パーサヴィアランス探査車に搭載されたラマン分光計SHERLOCが、火星ジェゼロ・クレーターの古代河川チャネル、ネレトバ谷のブライト・エンジェル露頭で、有機炭素の一形態である高分子状炭素(MMC)を検出した。研究はアシュリー・E・マーフィーらによるもので、2026年6月24日にScience Advances(Vol 12, Issue 26)に掲載された。
sol 1180から1218にかけて、チェヤバ・フォールズ、アポロ・テンプル、スチームボート・マウンテン、ワルハラ・グレイズの4つのターゲットから18枚のスペクトルマップ、計1800スペクトルを取得した。約1600 cm⁻¹のラマンGバンドがブライト・エンジェルの岩石の細粒基質で検出され、アポロ・テンプルでは炭酸塩・硫酸塩鉱物と、ワルハラ・グレイズではケイ酸塩主体の基質と関連していた。
この地点は、キュリオシティ探査車がゲール・クレーターで有機物を検出した地点から3500 km以上離れている。ラマン分析のみでは有機物が生物的起源か非生物的起源かは判定できない。
【編集部解説】
このニュースの主役は、火星探査車パーサヴィアランスのロボットアーム先端に取り付けられた分光計、SHERLOCです。レーザーを岩石に当て、跳ね返ってくる光の波長のわずかなズレ(ラマン散乱)から、そこにどんな分子や鉱物があるかを「触れずに」読み取る装置だと考えてください。今回の論文が報告したのは、その光の指紋のうち約1600 cm⁻¹に現れる「Gバンド」と呼ばれる信号です。これは高分子状炭素(MMC)、つまり多くの炭素原子が網目状につながった、分解されにくい有機物の存在を示します。
ここで最初に、報道の温度差を整理しておく必要があります。海外メディアの見出しには「NASA、火星の古代生命の証拠を発見か」といった表現が並びますが、論文自体はそこまで踏み込んでいません。著者らは、ラマン分析だけでは有機物が生物由来か非生物由来かを判定できないと明確に述べています。MMCは「生命の痕跡」ではなく、あくまで「生命の材料となりうる炭素化合物」です。隕石の落下や熱水反応など、生命を介さない経路でも生成されます。この区別は曖昧にするべきではないでしょう。
もう一点、混同しやすい事実があります。同じチェヤバ・フォールズ岩石をめぐっては、2025年にNature誌で「ヒョウ柄(leopard spots)」と呼ばれる斑点構造と、ビビアナイトやグレイガイトといった鉱物の酸化還元反応を報告した別の論文が発表されています。一部の海外記事は、今回のScience Advances論文をこの「ヒョウ柄」研究と一続きに語っていますが、両者は別の研究です。今回の主眼は、有機物がどこに、どの鉱物と隣り合って分布しているかを面として可視化した点にあります。
この「面で捉える」ことに技術的な新しさがあります。火星での有機物検出自体は、ゲール・クレーターのキュリオシティが質量分析で先行していました。ただしそれは試料を砕いて加熱する手法で、有機物が岩石のどこにあったかという位置情報は失われます。SHERLOCは岩石を壊さず、鉱物との空間的な対応関係ごと記録できます。質量分析とラマン分光は補い合う関係にあり、異なる地域で独立に有機物が確認された意義は小さくありません。
影響の射程として注目すべきは、検出地点がキュリオシティの観測地から3500 km以上離れている点です。著者らは、約35億年前の火星の湖や川に、有機物が局所的ではなく広く存在した可能性を指摘しています。これは生命が存在した証拠ではありませんが、有機物の供給と保存に適した環境が、火星の広い範囲に存在した可能性を示すものです。
ポジティブに評価できるのは、SHERLOCがsol 1024でオートフォーカス機構の故障に見舞われながら、運用チームが固定焦点での観測手法を編み出して科学探査を続行した点です。逆境のなかでこれだけのデータを取得した運用技術そのものが、今後の惑星探査の財産になります。一方で限界も率直です。焦点ずれによる信号減衰やノイズの多さから、有機物の量を精密に定量することはできず、生物起源か否かの最終判断は地上の実験室に委ねられます。
ここで規制・政策の論点が浮上します。決着をつける最も確実な道は、サンプルを地球に持ち帰って高感度分析にかけることです。チェヤバ・フォールズから採取された「サファイア・キャニオン」コアは、まさにその帰還を待つ試料の一つです。しかし火星サンプルリターン計画は予算と日程の制約という現実に直面しており、この発見の真価がいつ検証されるかは、技術ではなく政策判断に左右されます。検証可能な問いが宙吊りになる構図は、惑星科学が抱える長期的なジレンマでもあります。
長い目で見れば、今回の成果は「生命を見つけた」という到達点ではなく、「どこを、どう持ち帰って調べるべきか」を選び抜くための地図づくりだと捉えるのが妥当でしょう。SHERLOCが描いた有機物の分布図は、火星のどの石が地球に来る価値を持つかを判断する根拠になります。答えそのものではなく、答えにたどり着くための精緻な問いを立てた——その点に、この研究の確かな価値があると考えます。
【用語解説】
高分子状炭素(MMC:Macromolecular Carbon)
多数の炭素原子が網目状に結合した、化学的・熱的に分解されにくい固体の有機物。「ケロジェン」などと違い生物起源を含意しない中立的な用語として用いられる。生命の材料となりうるが、その存在自体が生命の証拠ではない。
ラマン分光(ラマン散乱/Gバンド)
物質にレーザーを当て、散乱光の波長のわずかな変化から分子や鉱物の種類を読み取る分析手法。約1600 cm⁻¹に現れる「Gバンド」は、炭素原子の特定の結合を示し、有機物の指標とされる。
ジェゼロ・クレーター
火星にあるクレーター。かつて湖と三角州が存在したとされ、生命の痕跡が残りやすい場所として2021年のパーサヴィアランス着陸地に選ばれた。
ネレトバ谷(Neretva Vallis)
ジェゼロ・クレーター西縁に水を流し込んでいた、幅約400 mの古代の河川チャネル。今回の観測対象であるブライト・エンジェル露頭が位置する。
ブライト・エンジェル露頭/チェヤバ・フォールズ
ネレトバ谷で見つかった明色の層状岩石群がブライト・エンジェル露頭。その中の一つがチェヤバ・フォールズ岩石で、「ヒョウ柄」斑点で知られる。
ヒョウ柄(leopard spots)/ビビアナイト・グレイガイト
チェヤバ・フォールズ岩石に見られる、淡い中心と暗い縁を持つ斑点状の構造。鉄リン酸塩鉱物のビビアナイトや鉄硫化鉱物のグレイガイトを伴い、地球では微生物の関わる化学反応でも生じる。
続成作用(diagenesis)
堆積物が積み重なった後、地下で固結・変質して岩石になっていく一連の過程。有機物がいつこの過程で取り込まれたかが、起源を読み解く鍵となる。
sol(ソル)
火星の1日を指す単位。約24時間40分。探査車の活動日数は着陸日からのsol数で数えられる。
【参考リンク】
NASA Mars 2020 Perseverance(ミッション公式)(外部)
火星探査車パーサヴィアランスの目的、搭載する科学機器、現在の探査状況までを網羅するNASA公式のミッション情報ページである。
SHERLOC – Perseverance Science Instruments(NASA)(外部)
SHERLOCをはじめ、パーサヴィアランスが搭載する7つの科学機器それぞれの役割を解説するNASA公式の機器紹介ページである。
NASA Jet Propulsion Laboratory(JPL)(外部)
パーサヴィアランスを運用するNASAの研究機関。SHERLOCの異常回復をはじめ、ミッション運用の最新情報を発信している。
Planetary Science Institute(PSI)(外部)
論文の筆頭著者アシュリー・マーフィーが所属する米国の惑星科学研究機関。惑星探査やデータ解析を専門とする非営利組織である。
Science Advances(掲載誌)(外部)
今回の論文を掲載した、米国科学振興協会(AAAS)が発行する査読付きのオープンアクセス学術誌である。
Mars Sample Return(NASA/火星サンプルリターン)(外部)
パーサヴィアランスが採取・保管した試料を地球へ持ち帰る計画の公式ページ。生物起源か否かの検証の最終手段に位置づけられる。
【参考動画】
【参考記事】
Did NASA just find evidence of ancient life on Mars?(Space.com)(外部)
今回のScience Advances論文を報じ、筆頭著者らに取材。生物・非生物の判定はできないとしつつ、ゲール外で初のMMC検出と伝える。
Perseverance Finds Complex Organic Compounds in Strange Mars Rocks(ScienceAlert)(外部)
ブライト・エンジェルの2つの岩石でMMCを検出と報道。その一つが「ヒョウ柄」を持つチェヤバ・フォールズ岩石だと説明している。
NASA Says Mars Rover Discovered Potential Biosignature Last Year(NASA公式)(外部)
本件と混同されやすい2025年9月の別研究の一次発表。ネレトバ谷の幅約400mや岩石サイズなど、数値の根拠として重視した。
Redox-driven mineral and organic associations in Jezero Crater, Mars(Nature)(外部)
ハロウィッツらの別研究。ビビアナイト等の鉄鉱物と有機炭素の酸化還元反応を報告。今回研究との切り分けに用いた一次情報である。
In September 2025, NASA announced … potential biosignatures(SpaceDaily)(外部)
「生命の証拠候補」が生命の証明ではない点を解説。サンプルリターンの予算・政治的課題にも触れ、論点整理に活用した。
Did NASA just find evidence of ancient life on Mars?(Yahoo News/Space.com配信)(外部)
共著者アッカートの談話を掲載。ゲール外で初のMMC検出で、有機物が火星全体に広く存在した可能性があると伝える。
【関連記事】
火星に古代生命の証拠か|NASAが発表したバイオシグネチャー発見の衝撃 本記事と同じチェヤバ・フォールズ岩石を扱う2025年9月の「ヒョウ柄」研究(Nature)を解説。今回の論文との違いを押さえられる必読の関連記事。
ロッキード・マーティン、NASA火星サンプルリターンを30億ドルで救済提案 本記事の政策論点に直結する、火星サンプルリターン計画の予算・日程問題を扱った記事。発見の検証を左右する文脈を補える。
火星で発見された白い小石:過去の温暖湿潤な環境と生命存在可能性への新たな手がかり SHERLOCと有機分子の検出、火星の過去の水環境を扱う記事。ジェゼロ・クレーターの居住可能性をめぐる背景理解を深められる。
【編集部後記】
火星の同じ岩が、ある研究では「生命の証拠候補」として、別の研究では「触れずに読み取った炭素の地図」として語られています。同じ事実でも、見る角度で意味が変わるのが科学の面白さだと、私たちも今回あらためて感じました。
みなさんは、この有機物がどこから来たと想像しますか。隕石か、地質か、それとも——。答えが出るのは試料が地球に帰る日かもしれません。その日を一緒に待ちながら、火星のニュースを追いかけてみませんか。












