512基。5200万人が「無制限」で使うと謳われるAIを支える、政府供給のGPUの数です。1社あたりに直せば最大256基。この数字で本当に「制限なし」が成立するのか、それとも「無料」という言葉が先に走っているのか。韓国が国を挙げて始めるこの実験は、公開前から不思議な緊張感をまとっています。
韓国の科学技術情報通信部(MSIT)は2026年7月13日、国民なら誰でも無料・利用制限なしで使える汎用AIチャットボットを提供する「AI for Everyone」プロジェクトの事業公募を公告した。
行政サービスの利用を補助するAIエージェントも別途用意される。開発は民間の2〜3社が担い、各サービスにおける韓国産ファウンデーションモデルの利用比率を50%以上とする。さらに、特定企業への集中を避けるため、各サービスにはサービス提供企業以外の国内AI企業が開発したモデルを30%以上組み込むことが求められる。外国製モデルは限定的に利用できるが、その分は政府支援の対象外となる。政府はNvidia B200 GPUを最大512基供給するが、選定企業も自己資金を拠出する。ベータ版は9月末、正式ローンチは2026年末までを予定する。提案書の提出期限は8月11日。政府支援は2030年末まで継続予定で、2027年以降の規模は年次評価と予算協議に左右される。
From: South Korea wants to give every citizen free, unlimited access to its own AI chatbot
【編集部解説】
「無料」という言葉が、いちばん大事な部分ではありません
このニュースを「気前のいい福祉政策」として読むと、本質を見落とします。韓国が始めようとしているのは、AIを電気や水道のような「国家インフラ」として位置づけ直す実験だと、編集部は見ています。しかもそれは、思いつきではなく、数年がかりで積み上げてきた産業政策の総仕上げにあたります。
背景には、韓国国内の「他国依存」への強い危機感があります。韓国の住民登録人口は2026年半ばで約5100万人。政府は、国民のおよそ3人に1人がまだAIを利用していないと説明しています。一方、生成AIの利用者は約2300万人に達するとされます。ところが、その多くが海外製の無料サービスに集中しているのが実情です。2026年4月時点の推計では、スマホアプリの月間利用者はChatGPTが約2345万人、Geminiが約845万人、Claudeが約241万人(Wiseapp調べ。サービス間で重複あり)。一方でAIに料金を払っている人は、約180万人ほどにとどまるとされます。
つまり韓国は、「国民のAI利用の多くが外国企業の無料枠に握られている」状態にあります。海外の提供元が突然、利用制限を厳しくしたり料金を引き上げたりすれば、行政・産業・生活の各所に影響が及びかねない。このリスクを、MSIT自身が政策課題として明示しています。それを国家として解消しにいく——それが今回の狙いです。
「なぜ今なのか」は、二つの伏線で説明できます
一つは制度です。韓国では2026年1月22日に「AI基本法」が施行されました(2025年1月公布)。韓国政府はこれを、EUに続く世界で2番目の包括的なAI法体系と位置づけています。これにより、政府がAI政策を推進する一般的な法的足場ができました。
もう一つは、AIの「エンジン」の準備です。韓国政府は2025年8月、独自の基盤モデルを開発する「ソブリンAI(独自AIファウンデーションモデル)」プロジェクトとして、Naver Cloud、LG AI Research、SK Telecom、Upstage、NC AI の5チームを選抜しました。これはトーナメント方式で、2026年1月の第1次評価ではLG・SKテレコム・Upstageの3チームが通過し、有力視されていたNaver Cloudが「独自開発性」を問われて脱落する波乱もありました。その後、2026年2月には新興のモティフテクノロジーズが追加公募で合流し、現在は4チームが8月初旬の第2次評価に臨む構図です。当初は段階評価を経て最終2チームを選ぶ設計でしたが、追加公募や事業再編の議論を受け、通過チーム数や最終確定時期は流動的です。報道では2026年末、または2027年2月との見通しが示されています。
今回の「AI for Everyone」は、このように国産モデルという“供給”を先に育て、そこへ国民という巨大な“需要”を国策で接続する構図になっています。半導体や通信で韓国が繰り返してきた「まず国内で徹底的に競わせ、勝ち残りを世界へ」という戦略の、AI版と読むこともできます。編集部としては、ここが今回の最大の読みどころだと考えています。
「無制限」を額面どおり受け取るのは、まだ早いかもしれません
一点、数字の受け止め方に注意が要ります。政府が供給するNvidia B200 GPUの「最大512基」は、選定企業1社あたりではなく全体の枠です。2社選定なら各256基、3社なら首位256基・残り2社が各128基という配分になります。この512基はあくまで政府の初期支援枠であり、選定企業の自前設備や共同投資、モデルの効率を含めた実際の処理能力はまだ見えていません。5100万人規模で「無制限」をどう支えるのか——9月のベータ版は、それを試す最初の場になります。
「無料がいつまで続くのか」も、まだ完全には固まっていません。事業期間は2030年末までとされ、2027年以降のGPU運用費やサービス運営費の支援方式・規模は、毎年の評価と予算協議によって決まります。2031年以降の扱いは、現時点では明らかになっていません。科学技術情報通信部長官(副首相兼任)のペ・ギョンフン氏は、2026年5月の記者懇談会で、2028年以降も政府支援と企業の共同投資で無料を続けたい意向を示していますが、財源や分担は今後の交渉に委ねられています。
「ソブリンAI」とは、結局どこまでを指すのか
もう一つ、この政策には未解決の問いがついて回ります。国産モデルを義務づけても、その多くは結局Nvidia製のGPU上で動きます。現地でも「韓国の地にNvidiaのチップを置くこと」が、本当の意味でのAI主権と言えるのか、という指摘が出ています。もっとも韓国政府の定義は、海外製ハードを一切使わないことではなく、モデルの設計・重み初期化・学習・改良を外部の支配やライセンスに縛られず自国で行えることに重心があります。Naver Cloud の脱落劇が突きつけたのも、「相互に絡み合った世界で、どこからを“自前”と呼ぶのか」という線引きの難しさでした。
それでも、国民全体を対象にAIアクセスを公共サービスとして保証しようとする試みを、複数の海外メディアは「G20で初」と報じています(G20やOECDによる公式な国際比較は確認されていません)。うまくいけば、AIを「持てる者」と「持たざる者」の格差を国家が先回りして埋めるモデルになりますし、つまずけば、巨額の公費で「象徴的な自給自足」を買っただけ、という評価にもなりかねません。世界がこの実験を注視する理由は、そこにあります。
【関連記事】
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OpenAI GPT-5.6命名騒動の真相—米政府の限定公開とソブリンAIという宿題
「他国の政策判断でAIのスイッチが切られ得る」という、韓国が国策で解こうとしている当のリスクを、米国モデル側の事例で具体化した記事。本記事の「なぜ国産か」を裏側から補強する。
バーティカルAI19分野に集中投資、高市首相が第2期AI基本計画を決定
日本政府が国産基盤モデルと「源内」で自律性確保を狙う構図は、韓国「AI for Everyone」と好対照。日韓のAI主権政策を並べて読むための一本。
【編集部後記】
引っかかるのは、韓国が「国産モデル50%以上」を義務づけながら、その国産モデルの多くがNvidia製のGPU上で動くという構図です。土台のソフトは自前でも、その下の鉄はよそから買っている。ここを「主権」と呼べるのか、呼べないのか。
Naver Cloudが「独自開発性」を問われて脱落したとき、韓国自身がこの問いに直面したはずです。国産の線引きをどこまで厳しくすれば「自前のAI」と胸を張れるのか——その基準が、9月のベータ版の中身よりも、この政策の本当の合否を決めるのかもしれません。
【用語解説】
ファウンデーションモデル(基盤モデル)
大量のデータで事前学習し、対話・翻訳・要約など多様な用途に応用できる大規模なAIモデルの土台を指す。今回の韓国の計画では、海外モデルの微調整ではなく、国内で設計・事前学習した独自モデルを重視している。
ソブリンAI(主権AI)
自国の言語・文化・データを反映し、外部の支配やライセンス制約を受けずに自国で管理・改良できるAIのこと。技術的自立と安全保障の両面から各国が重視し始めている。韓国政府の定義でも、オープンソースや海外製GPUの利用自体は否定していない。
AI基本法
韓国のAIに関する包括的な法律。正式名称は「人工知能の発展と信頼基盤の造成等に関する基本法」。2025年1月公布、2026年1月22日施行。韓国政府はEUに続く世界2例目の包括的AI法体系と位置づけている。
AIエージェント
ユーザーの指示を受け、情報検索や手続きなどの作業を自律的に代行するAIを指す。今回の計画では、行政サービスの該当制度を見つけ、申請を支援する役割が想定されている。自律性の度合いには段階がある。
生成AI
文章・画像・音声などを新たに作り出すAIの総称。ChatGPTに代表される対話型サービスが典型。韓国では政府資料で約2300万人が利用しているとされる。
G20
主要国・地域による国際的な枠組み。19の主権国家にEUとアフリカ連合(AU、2023年に常任加入)を加えた構成で、名称は「G20」のまま用いられている。
【参考リンク】
科学技術情報通信部(MSIT)(外部)
「AI for Everyone」を主導する韓国政府の省庁。ICT・科学技術・情報通信政策を所管し、英語版で政策発表を確認できる。
Nvidia(B200 GPU)(外部)
政府が最大512基供給するAI用GPU「B200」の開発元。Blackwell世代の高性能プロセッサで大規模AIの学習と推論を担う。
ChatGPT(OpenAI)(外部)
韓国で最も利用者数の多い海外製生成AIアプリの一つで、政府が問題視する海外サービス依存を示す事例となっている。
Gemini(Google)(外部)
Googleが提供する生成AIサービス。韓国国内ではChatGPTに次ぐ約845万人(2026年4月推計の月間利用者)を持つとされる。
Claude(Anthropic)(外部)
Anthropicが提供する生成AIサービス。韓国でも約241万人(2026年4月推計の月間利用者)を抱えるとされる海外製の一つ。
Naver Cloud(HyperCLOVA X)(外部)
韓国産基盤モデルの代表格「HyperCLOVA X」を開発。ソブリンAI5チームに選ばれたが、第1次評価で独自開発性を問われ脱落した。
LG AI Research(EXAONE)(外部)
基盤モデル「EXAONE」を開発するLGのAI研究組織。ソブリンAIプロジェクトの第1次評価を首位で通過した実力派だ。
SK Telecom(A.X)(外部)
韓国最大の移動通信事業者。基盤モデル「A.X」シリーズを開発し、ソブリンAIで勝ち残った3チームの一角を占める。
Upstage(Solar)(外部)
基盤モデル「Solar」を開発するスタートアップ。大企業が並ぶ中で唯一のベンチャーとして第1次評価を通過した注目株だ。
NC AI(VARCO)(外部)
ゲーム大手NCSOFT系のAI企業。基盤モデル「VARCO」を開発。ソブリンAI5チームに選ばれたが第1次評価で脱落した。
【参考記事】
South Korea will give all 52 million citizens free AI access(TheNextWeb)(外部)
対象人口や国内AI利用の実態を数値で提示。ChatGPT約2345万人などの利用者数と有料約180万人の対比を示した記事。
South Korea Becomes First G20 Nation to Give All Citizens Free AI Access(TechTimes)(外部)
「国産モデル50%以上」の意味を掘り下げ、対象5モデルや512基での同時応答数の試算、26万基GPU構想にも触れた記事。
Korean Government Launches Tender for Free National AI Service(The Elec)(外部)
GPU配分(256/128)や政府支援が2027〜2030年末まで続くことを伝え、「512基は全体枠」の根拠とした記事。
South Korea launches free AI agent project for all citizens(UPI)(外部)
7月13日の入札開始と8月11日締切、2〜3社選定を伝達。「AI基本社会」を目指す政府の位置づけを紹介した記事。
Public service ‘AI for Everyone’ set for launch within this year(Korea.net)(外部)
韓国政府公式の発表。9月末ベータ後に年内、汎用チャットボットと行政支援AIエージェントを立ち上げる計画を確認できる。
[Yoo Choon-sik] Sovereign AI and the limits of autonomy(The Korea Herald)(外部)
ソブリンAIの限界を論じたコラム。Naver Cloud脱落の経緯と「完全に自前のAIは可能か」という問いを整理した記事。
MSIT says it has laid groundwork for South Korea to become a top 3 AI power(Digital Today)(外部)
GPU26万基確保計画や当初2028年まで無料の方針、長官の無料継続意向を伝達。「無料はいつまで」の背景とした記事。












