世界的シェアを持つ企業。対中輸出規制の対象で、「Nvidia非依存」の文脈の中心にある。
【参考記事】
China’s Meituan says new AI model trained on domestic chips(Reuters)(外部)
「チップメーカーは名指しせず」と明記し、50,000基の国産クラスターでの訓練・推論というMeituanの主張を淡々と報じる基点記事だ。
China claims biggest AI model trained on local chips, as Meituan releases LongCat-2.0(South China Morning Post)(外部)
事前学習と推論の両方を5万基の国産クラスターで完結させた業界初、というMeituanの主張を報じる。
Meituan open sources LongCat-2.0, the 1.6T, near-frontier agentic coding model that’s been leading OpenRouter(VentureBeat)(外部)
総1.6兆・活性化約480億の構造、Owl Alpha時代の利用量、重みが公開当初「近日公開」だった事実まで踏み込む。
Meituan Open-Sources 1.6T-Parameter LongCat-2.0, Trained on Domestic Chinese AI Chips(Silicon Report)(外部)
SWE-bench Pro 59.5対GPT-5.5の58.6に加え追加スコアを整理。数値が自己申告で検証待ちの点も明記している。
LongCat-2.0: China’s Most Unexpected AI Model(Geopolitechs)(外部)
チップメーカー非公表を検証し、学習規模やランキングを紹介。輸出規制の本当の争点を冷静に分析した論考だ。
China’s Meituan open-sources massive LongCat-2.0 AI model, saying it was trained on domestic chips(SiliconANGLE)(外部)
Meituanが2023年の買収を経てAI開発に参入した経緯を伝える。同社がなぜ今この分野に賭けるのか背景がわかる。
【関連記事】
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【編集部後記】
このニュースを追いかけていて、いちばん引っかかったのは「強いかどうか」ではありませんでした。スコアの大小は、正直なところ数か月後には塗り替えられます。それよりも心に残ったのは、AIを「何の上で育てるか」という土台の話が、こんなにも大きな意味を持ち始めたことです。
これまで私たちは、AIを語るとき自然とモデルの名前を口にしてきました。どれが賢い、どれが安い、と。でも今回の一件は、その一段下の地層——どんなチップで、誰の計算資源で鍛えられたのか——を、否応なく意識させます。同じ「オープンなAI」でも、Nvidiaの上で育ったのか、国産チップの上で育ったのかで、背負う文脈がまるで変わってくる。そんな時代に、静かに入り込んでいる気がします。
もちろん、鵜呑みは禁物です。重みはまだ完全には配られておらず、性能の数字も自己申告の段階で、第三者の検証はこれからです。チップの正体もはっきりとは明かされていません。「すごい」と「まだわからない」が同居しているのが、今のこのニュースの正確な姿だと思います。だからこそ、驚きつつも、一歩引いて見守る目線を手放したくありません。
それでも、中国では誰もが使う生活サービスの会社が、計算基盤の地政学の真ん中に立っている、という絵は忘れがたいものです。テクノロジーの主役が、私たちの予想しない場所からふいに現れる。その予測のつかなさこそが、この分野を追いかける醍醐味なのだと、あらためて感じました。数か月後、この記事を読み返したとき、あの時が分かれ目だったと思えるのかどうか。その答え合わせも含めて、これからの動きを一緒に見届けていけたらと思います。












