1,500万ドルと約1,000ドル。同じ9月に発表されたAIの2つの成果を、挑戦状を出した物理学者はこの2つの値札で並べました。前者はミレニアム懸賞問題、後者は理論物理学の9ループ計算です。問われているのは、AIが何を解いたかより、研究室の予算でいま何が届くのかということです。
Anthropicは2026年9月25日、Claudeが理論物理学の未踏の計算を完了したとする寄稿記事を公開した。対象はN=4超対称ヤン=ミルズ理論における6粒子散乱振幅の9ループ計算で、元理論物理学者のマット・フォン・ヒッペル氏の挑戦に、Anthropicの物理学者2人がClaude Science上のFable 5.1で取り組んだ。
Claudeは2通りの手法で計算し、費用は手法ごとに1,000〜2,000ドル程度だった。ブートストラップ方式の計算部分はPythonとSymPyで約100ドル、96CPUで1週間分の規模だった。結果はSLAC国立加速器研究所のランス・ディクソン氏が検証した。中国科学院のソン・ハー氏のグループも、GPT-6の補助を受けて9ループのシンボルを独自に得ていた。
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Yes, Claude can do Nine Loops
【編集部解説】
記事の冒頭に、9つの図が横一列に並んでいます。どれも六角形から6本の脚が外へ伸び、左から右へ進むほど内側の仕切りが増えていきます。1から8までは灰色で、最後の9だけが橙色です。
外に伸びる6本の脚が、衝突に関わる6つの粒子です。内側に閉じた面の数が「ループ」で、粒子どうしの相互作用をどこまで入り組ませて計算に含めるかの目安にあたります。ループを1つ増やすごとに、この理論の厳密な答えにより近づき、計算は桁違いに重くなります。多くの散乱振幅は2ループまでしか計算されていないと、寄稿者のマット・フォン・ヒッペル(Matt von Hippel)氏は書いています。
この1列の図は、分野が1ループずつ積み上げてきた道のりそのものです。8ループは2023年、SLAC国立加速器研究所のランス・ディクソン(Lance Dixon)氏とアンディ・リウ(Andy Liu)氏が到達しました。その先の9つめに、今回初めて色が付きました。
挑戦状から1か月で届いた答え
フォン・ヒッペル氏は、博士号の研究で3ループの計算に携わった元理論物理学者です。いまはサイエンスライターとして、物理学のブログを書き続けています。
AIの将来について専門家の意見が割れるなか、同氏は自分がよく知る問題で判断したいと考えました。選んだ物差しは、アイデアの新しさではなく計算量です。研究者が手元に持てる程度の計算資源で、分野の大きな未解決問題を解いてみせてほしい。そう書いた挑戦状に、Anthropic社内の物理学者であるリアム・フィッツパトリック(Liam Fitzpatrick)氏とシッダールト・ミシュラ=シャルマ(Siddharth Mishra-Sharma)氏が応えました。
使われたのは、科学者向けの作業環境であるClaude Scienceと、その上で動くClaude Fable 5.1です。2人はまず、どの課題なら解けそうかをClaudeに尋ね、9ループの六粒子振幅を求めるよう短く指示しました。その後に送ったのは、「寝るので数時間は応答できない。止めるまで続けて、4〜6時間ごとに報告を」といった程度の言葉だったといいます。
Claudeは、ブートストラップと呼ばれる正攻法と、ディクソン氏らが8ループで使った形状因子を経由する方法の2通りで計算をやり切りました。
今回の記事は、Anthropicがフォン・ヒッペル氏に執筆を依頼し、報酬を支払った寄稿です。同氏は自身のブログで、秘密保持契約を含めて一切の契約書に署名せず、Anthropicから受けたのは軽微な修正の提案だけで、主張や結論は変えていないと説明しています。検証を担ったディクソン氏は、Claudeの利用クレジットを受け取っています。
値札が語るもの
今回の発表でもっとも目を引くのは、答えそのものより値札です。
費用は、利用者が同じことをした場合の換算で、どちらの手法も1,000〜2,000ドル程度とされています。大半はClaudeを長時間動かした分です。ブートストラップ方式では、PythonとSymPyによる計算部分に約100ドルを要し、96個のCPUを1週間動かした規模でした。フォン・ヒッペル氏は自身のブログで、費用の9割以上がLLMの側だったと補足しています。
同じ9月、OpenAIはミレニアム懸賞問題の1つ、ナビエ・ストークス方程式の問題を解決したと発表しました。約1万のエージェントを並べた大規模な取り組みで、クレイ数学研究所による評価は続いています。フォン・ヒッペル氏はこの2つを並べ、一方は数学史に残る難問に1,500万ドルを投じ、もう一方は約1,000ドルで理論物理学の研究計画を着実に1歩進めた、と対比しています。
どちらが上という話ではありません。前者は「AIはどこまで行けるか」を、後者は「いま研究室の予算で何ができるか」を示しています。同氏の言葉を借りれば、今回の結果は分野を塗り替える突破口については多くを語らないが、1,000ドルの余裕がある理論物理学者に今なにができるかについては、多くを語っています。
年間の出張費のほうがよほど高い研究費の申請書を書いたことがある、とも同氏は書き添えています。結果に直結する1,000ドルなら、航空券に使うより有意義だろう、と。
難しかったのは計算量ではなく、壊れやすさ
では、何がそれほど難しかったのでしょうか。検証を担ったディクソン氏の補遺が、その答えになっています。
同氏が感心したのは、計算量の大きさではありませんでした。手順全体がきわめて壊れやすく、どこか1か所でも誤ればスフレのように崩れ、なぜ崩れたかを探す作業が待っている。しかも論文には書き切れない退屈な細部が大量にあり、Claudeはそのコードを一から組み上げる必要があった。専門家が「直接やるのは難しすぎる」と見ていたのは、この壊れやすさのほうでした。
フォン・ヒッペル氏も、自分が同じ規模の計算をすれば、最初の1回はまず失敗して2週間かかっていただろうと書いています。Claudeが途中でどれだけ誤ったかは分からないものの、外部の協力者の助けなしに最後まで到達した。AIは誤りが多くて使い物にならないと考えている人ほど、ここが今回の要点になる、というのが同氏の見立てです。
検証しやすい問題が選ばれていた
この成果には、あらかじめ答え合わせの仕組みが用意されていました。
ディクソン氏のチームは以前から、独自のトランスフォーマーモデルで高次のループを予測する計画を進めており、「機械が出したどんな候補解も検証できる道具を持っている」と掲げていました。Claudeの答えはその道具で確かめられ、同氏は主に9ループの振幅から形状因子へ戻る方向で約2週間かけて検証しています。
公開された結果のページには、9ループ振幅のシンボルについて、互いに独立した2系統の計算が、比べたすべての係数で一致したことが記録されています。計算に使ったプログラム自体は公開されていませんが、結果のデータと検証の記録は誰でも取得でき、ほかの計算と係数ごとに照合できる形で置かれています。公開された表現では、ゼロでない基底座標の99.62%が有理数として確定済みです。残る3,821個は追加の計算で確定でき、シンボルを超えた関数としての結果には独立した再計算がまだないことも、公開者自身が宿題として明記しています。
ディクソン氏は、Claudeが自分たちの長年の手法を使い、結果もこれまでと同じ形式で示したことに触れ、自分がClaudeの結果を検証しているあいだ、Claudeは自分たちの過去の研究を検証していたと書いています。
人間も、ほぼ同時にたどり着いていた
話にはもう1つ続きがあります。Anthropicからの連絡の数日後、中国科学院理論物理研究所のソン・ハー(Song He)氏のグループが、9ループのシンボルと呼ばれる部分をすでに計算していたことが分かりました。こちらもGPT-6を一部の制約の計算に使っていますが、全体の枠組みは人間が組んでいます。
ディクソン氏は、2週間のうちに機械単独と人間と機械の組み合わせの両方に先を越された、とユーモアを交えて振り返っています。論文として結果を分析し、世に出すのは人間の研究者たちです。Claudeの出番は、いったんここで終わりです。
「壁」の位置を見誤っていた
原典を読むうえで押さえておきたい点があります。フォン・ヒッペル氏は、AIが計算の壁を驚くべき方法で越えたとは書いていません。Claudeは既知の手法を使い、これまでより少し多めの計算資源を投じた。人間にも手の届く計算だった。同氏はそう整理したうえで、自分は限界がどこにあるかについて素朴すぎたと結論づけています。
同氏の最大の学びは、専門家の目には実際より遠く見えている果実が、予想以上に残っているということでした。プログラマーを数人雇えば散乱振幅の研究はもっと進むはずだと言い続けてきた計算機科学出身の人たちは、胸を張ってよい、とも書いています。
3月の時点で、AIは物理学の研究を学生のように手取り足取り進めていました。今回は、分野のトップの専門家が取り組む種類の最先端の計算です。同氏は、問題がAI向きだっただけではなく、技術そのものが本当に良くなったと見ています。ブログでは、半年前ならこれはできなかっただろうとも書いています。
研究室の予算で届く「次の1ループ」
日本の読者にとって、この話は遠い物理学の出来事に見えるかもしれません。しかし、使われたFable 5.1は一般に提供されており、Claude Scienceも有料プラン向けのベータ版として利用できます。フォン・ヒッペル氏は、科学者たちが近いうちに似た問題を試し始めるだろうと見ており、誇張があればすぐに明らかになる、とも書いています。
同氏がブログで示した目安は明快です。解けない問題があり、別分野の専門知識や優れたプログラミング技術があれば解けると思えるなら、それはおそらくAIで解ける。手順が確立していて、答えを確かめる手段がある問題。多くの研究室の棚には、そうした「手を付けられずにいた計算」が眠っているのではないでしょうか。
フォン・ヒッペル氏はブログのコメント欄で、Claude以外の計算費用を100ドルに限ってL(エル)ループの振幅を求めさせれば、どこかで新しい手法を発明するか、失敗するはずだと述べています。自分はそれが9だと思い込んでいたが、10かもしれないし、11かもしれないし、20かもしれない、と。
ディクソン氏は補遺の最後に、本当に考え込まされる瞬間は、AIが人間より先に新しい物理原理や洞察を見つけ出したときに来るだろうと書きました。9つめの図に色が付いた今、10番目の図は誰が、いくらで描くのか。その問いが、研究室の予算の範囲で語られ始めています。
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【編集部後記】
挑戦状には、下敷きがありました。フォン・ヒッペル氏がブログに後から書き足したところでは、着想の元は6月にディクソン氏を記念して開かれた研究集会です。登壇したアナスタシア・ヴォロヴィッチ(Anastasia Volovich)氏が、9ループの計算を、AIによる乗っ取りを測る基準として掲げていました。
祝われた本人が、3か月後にその基準を越えた答えを検証する側に回ったことになります。記念の席で置かれた物差しが、次に測るのはどの計算なのでしょうか。
【用語解説】
散乱振幅
素粒子どうしが衝突したとき、特定の反応がどの程度の確率で起きるかを計算するための式。加速器実験の結果と理論の予測を比べる土台になる。
ループ
散乱振幅の計算で、粒子の相互作用をどこまで入り組ませて含めるかを示す段数。段数を上げるほど厳密な答えに近づき、計算量は急激に増える。
N=4超対称ヤン=ミルズ理論
粒子1つにつき4つの超対称性のパートナーを持つ理論。現実の粒子を記述するものではないが、計算がしやすいため、新しい計算手法を試す場として使われる。
ブートストラップ
答えがとりうる形の候補をすべて用意し、既知の条件や別の計算結果と照合して候補を絞り込む計算手法。数独のように、条件を満たさない可能性を消していく。
形状因子
散乱振幅と数学的に結びついた量で、同じループ数なら振幅より計算しやすい。ディクソン氏らは8ループの振幅を、この量を経由して求めた。
シンボル
散乱振幅を構成する関数の骨格を、特定の文字の並びとして表したもの。振幅の構造の主要部分を担い、計算の中核になる。
ミレニアム懸賞問題
クレイ数学研究所が2000年に選んだ7つの数学上の未解決問題。それぞれに100万ドルの懸賞金がかかっている。
ナビエ・ストークス方程式
流体の運動を記述する方程式。滑らかな解が時間とともに破綻しうるかどうかが、ミレニアム懸賞問題の1つとして問われている。
SymPy
Pythonで数式を記号のまま扱うためのオープンソースのライブラリ。今回はブートストラップ方式の計算に使われた。
LLM
Large Language Modelの略で、大規模言語モデルのこと。大量の文章から学習し、文章の生成やコードの作成を行う。Claudeもその1つである。
トランスフォーマーモデル
現在の主要な言語モデルの基盤となっているニューラルネットワークの構造。ディクソン氏のチームは、この構造の独自モデルで高次のループを予測する計画を進めていた。
【参考リンク】
Claude Science(Anthropic)(外部)
研究者向けのAI作業環境。解析の実行や計算資源の管理を担い、有料プラン向けにベータ版として提供されている。今回の計算の舞台だ。
Claude Fable(Anthropic)(外部)
今回の計算に使われたモデル群の公式ページ。Fable 5.1は2026年9月1日に公開され、一般の利用者が使える最上位モデルにあたる。
Cosmic9(9ループ振幅の結果データ)(外部)
Claudeが計算した9ループ振幅のデータ公開ページ。シンボルと関数の各ファイルに加え、検証の記録と手法の説明も置かれている。
The Symbols of Six-Gluon MHV Amplitudes through Nine Loops(Zenodo)(外部)
中国科学院の研究者らが2026年9月17日に公開した並行結果。2〜9ループのシンボルを収録し、CC BY 4.0で提供されている。
arXiv:2308.08199(6粒子振幅の8ループ計算)(外部)
ディクソン氏らが形状因子を経由して6粒子振幅を8ループで求めた2023年の論文。今回の計算が下敷きにした手法を示している。
4 gravitons(外部)
フォン・ヒッペル氏が物理学と物理学者について書き続けているブログ。今回の挑戦状と、事後の質疑応答がここに掲載されている。
【参考記事】
It Got to My Field(外部)
挑戦者本人による事後の質疑応答。報酬の経緯や、費用の9割以上がLLMだった点、半年前なら不可能だったという見立てを記している。
It Only Counts When AI Gets to My Field(外部)
2026年8月7日の挑戦状。計算量の壁を物差しに選んだ理由と、N=8超重力の7ループ、N=4の9ループという2つの課題を示す。
How an AI math breakthrough ignited a controversy(外部)
Scienceによるナビエ・ストークス問題の経緯。1万のエージェントを投じた規模と、先行研究をめぐる優先権の争いを伝えている。
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Natureの速報。9月8日にOpenAIが発表した内容と、クレイ数学研究所の所長のコメント、数学者たちの受け止めを伝えている。


















