Last Updated on 2025-05-02 12:05 by admin
UNESCOは、2025年の「国際教育デー」を人工知能(AI)に特化したテーマで開催する方針を発表した。この取り組みは、AIが教育分野にもたらす可能性と課題について世界的な議論を促進することを目的としている。
AIが教育にもたらす機会と倫理的課題
AIは教育現場に革新的な機会を提供する一方で、その導入には明確な倫理的指針が不可欠であるとUNESCOは強調している。特に重要視されているのは、AIが教師や生徒の自律性と幸福を最優先し、学びの人間的・社会的側面を補完するツールとしての役割である。
しかし現状では、教育におけるAI活用に関する明確なガイドラインが国際的に不足している。UNESCOの調査によれば、AIの公式な利用枠組みを持つ教育機関は全体のわずか10%にとどまっており、多くの国ではAIやモバイル端末の利用制限が強化される傾向にある。また、AI技術を積極的に教育に取り入れる国と、慎重な姿勢を示す国の間で対応が分かれている状況だ。
UNESCOが発表したAIコンピテンシーフレームワーク
こうした状況を受け、UNESCOは2024年に「生徒向け」および「教員向け」のAIコンピテンシーフレームワークを発表した。これらのフレームワークは、AIの潜在力とリスクの両面を踏まえた安全・倫理的・包摂的かつ責任ある活用を目指すものである。
生徒向けフレームワーク
生徒向けフレームワークでは、以下の4つのコアコンピテンシーが掲げられている:
- 人間中心のマインドセット
- AI倫理
- AI技術と応用
- AIシステム設計
このフレームワークは、批判的思考や創造性、倫理観を重視した教育を推進することを目的としている。
教員向けフレームワーク
教員向けフレームワークでは、生涯にわたる専門能力開発を支援することに重点が置かれている。具体的には、AIを活用した革新的な教育手法の開発や、教員自身の成長にAIを役立てる能力の育成が強調されている。
AI教育推進における重要な視点
UNESCOは、AI教育の推進にあたり、以下の点を特に重視している:
- AIツールは教員の役割を補完するものであり、置き換えるものではないこと
- 教育の本質的な価値や人間性を損なわないこと
- AI導入のための資源配分が、既存の教育資源を圧迫しないこと
これらの取り組みは、AI時代にふさわしい倫理的で包摂的な教育の実現に向けた国際的な指針となることが期待されている。
【編集部所感】
私は、過去に塾講師の仕事を7年間していました。ほかにも大学の実験科目や、日本の瀬戸内海にある島にある個人塾で講義を行ってきました。その中で、果たして教師の果たすべき役割とは何か、大人が子供の前で何を語りえるのか、クラスという共同体を作るうえで私たちはどのように社会に貢献してその中で生徒はどのようにして人格を作り上げていくのか、を考えてきました。今回は末筆ながら私の所感を述べさせていただきたいです。(こちらはあくまで私の主観であり、間違いなどがあれば指摘してくださるとありがたいです。)
AIと人間社会の常識
技術の歴史を振り返れば、AIの限界は明らかです。実際にAmazonのAIが黒人をゴリラと画像認識したことがあったり、各種AIには人間社会における常識や文化的文脈の理解が欠けています。フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティが指摘したように、「人間の知覚は常に状況に埋め込まれている」のであり、その「状況性」こそが人間の理解の基盤です。AIにはこの「生きられた経験」が根本的に欠けているのです。
実際に世界で生きている人間からの知識は必要なのではないでしょうか?教育学者パウロ・フレイレは『被抑圧者の教育学』で「真の教育とは、教師と生徒が互いに学び合い、共に世界を変革していく対話的プロセスである」と述べています。この相互変容のプロセスは、同じ世界に存在する生身の人間同士だからこそ生まれるものです。
クラスとしての学び—人格形成の場
さらに言えば、生徒の人格はどのように育てられるのかを考えてみてください。生徒の人格はクラスメイトや出会ってきた先生によって育てられるのではないでしょうか。私は昔塾講師や大学で実験科目の担当をしたり、友人が経営している塾で田舎町で講義をしたりを7年間ぐらいしていました。その時思ったのが、やはり、クラスメイトの雰囲気やクラスの雰囲気によって組織の中での自分のふるまいを決めてそれによってクラスメイトとの関係性から何かを学びます。そしてクラスを作っているのは先生です。
例えば厳しい先生の下では静かで細かいことまでしっかりと行き届いたクラスができて、優しい先生の下では生徒は多少は自由にふるまって授業中やHRでも会話が弾んで議論を楽しめるクラスができて、その中での関係性が人格形成に強くかかわるのではないでしょうか。
ドイツの教育哲学者オットー・フリードリヒ・ボルノーは、教育における「出会い」の重要性を強調しました。彼によれば、真の教育は単なる知識の伝達ではなく、教師と生徒の「実存的出会い」を通じて生じるものであり、その出会いは生徒の存在そのものを変容させる力を持つとされています。
対話的教育実践から生まれるもの
私は昔、塾で数学の科目を担当していた時に教壇に立たず、生徒と机を囲んで同じ場所に座って講義してディスカッションをする形で生徒と数学の証明を楽しんでいました。その結果しばらくすると自習中にも生徒が白板を使ってどちらの証明がより美しいかを議論するようになっていたり、講師控室に数学というよりは数学に対する考え方を表明してくれる生徒が増えました。
今後もこの生徒たちはディスカッションをして他人と認識をともにする文化を持って生きていくと私は思いますし、それは私が講師だから起こった変化であると感じでいます。このような形態の講義になったのは大学のころの解析学の教授や指導教官が近い形式の講義をしていたことや、物理学の研究室では先生を「先生」とは呼ばずさん付けで呼ぶような、学問の前ではあらゆる人間が平等で知識の量によらず議論をする土台が必要だと私が先人から教わったからです。
ここには「知の継承」という人類の文化的営みがあります。ギリシャのアカデミアから現代の教室まで、知識は単なる情報としてではなく、その背後にある思考様式や価値観、そして知を探求する態度として伝えられてきました。教育哲学者マイケル・ポランニーが述べた「暗黙知」の概念は、まさにこの点を指摘しています—言語化できない知識、模倣や共同体での経験を通してのみ伝達される知恵が、教育の本質的部分を構成しているのです。
思想と教育の不可分性
もっと言えば、AIには思想はありません。人間には思想はあります。思想は時として偏見となりえますが、偏見もまた人から学ぶ機会にもなります。というのも例えばAIの倫理ガイドラインに沿った画一化した教育で育った子供が世界を変えられるでしょうか。
誰しも政治家や起業家にはニュートラルな視点は存在しません。常に何かしら世の中に対する問題意識があり、自分が抱えた問題意識を基に世界を変えていきました。では、それは生育環境や人とのつながりの中から学んだこのような思想が人類から完全ではないにしろ多少損なわれるのは少し問題だと感じます。
カールマルクスの本は世界でも有数の読まれ方をしました、もっと言えば福沢諭吉も当時としてはかなり特異な発想の持ち主でした。世界を変えたのはそういったとがった人たちなのではないでしょうか?人は先人たちの知識を基に自分の思想を形作っていきます。なので教師や人との関係性は必要なものだと私は思います。
教養とは何でしょうか。ドイツの哲学的伝統では「ビルドゥング(Bildung)」という概念があります。これは単なる知識の習得ではなく、人格の形成、文化的価値観の内面化、そして自己と世界との関係を再構成するプロセスを意味します。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは「教養とは、人間の力を最も高く、最も調和的に発展させることである」と定義しました。このような教養観からすれば、教育は単なるスキルや知識の獲得ではなく、人間としての全体性を育む営みなのです。
他者のまなざしと自我の形成
もっというと、サルトル曰く、「他者からのまなざしが私たちの自我の形成やアイデンティティにかかわる」のです。つまり私と同じ主体ある人間がいることが私たちの自我の基盤なのです。そう考えるとAIに同様のまなざしがあるのかと考えるとやはり人格、自我の形成、そして世界の進歩のためにも教師は必要なのではないでしょうか。
哲学者エマニュエル・レヴィナスは「他者の顔」との出会いこそが倫理の源泉であると論じました。他者という「謎」に直面することで、私たちは自己の限界を知り、同時に責任を自覚するのです。教育もまた、この他者との出会いの一形態であり、そこには常に予測不可能性と創造性が伴います。
AIの可能性と限界
もちろんAIは人間と異なり24時間生徒の質問に答えられて、なおかつ人間と違い間違った情報を伝えることも、さも当然のようにラディカルな思想を押し付けたりしません。そうした点では優れたツールです。
しかし、人間は歴史の中の生き物で社会的な動物です。歴史の中で脈々と受け継がれてきた思想を自分の頭の中で吟味して、社会の中での問題やそこでとるべき自分の立ち位置を決める。というような人間の根本的な教養を育てるのにAIが貢献する未来はなく、AIは人間の何倍も優れたチューターとして生徒の学習をサポートする最上の家庭教師のような存在になるのではないでしょうか。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で「徳は習慣づけによって生まれる」と述べました。倫理的行為は単なる知識ではなく、実践的知恵(フロネーシス)として身につけるものであり、それは模範となる人物との関わりなしには獲得できないものなのです。
結び—人間中心の教育の未来へ
AIと教育の関係は、テクノロジーの進化とともに常に変化していくでしょう。しかし、どれほどAIが発展しても、教育の中心にあるべきは常に「人間」であり、その関係性です。ハンナ・アーレントが指摘したように、教育とは「古い世界と新しい世界の間の接点」であり、そこでは伝統と革新が絶えず対話します。AIは強力な道具であり、可能性を広げるツールではありますが、教育の主体は常に人間であるべきです。
UNESCOが強調するように、AIは教師の役割を「補完」するものであり、「置き換える」ものではありません。AIと人間が協働しながら、より良い教育のあり方を模索していくことが、これからの時代に求められています。その際、「AIは最高のチューターとなりうるが、真の教師にはなれない」という認識を持ち続けることが重要ではないでしょうか。