エディンバラ大学のスティーブン・ウォレス教授(化学バイオテクノロジー)率いる研究チームが、遺伝子工学的に改変した大腸菌を使ってプラスチック廃棄物を鎮痛剤アセトアミノフェン(パラセタモール)に変換する技術を開発した。
この研究成果は2025年6月23日付の科学誌『ネイチャー・ケミストリー』に発表された。研究チームは大腸菌を遺伝子改変し、通常の生物学的経路でパラアミノ安息香酸(PABA)を生成できないように変更した。その後、ポリエチレンテレフタレート(PET)プラスチックボトルから化学的に作製した前駆体化合物を与えることで、ローゼン転位と呼ばれる化学反応を経てPABAを生成させた。さらに追加の遺伝的指示により、大腸菌は分解されたプラスチック廃棄物の92%をアセトアミノフェンに変換した。現在のアセトアミノフェン製造は化石燃料に依存しているため、この技術は持続可能な医薬品製造への道筋を示している。
コロラド鉱山大学のディラン・ドメイル准教授は工業規模への拡大には課題があると指摘し、ヒューストン大学のベンカテシュ・バラン准教授はプラスチック分解と有用物質への変換を単一生物で行う技術開発の重要性を強調した。
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Modified bacteria convert plastic waste into pain reliever
【編集部解説】
この研究が持つ革命的な意味を理解するために、まず技術的な背景から解説します。研究チームが実現したのは「ローゼン転位」という1872年にヴィルヘルム・ローゼンが発見した化学反応を生きた細菌内で実行することです。従来この反応は高温や過酷な条件が必要でしたが、大腸菌内のリン酸塩が触媒として機能することで、生体に無害な環境下での実行が可能になりました。
この発見が特に重要なのは、自然界には存在しない化学反応を生物学的システムに組み込んだ点にあります。通常、生物は進化の過程で獲得した限られた化学反応しか実行できませんが、この技術により生命システムが従来不可能だった化学変換を行えるようになったのです。
現在のアセトアミノフェン製造は完全に化石燃料に依存しています。フェノールから始まり、ニトロ化、還元、アセチル化という複数の工程を経て製造されており、CO2排出量も相当な規模になります。年間数十万トンが生産されるこの薬剤の製造過程を根本的に変える可能性を秘めているといえるでしょう。
プラスチック廃棄物の問題解決という観点でも画期的です。PETプラスチックは年間約5600万トンが生産され、その8割が使い捨て用途で、結果として約2400万トンの廃棄物が発生しています。この技術により、廃棄物を価値ある医薬品に変換する「アップサイクリング」が現実的になります。
ただし、実用化には複数の課題が残されています。現在の手法ではPETの分解工程が工業規模への拡大に適していません。また、48時間で92%の変換効率は実験室レベルでは優秀ですが、商業生産には更なる最適化が必要でしょう。
規制面では、遺伝子工学的に改変した微生物を用いた医薬品製造という新しい領域に対応する枠組みが必要になります。特に、プラスチック由来の医薬品の安全性評価基準は前例がないため、規制当局との綿密な協議が不可欠になるはずです。
この技術の真の革新性は、従来の「化学か生物学か」という二者択一を超越した点にあります。化学合成だけでは効率的でなく、生物学的手法だけでも実現不可能だった変換を、両者の融合により可能にしたのです。これは「バイオコンパチブル化学」という新しい学問分野の誕生を示唆しています。
長期的には、他の医薬品や化学製品への展開も期待されます。プラスチック廃棄物を原料とした循環型製造システムが構築されれば、化学工業全体のサステナビリティが飛躍的に向上する可能性があります。ただし、そのためには生産コストの競争力確保や、安定的な品質管理システムの構築が課題となるでしょう。
【用語解説】
ローゼン転位
1872年にヴィルヘルム・ローゼンが発見した有機化学反応。通常は高温や過酷な条件が必要だが、この研究では大腸菌内のリン酸塩が触媒として機能することで生体適合性を実現した。
バイオコンパチブル化学
生きた細胞内で実行可能な非酵素的化学反応。従来の生物学的手法と化学合成の境界を超越した新しい学問分野として注目されている。
PET(ポリエチレンテレフタレート)
ペットボトルや食品包装に使用される代表的なプラスチック。年間約5600万トンが生産され、その8割が使い捨て用途で廃棄物問題の主要因となっている。
パラアミノ安息香酸(PABA)
細菌が葉酸(ビタミンB9)を合成するために必要な必須化合物。DNA合成に不可欠で、この物質なしには細菌は生存できない。
アセトアミノフェン(パラセタモール)
世界保健機関が推奨する第一選択の解熱鎮痛剤。タイレノール、パナドール、カルポールなどの商品名で販売されている。現在は化石燃料から製造されている。
【参考リンク】
エディンバラ大学(外部)
1583年設立のスコットランドの名門大学。英国の研究力ランキング4位を誇る総合大学
ネイチャー・ケミストリー(外部)
化学分野の世界最高峰学術誌。インパクトファクター19.2の月刊査読付き科学誌
コロラド鉱山大学(外部)
1874年設立の工学・科学技術専門の公立研究大学。エネルギー・環境分野に特化
ヒューストン大学(外部)
1927年設立のテキサス州最大の公立研究大学。45,000人以上の学生が在籍
【参考動画】
How Synthetic Biology Will Help Us Build a Sustainable Future | Stephen Wallace | TEDxVienna
今回の研究を主導したスティーブン・ウォレス教授によるTEDトーク。合成生物学が気候変動対策にどう貢献するかを11分42秒で解説している。
Professor Stephen Wallace
エディンバラ・イノベーションズの公式チャンネルによるウォレス教授の研究紹介動画。3分32秒で彼の研究室の取り組みを紹介している。
【参考記事】
A biocompatible Lossen rearrangement in Escherichia coli(外部)
今回の研究の原著論文。大腸菌内でローゼン転位を実現する技術の詳細データを記載
Scientists use bacteria to turn plastic waste into paracetamol(外部)
英ガーディアン紙による研究成果の報道。技術の社会的意義と課題について詳しく解説
Researchers turn plastic into paracetamol(外部)
化学工学ニュースによる技術解説記事。工学的観点から研究成果を分析している
【編集部後記】
このニュースを読んで、なんだか不思議な気持ちになりました。いつものようにコンビニでペットボトルを買って、飲み終わったらリサイクルボックスに入れる。その何気ない行動の先に、こんな可能性が広がっているなんて、想像したこともありませんでした。
子どもの頃、理科の実験で「物質は形を変えるだけで、なくなったりしない」と習った記憶があります。でも大人になってからは、そんなことすっかり忘れて、使ったものは「ゴミ」として処理するのが当たり前だと思っていました。
でも今回の研究を知って、改めて考えてみると、自然界ではすべてが何かの役に立っているんですよね。枯れた花も土の栄養になって、また新しい花を咲かせる。私たちが作り出したプラスチックも、同じように何かの役に立てるなら、それってすごく素敵なことだと思います。
まだ実験室での成果だということですが、研究者の方々が一生懸命取り組んでくださっている姿を想像すると、応援したくなります。いつか本当に実現したら、ゴミ出しの日の気持ちも変わりそうです。「また会おうね」なんて、ちょっと愛着を込めてペットボトルを送り出せるかもしれませんね。