「腸は第二の脳」という表現が広まって久しいですが、腸と脳の関係は「連絡し合う」という言葉では収まりきらなくなってきているかもしれません。腸に棲む微生物たちが脳の形成そのものに関与している——しかもそのプロセスは、生まれる前から始まっている可能性が、複数の研究によって示されつつあります。2025〜2026年にかけて相次いで発表された研究は、「私たちの脳は、誰が育てたのか」という問いを、SF的な仮説ではなく科学の射程に引き込んでいます。
ミシガン州立大学(MSU)のアレクサンドラ・カスティロ=ルイス助教らがHormones and Behavior誌に発表した研究は、微生物がストレス・社会行動・血圧などを制御する脳領域「視床下部室傍核(PVN)」の発達を形成することを示した。交差里親実験により、無菌の母親から産まれたマウスは生後に微生物を受け取った場合でもPVNのニューロン数が少なく、影響が胎内から始まっていることが示唆された。米国では出産前後に40%の女性が抗生物質を投与され、全出産の3分の1が帝王切開で行われているという背景から、現代の産科的処置が新生児の神経発達に与える影響への関心が高まっている。
同年8月、シカゴ大学を中心とする研究チームのZemmelらがGut Microbes誌に発表した研究では、腸内マイクロバイオームの「成熟度」が血液脳関門(BBB)の発達と認知機能を規定することが示された。満期産児由来のマイクロバイオームを持つマウスは早産児由来のものと比較して記憶力・学習能力が高く、BBB透過性が低いことが確認された。2026年2月には上海交通大学らのチームがGut Microbes誌で、母体の妊娠中ストレスが腸内細菌叢の乱れを通じて胎児のBBB発達を障害し、成体における感情・認知に異常をもたらすことを示した。同研究では、母体へのプロバイオティクス投与がこの障害を回復させることも確認された。
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MSU study finds tiny microbes shape brain development
【編集部解説】
腸と脳をつなぐ「回路」のしくみ
腸と脳がどのようにつながっているのか、まず基礎から整理します。
腸には、脳からの指令を受け取るだけでなく、脳に向かって信号を送る神経系が独立して存在します。「腸管神経系(ENS)」と呼ばれるこの神経系は数億個のニューロンを腸壁に持ち、「腸は第二の脳」という表現の由来でもあります。腸と脳は主に迷走神経を介してつながり、この経路を流れる信号のうち約80〜90%は腸から脳へ向かう方向だとされています。つまりこの「電話回線」は、脳から腸への一方通行ではなく、腸からのレポートを脳が受け取り続けている状態です。
腸内細菌が産生する物質の中でも特に重要なのが「短鎖脂肪酸(SCFA)」です。腸内細菌が食物繊維を発酵する過程で生まれる酪酸・プロピオン酸・酢酸などは、腸壁の保護や免疫調節にとどまらず、血液脳関門(BBB)の維持・強化にも関与することが示されています。BBBは脳を外来物質から守る関所のような構造ですが、それ自体の発達が腸内マイクロバイオームの成熟度に依存することが、今回紹介した複数の研究で明らかになってきました。
「幸福ホルモン」として知られるセロトニンについても触れておきましょう。体内のセロトニンの約90〜95%は、腸の粘膜に分布する腸クロム親和性細胞(EC細胞)が産生しています。ただし、腸で産生されたセロトニンはBBBを通過して脳に直接届くわけではなく、腸の蠕動運動の調整や局所の免疫制御を主に担っています。「腸活でうつが治る」という単純化が消費者向け情報に見られますが、腸のセロトニンと脳のセロトニンは生理的に別のシステムです。腸脳軸の作用は神経伝達物質の直接移動よりも、免疫・炎症・代謝産物を介した複雑な間接経路によるところが大きく、そのメカニズムの全体像はいまなお研究途上にあります。
産道を通ることの意味
産道を通って生まれた新生児の腸には、通過の直後から微生物が急速に定着します。母体の産道に棲む乳酸菌(ラクトバチルス属)などが最初の入植者となり、その後の免疫・代謝・神経発達の土台を築くと考えられています。
今回のMSU研究が重要なのは、この「出産後の定着」という従来の理解を一歩押し広げた点です。母体の腸内細菌が産生する代謝産物は、胎盤を経由して胎児の神経発達に影響を及ぼしている可能性がマウス実験で示されました。研究チームが交差里親実験(無菌の新生マウスを通常マウスの母親のもとに移す)を行ったところ、無菌の母親から産まれた子マウスは生後に微生物を与えられても、ストレス・社会行動・血圧調節を制御するPVN(視床下部室傍核)のニューロン数が少ないままでした。影響は、生まれてから始まるのではなく、胎内ですでに始まっていたことになります。
シカゴ大学の研究はさらに踏み込んで、腸内マイクロバイオームの「成熟度」という概念を提示しています。満期産児由来のマイクロバイオームを持つマウスは、早産児由来のものと比べて記憶力・学習能力が高く、BBBの透過性が低い——つまり脳の「守り」が強い——ことが確認されました。菌の有無だけでなく、腸内細菌叢がどのような「成熟した構成」を持つかが、脳の発達に影響するという視点です。
「微生物たちは、生命の最初の瞬間から私たちの脳を作り上げる手助けをしているのです」——カスティロ=ルイス助教のこの言葉は感慨ではなく、実験が示した事実の要約です。
「医療的必要性」と「微生物叢への影響」というふたつのレイヤー
現代の産科医療との関係をどう考えるか。これは最も慎重に扱う必要がある問いです。
MSUの研究が背景として挙げるのは、米国では出産前後に40%の女性が抗生物質を投与されており、全出産の3分の1が帝王切開で行われているという現実です。日本でも帝王切開率は上昇傾向にあり、2018年時点で都道府県によって8.9〜20.4%と地域差が大きく、高年齢出産(35歳以上)の増加とともに今後も増加が見込まれます。
帝王切開で生まれた新生児は産道を通過しないため、母体の産道微生物への初期曝露が起きません。分娩前後の抗生物質投与も、新生児の腸内細菌叢に影響を与えることが報告されており、ビフィズス菌・乳酸菌などの有益な細菌の減少や、全体的な多様性の低下が確認されています。さらに、出産時の抗生物質曝露が長期的に喘鳴・過体重・炎症性腸疾患・アレルギー疾患などと関連するという疫学研究も積み上がってきています。
ここで強調したいのは、「帝王切開は悪い」「抗生物質は避けるべき」という読み取りは研究の意図ではないという点です。帝王切開が母子の命を救う医療的場面は明確に存在し、分娩時の抗生物質投与にも感染予防・治療という確固たる根拠があります。研究が問題提起しているのは、「医療的必要性」という問いと「腸内細菌叢への影響」という問いは、別のレイヤーに属するものとして同時に扱われるべきだ、ということです。
この認識から、研究者たちの関心はすでに「何ができるか」へと移り始めています。上海交通大学の研究が、妊娠中の母体へのプロバイオティクス投与によって腸内細菌叢の乱れと胎児のBBB機能障害の両方が回復したことを示したのは、その方向性のひとつです。「産後にどう回復させるか」だけでなく、「出産前の母体の腸内環境をどう整えるか」という問いが、次の研究・臨床の焦点になりつつあります。
まだ分からないこと——マウスとヒトの間にある壁
今回紹介した研究はすべてマウスモデルによるものです。この点は明確に伝えておく必要があります。
ヒトとマウスの腸内細菌叢は、属レベルでは約62%が共通していますが、種レベルになると重複はわずか10%程度という比較研究があります。消化管の解剖学的構造にも違いがあり、マウスの盲腸はヒトに比べて相対的に大きく、食物繊維の発酵に果たす役割が異なります。「無菌のマウスでニューロン数が減少した」という知見が、「帝王切開で生まれたヒトの子どもの脳に同様の影響がある」ことを直接示すわけではありません。
これはこの分野に固有の難しさです。倫理的制約から、ヒトの胎児を対象に微生物曝露を操作する実験はできません。ヒトを対象とした大規模な縦断的研究はまだ少なく、マウスの知見がどこまでヒトに当てはまるかを検証するデータの蓄積が続いています。
「腸と脳の対話の全体像を、私たちはまだ見ていない」というのが、この分野の研究者たちの正直な立場です。重要なのは、「腸活すれば脳が発達する」という結論に飛びつかないことと、「どうせマウスの話だから」と手放さないことの、両方を保持することです。今後の研究の焦点は、産後の腸内細菌叢の乱れがいつ・どの程度まで回復するか、そのタイムウィンドウの中でどのような介入が有効かという問いに移っていくでしょう。脳の発達に「間に合う」期間がどこにあるのかを特定することが、この研究の次の重要な課題です。
【用語解説】
腸脳軸(gut-brain axis)
腸と脳の間の双方向の情報伝達システム。迷走神経による神経経路、腸内細菌が産生する代謝産物(短鎖脂肪酸など)、免疫シグナルの3経路が主な通信手段。近年の研究で「腸から脳への方向」が主要であることが示されている。
腸管神経系(ENS:Enteric Nervous System)
腸壁に存在する独立した神経系。数億個のニューロンを持ち、脳との接続なしにも腸の運動・分泌・免疫を自律制御。「第二の脳」の呼称はここに由来する。
短鎖脂肪酸(SCFA:Short-Chain Fatty Acids)
腸内細菌が食物繊維を嫌気的に発酵する際に産生する有機酸。酪酸・プロピオン酸・酢酸が主要な3種。腸壁のバリア機能維持・免疫調節・血液脳関門の強化など多面的な役割を持つ。
血液脳関門(BBB:Blood-Brain Barrier)
脳の毛細血管を覆う細胞層が形成する選択的な透過障壁。病原体・毒素などの脳内侵入を防ぐ一方で、酸素・グルコース・一部の薬物は通過させる。BBBの成熟不全は神経炎症リスクと関連する。
視床下部室傍核(PVN:Paraventricular Nucleus of the Hypothalamus)
視床下部に位置する核。ストレス応答(HPA軸の調節)・血圧・体液バランス・社会行動の制御に中心的な役割を担う。MSU研究が腸内細菌との関係を調べた対象領域。
腸クロム親和性細胞(EC細胞:Enterochromaffin cell)
腸の粘膜に分布する特殊な内分泌細胞。体内セロトニンの約90〜95%を産生する。腸で産生されたセロトニンは血液脳関門を通過できないため、主に腸の蠕動運動の調整や局所の免疫制御を担う。脳のセロトニン系とは生理的に独立したシステム。
マイクロバイオーム(microbiome)
ヒトを含む動物の体内・体表に棲む微生物(細菌・ウイルス・真菌・古細菌など)の総体、およびその遺伝情報の集合。腸内マイクロバイオームは特に免疫・代謝・神経発達との関連研究が進んでいる。
ディスバイオーシス(dysbiosis)
腸内細菌叢の構成バランスが乱れた状態。有益な菌の減少・有害な菌の増加・全体的な多様性の低下などを含む。帝王切開・抗生物質・食事の偏りなどが誘因として挙げられる。
交差里親実験(cross-fostering)
生まれた直後の動物の子を、別の母親のもとで育てさせる実験手法。遺伝的影響と養育環境の影響を分離することで、因果関係を検証する。本記事では無菌マウスと通常マウスを入れ替えることで、胎内影響と出生後影響を切り分けた。
無菌マウス(germ-free mice)
腸内を含む全身が無菌状態で飼育されたマウス。微生物の影響を「ゼロ」の状態から検証できるため、マイクロバイオーム研究に広く用いられる。
【参考リンク】
MSU Department of Psychology — Alexandra Castillo-Ruiz Lab(外部)
本記事の主ソースとなったMSU研究の筆頭著者。研究室の詳細・最新の研究成果の確認に。
Hormones and Behavior(Elsevier)(外部)
MSU研究が掲載された学術誌。神経内分泌学・行動神経科学の査読誌。
Gut Microbes(Taylor & Francis)(外部)
本記事で紹介したS2・S3の論文が掲載された学術誌。腸内マイクロバイオーム研究の専門誌。
MSU study finds tiny microbes shape brain development — MSU Today(外部)
本記事の主ソース。研究の詳細と研究者コメントを掲載。
国立研究開発法人 医薬基盤・健康・栄養研究所(NIBIOHN)(外部)
日本の腸内細菌研究の公的中核機関。腸内フローラ研究プロジェクトを推進。
【参考記事】
MSU study finds tiny microbes shape brain development — MSU Today(外部)
マウスを用いたPVN形成への微生物影響研究。胎内からの影響を示す交差里親実験の詳細を含む。本記事の主ソース。(2025年8月)
Early-life gut microbiome maturity regulates blood–brain barrier and cognitive development — Gut Microbes(外部)
早産児・満期産児由来のマイクロバイオームを移植したマウスでBBBと認知発達の差を確認した研究。(2025年8月)
Maternal gut microbiota mediates prenatal stress-induced fetal blood‒brain barrier dysfunction — Gut Microbes(外部)
母体ストレスが腸内細菌叢を通じて胎児BBBを障害するメカニズムを示した研究。プロバイオティクスによる回復効果も確認。(2026年2月)
The role of nutrition and gut microbiome in childhood brain development and behavior — Frontiers in Nutrition(外部)
腸脳軸のメカニズム(迷走神経・SCFAなど)の解説レビュー。本記事の機序説明の参照元。(2025年6月)
Effects of Perinatal Antibiotic Exposure and Neonatal Gut Microbiota — Antibiotics(外部)
分娩前後の抗生物質投与が新生児腸内細菌叢に与える影響をまとめたレビュー。(2023年)
Regional disparities in primary cesarean delivery rates in Japan — AJOG Global Reports(外部)
日本の帝王切開率の地域差(8.9〜20.4%)と上昇傾向を分析した研究。(2024年)
Comprehensive mouse microbiota genome catalog reveals major difference to its human counterpart — PLOS Computational Biology(外部)
ヒトとマウスの腸内細菌叢を比較し、種レベルでの重複が約10%にとどまることを示した研究。(2022年)
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【編集部後記】
「腸活」という言葉があります。腸を「活かす」という意味ですが、この記事を読んだ後では、少し違う問いが浮かびます。私たちが腸内細菌を活かしているのか、腸内細菌が私たちを活かしているのか——どちらが主語なのか、実は判然としないのかもしれません。
人体は、生まれる前から「自分だけのもの」ではなかった。この認識は、ヒトという生物の輪郭を静かに書き換えていきます。私たちにとっての「腸活」の問いは、もしかすると、そういう場所まで届いているかもしれません。











