「メモリ危機」は、多くのメーカーにとって受け身の防戦を強いる出来事でした。Nothingは人員削減に踏み切り、Xperiaはスペックを据え置き、Steam Machineは想定より約3割高い価格で発売しました——いずれも後手の対応です。そうした中、Raspberry Piだけは様相が異なります。2025年のうちに安価なRAMを仕込んでいたことで、2026年上半期の業績は市場予想を大きく上回り、株価は1日で19%上昇しました。ただし、その代償として価格上昇とPi 6の大幅な延期という負担も抱えています。まず、その両面を数字から見ていきます。
Raspberry Pi Holdingsは6月5日、2026年上半期の好業績を発表した。上半期の販売台数は400万台超(前年同期360万台)、調整後EBITDAは少なくとも3800万ドルで前回予想の1940万ドルからほぼ倍増した。通期の調整後EBITDAも、市場コンセンサス4200万ドルを大幅に上回る見通しとなった。発表を受け株価はロンドン市場で19%上昇し979.50ペンスをつけた。同社は2025年に蓄積した低価格帯RAM在庫の活用が背景にあるとしている。一方で同社は2026年4月、DRAMコスト高騰(前年比7倍)を理由に複数モデルの価格を引き上げている。
From:
Raspberry Pi upgrades full-year outlook after ‘strong’ interim trading
【編集部解説】
NPU競争に背を向けた選択
エッジAI性能を語るとき、いまや業界の共通言語は「TOPS」(Tera Operations Per Second)という指標です。Orange Pi 6 Plusは45TOPSのNPUを搭載し、AMD Ryzen AI 9 HX 370(40TOPS)に匹敵する性能を謳っています。Rockchipも現行のRK3588(6TOPS)に続き、32TOPSのRK3688を計画しています。本連載で紹介したLattePanda Mu Ultraも、Intel AI Boost NPU単体で最大47TOPSを搭載しています。
こうした流れの中で、Raspberry Pi 6がNPUを搭載しないという方針は、業界の潮流にあえて逆行する選択に見えます。
Uptonの賭け:「CPUはいずれ追いつく」
Reddit AMAでEben Upton CEOは、エッジAI性能をどう確保するかという質問に対し、専用チップではなく汎用CPUに投資し続ける方針を説明しました。CPUは時間とともに高速化し、アルゴリズム側のコストも下がっていくため、「特定用途向け」ではなく「汎用」な計算資源に面積を割く方が長期的に合理的だという考え方です。
ただし、これは「NPUを全否定する」立場ではありません。Raspberry Pi自身が、Hailo社製チップを搭載した「AI HAT+」シリーズ(13〜26TOPS)や、8GBの専用メモリを積みローカルLLM実行を可能にする「AI HAT+ 2」(Hailo-10H、40TOPS)を、Pi 5向けの拡張ボードとしてすでに販売しています。つまり同社の立場は、NPUは必要な人だけが後から足すオプションであって、すべての基板に焼き込んで全ユーザーに原価を負担させるべきものではない、という切り分けに近いと読めます。
この賭けの背後にある、コンピューティング史の古い問い
この判断は、実は目新しい対立軸ではありません。汎用計算資源と専用シリコンのどちらに賭けるかという問いは、コンピューティングの歴史で繰り返し現れてきました。かつて浮動小数点演算は専用の「math coprocessor」チップの仕事でしたが、やがてCPUのダイに統合され、単体チップとしては姿を消しました。Uptonの賭けは、この前例の再現に近い発想だと言えます。
一方で、逆の前例もあります。GPUが専用チップとして生き残り続けているのは、単にCPUの進化が追いつかなかったからではなく、行列演算を大量並列で処理するというタスクの性質そのものが、汎用CPUのアーキテクチャと構造的に相性が悪いためだ、という見方が根強くあります。AI推論の中核も行列演算である以上、「CPUがいずれ追いつく」という前提が、FPUの歴史をたどるのか、それともGPUの歴史をたどるのか——ここは技術的に決着のついた問いではなく、私たちも明確な答えを持っているわけではありません。
メモリ危機という、もうひとつの文脈
この判断を、思想だけで語るのはおそらく片手落ちです。本記事の前半で見た通り、Raspberry Pi自身がDRAM価格高騰による値上げに直面しています。NPUダイの搭載は、ただでさえ圧迫されているコスト構造にもう一段の負担を積む選択でもあります。「CPU中心」という説明は技術思想であると同時に、値上げが続く局面でこれ以上原価を積み増したくない、という現実的な計算とも矛盾しません。どちらが主でどちらが従かは、この記事の材料だけでは判断できません。
「HATで足す」という前提そのものが揺らいでいる
Raspberry PiのNPU戦略は、Pi 6本体ではなくAI HAT+シリーズという外付けボードに依存しています。そのAI HAT+シリーズの心臓部であるHailo-8/8L/10Hチップの供給元、イスラエルのHailoが、2026年6月8日に従業員の約50%(220人中110人)を削減すると発表しました。背景には、時価総額5億ドル未満というディスカウント評価でのSPAC上場計画が破談になった経緯があり、ピーク時11〜12億ドルとされた評価額から大きく後退しています。同社は今年1月にもすでに従業員の約1割を削減しており、今回でエッジAI・カメラ向け市場から、ロボティクスやドローンなど「フィジカルAI」分野へ軸足を移す方針も打ち出しています。
Upton CEOの「CPUを汎用計算の場とし、NPUが必要な人はHATで足せばよい」という説明は、その供給網の先にHailoという特定の一社が存在することを前提にしています。Hailoの経営基盤が揺らいでいる現状は、この前提そのものに不確実性を持ち込むものです。ただし、Hailoはこれまでに50万個以上のチップを出荷済みで、パートナー・販売網を通じた供給体制への移行を進めているとも説明しており、AI HAT+の供給が直ちに滞る材料があるわけではありません。この点は編集部としても、今後の推移を注視する必要があると考えています。
誰にとってのリスクか
この賭けが外れた場合に困るのは、Raspberry Pi自身よりも、リアルタイムの推論性能を必要とするロボティクスや産業向け開発者かもしれません。彼らは今後、Orange PiやRockchip系、あるいはより高価格帯のLattePanda Mu Ultraといった選択肢に流れる可能性があります。一方、教育・ホビー用途の大多数のユーザーにとっては、NPUの有無よりも「手頃な価格で汎用的に使える」ことの方が価値が大きいはずです。Raspberry Piがどちらの読者層をより重く見ているかは、この一連の判断からある程度読み取れます。
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【編集部後記】
「勝ち組」という言葉は、見る角度によって姿を変えます。株主にとっての勝ち組が、そのままユーザーにとっての勝ち組とは限りません。CPUに賭けるという判断が正しかったのかどうかも、私たちにはまだ分かりません。むしろ、ここまで読んで新しい疑問が浮かんだとしたら、それこそがこの記事の役目だと思っています。9月24日の決算発表、そしてPi 6が実際にどんな姿で登場するのか、私たちも引き続き追いかけていきたいと思います。
【参考動画】
【参考リンク】
Hailo公式サイト(外部)
Raspberry Pi AI HAT+シリーズにNPUチップを供給するイスラエルの半導体企業。製品ラインナップと事業方針の一次情報源。
Hailo Model Zoo(GitHub)(外部)
Hailoチップ向け学習済みモデルと評価環境。物体検出・セグメンテーションなどをすぐ試せる。
Hailo Model Zoo GenAI(GitHub)(外部)
Hailo-10H向け生成AI(LLM・VLM)実行環境。Ollama互換APIを提供。
Raspberry Pi公式 AI HAT+ 2 製品ページ(外部)
Hailo-10H搭載、8GB専用メモリでローカルLLM実行に対応するPi 5向け拡張ボード。
Raspberry Pi公式 AI HATドキュメント(外部)
AI HAT+の仕組み・対応モデル・セットアップ手順の公式解説。
Raspberry Pi Holdings 投資家向け情報(外部)
9月24日の決算発表日程や過去の決算資料を確認できる投資家向けページ。
DFRobot LattePanda Mu Ultra 製品ページ(外部)
本記事で比較対象とした高価格帯コンピュートモジュールの公式仕様・価格情報。
Raspberry Pi公式フォーラム(外部)
NPU非搭載やPi 6の仕様について、エンジニア・ユーザーが直接議論しているコミュニティ。
【用語解説】
NPU(Neural Processing Unit)
AI推論に特化した専用の演算回路。画像認識や言語モデルの計算を、汎用CPUより高速・省電力にこなすことを目的とした半導体。
TOPS(Tera Operations Per Second)
AIチップの処理性能を示す指標。1秒間に実行できる演算回数を兆単位で表したもの。数値が大きいほど理論上の処理能力は高い。
SBC(シングルボードコンピュータ)
CPU・メモリ・入出力端子を1枚の基板に集約したコンピュータ。Raspberry Piはその代表格。
Compute Module
Raspberry Piの基板からGPIOなど周辺回路を省き、産業機器への組み込み向けに設計した小型モジュール版。
fungible/fixed-function
Upton CEOがAMAで用いた対比表現。fungibleは用途を選ばず汎用的に使い回せる計算資源、fixed-functionは特定処理専用に固定された計算資源を指す。
調整後EBITDA
金利・税金・減価償却・のれん償却前の利益。本業のキャッシュ創出力を示す会計指標で、決算発表で頻繁に用いられる。
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【参考記事】
Raspberry Pi 6 won’t arrive before 2028 (and it won’t have an NPU) — OMG Ubuntu(外部)
Reddit AMAでのUpton CEO発言を詳細に紹介。NPU非搭載の理由を伝える基本ソース。
Pi 6 Slips to 2028: The Mini PCs That Replace It Now — StarryHope(外部)
「2028年」「NPUなし」という見出しの独り歩きを指摘し、Uptonの発言の文脈を補足する記事。
LattePanda Mu Ultra Compute Module features Intel Core Ultra 5 226V/7 256V — CNX Software(外部)
LattePanda Mu Ultraの詳細スペックと価格を報じた記事。
Orange Pi 6 Plus: Raspberry Pi 5 rival offers NPU performance on par with AMD Ryzen AI 9 HX 370 — Notebookcheck(外部)
競合SBCのNPU性能競争を示す記事。
Hailo Lays Off Half Its Workforce as It Seeks a Buyer or Investor — techtime.news(外部)
Raspberry PiのNPU戦略が依存するHailoの経営状況を伝える記事。SPAC破談・出荷実績等の背景を詳しく報じている。
Former unicorn Hailo cuts 50% of workforce amid funding pressure and strategic reset — Calcalist Tech(外部)
Hailoの人員削減の経緯と、フィジカルAIへの戦略転換を報じた記事。


















