映画『ブレードランナー』が描いたディストピアの未来に、ヘッドセットなしで足を踏み入れられる時代が来ようとしています。ロケーションベースの没入型エンターテインメントは、大型IPとVR技術の融合によって急速に進化しており、2027年にはその到達点のひとつが姿を現そうとしています。「マルチセンサリー体験」という言葉が示すものは何か、そしてなぜ今このタイミングなのか——発表の中身を読み解きます。
2026年5月11日、ゲームデベロッパーのBehaviour Interactiveと没入型体験企業PHI Studioが、カナダ共同制作による『ブレードランナー』のロケーションベース「マルチセンサリー体験」を2027年に北米の複数都市でローンチすると発表した。Alcon Entertainmentとのコラボレーションのもと、ナショナル・バンク・オブ・カナダとSODEC(ケベック州文化企業振興公社)が資金を援助し、配給はInfinity Experiencesが担当する。
ローンチのタイミングはAmazon Primeの実写ドラマシリーズ「ブレードランナー2099」の配信開始と重なる。体験の詳細はまだ明かされていないが、作品の美的・哲学的本質を忠実に再現しながら、観客をナラティブ豊かなディストピア世界に没入させる内容になる予定だ。ヘッドセットを持たない人でも参加できるロケーション展開という点が、過去の家庭向けVRタイトルとの大きな違いとなる。
From:
Blade Runner’s Multisensory VR Experience Launches In 2027 | UploadVR
【編集部解説】
LBE型VRが「主役」に戻ってきた背景
2027年という時期設定には、業界の文脈が深く反映されています。
ロケーションベース型VR(LBE: Location-Based Entertainment)の歴史を振り返ると、2017年から2019年にかけては開拓者であるThe VOIDがDisneyと組み、『スター・ウォーズ:シークレット・オブ・ジ・エンパイア』『アベンジャーズ:ダメージコントロール』など大型IPで業界を牽引していました。しかし2020年、コロナ禍による集客喪失とVRBoom LLCへのローン債務不履行、それに伴うDisneyのライセンス契約解除が重なり、The VOIDは事実上崩壊します。同年8月、競合のSandbox VRも米国子会社が連邦破産法第11章を申請しました。
しかしSandbox VRは破綻から立ち直り、現在は世界80以上のベニューを展開、月平均15万人を集客、累計売上3億ドルを突破するまでに成長しています。Netflixと組んだ「Squid Game Virtuals」は単体で累計売上5,000万ドルを超え、2025年末には「ストレンジャー・シングス」シリーズ最終シーズンと同期して「Stranger Things: Catalyst」をローンチしています。
つまり、いまLBE市場には明確な勝ち筋が見えています——大型IPとの独占的提携、シリーズ作品の配信に合わせたコンテンツ同期、そしてヘッドセットを所有していない一般層をベニューに呼び込む設計です。今回の『ブレードランナー』マルチセンサリー体験は、この公式に正確に乗ったプロジェクトに見えます。
注目すべきは、Behaviour Interactive側の戦略的な位置づけです。同社は『Dead by Daylight』で約7,000万人のプレイヤーを抱えるカナダ最大級のゲームスタジオですが、2024年3月にモントリオールの没入型体験スタジオFly Studioを買収し、LBE市場でのポジション強化を明言。同年のレイオフ発表時には「ロケーションベース・エンターテインメントの可能性を探る」ことを戦略方針として掲げています。今回のプレスリリースでDominique Lebel氏(SVP)とShahinaze Hachem氏(Head of Immersive Entertainment)が「This project also marks a new chapter in Behaviour’s positioning beyond video games.」と述べていることは、単なるIPコラボではなく事業ポートフォリオの転換点としてこの作品を位置づけていることを示唆します。
「マルチセンサリー」とは結局何を指すのか
発表文に繰り返し登場する「マルチセンサリー(multisensory)」という言葉ですが、技術的な中身については慎重に言葉が選ばれています。
PHI Studio Executive DirectorのJulie Tremblay氏はCollider取材で、この体験を「a premium, multisensory experience combining immersive environments, cinematic visuals, spatialized sound, interactivity, and physical exploration(没入型環境、映像、空間音響、インタラクティビティ、そして物理的な探索を組み合わせたプレミアムなマルチセンサリー体験)」と説明しています。注意したいのは、ここに「VRヘッドセット」という言葉が一度も登場しないことです。
これは意図的な余地の残し方だと私たちは見ています。LBE型没入体験には大きく分けて三つの形態があり、それぞれ体験設計が大きく異なります。
ひとつは、The VOIDが切り開いたバックパック型VR——ヘッドセットを装着し、物理セットの上を歩きながら、風・熱・触覚といった環境効果と同期する形式です。もうひとつは、Infinity ExperiencesがSpace Explorers: The Infiniteで確立した、最大150名が同時にフリーローミングできる集団没入型VR。三つ目は、Meow Wolfやストレンジャー・シングス:ジ・エクスペリエンスのような、ヘッドセットを使わずに物理セット・映像投影・音響演出だけで世界を構築する形式です。
元記事は「ヘッドセットを所有しているかどうかにかかわらず」参加できることを強調していますが、これは三つ目の形式に近い可能性も、二つ目のフリーローミング型VRが想定されている可能性もあります。配給がInfinity Experiences=Space Explorers: The Infiniteの母体であることを考えると、二つ目の集団没入型に近い設計になる可能性が高いと推測されますが、現時点では公式に明示されていません。
ディストピアを「楽しむ」ことの捻れ
ここから先は事実の解説というより、私たちが投げかけたい問いです。
『ブレードランナー』は、AIラベル付き労働者(レプリカント)の権利、企業による生命の所有、環境破壊が極限まで進んだロサンゼルスを背景に「人間とは何か」を問う作品です。プレスリリースが「美的・哲学的本質に忠実」と謳うとき、その「哲学的本質」とは具体的に何を指すのでしょうか。
ディストピアの世界観を消費可能なエンターテインメントに変換する試みは、この作品が初めてではありません。同じInfinity Experiencesは、モントリオールで『The Black Mirror Experience』を運営しています。ブラック・ミラーもまた、テクノロジーが人間性を侵食する不安を描く作品です。観客は不安を「体験」しに、お金を払ってベニューを訪れる——この構造自体がブラック・ミラー的でもあります。
『ブレードランナー』の場合、この捻れはより複雑です。作品が批判してきた光景——巨大スクリーンの広告、企業ロゴで覆われた都市、商品化された人間性——は、まさにIPライセンス事業によって観客に提供されることになります。これを矛盾と見るか、ポストモダン的なメタ・コメンタリーと見るかは、おそらく体験のディテールにかかっています。視覚と音響だけ忠実に再現してアトラクションとして消費させるのか、それとも「あなたはなぜここでこの世界を体験したいと思ったのか」という問いを観客に返すような設計にできるのでしょうか。
映像作品とLBEを束ねるIP戦略の標準化
最後に、ローンチ時期について一点。元記事はAmazon Prime「ブレードランナー2099」の配信開始とLBEのローンチが同期すると述べていますが、5月11日のプレスリリースではこのドラマシリーズの配信が「2027年」に修正されています。2025年8月時点では2026年初頭公開とされていたため、Amazon側の公開時期がLBEと合わせる形でずれた可能性があります。
これは小さな修正に見えますが、IP戦略としては象徴的です。映像作品の公開とLBEのオープンを意図的に重ねる手法——Stranger Things: Catalystが本編シーズン5最終話と同期したように——が、業界の標準になりつつあります。ファンは映像で世界観に再接触し、その熱量のままベニューに足を運ぶ。LBEは映像作品のマーケティング装置として、映像作品はLBEへの送客装置として、互いを補完します。
これは「ひとつのIPを多面的に展開する」というかつてのメディアミックスより一歩進んでいて、各メディアのリリース時期そのものをポートフォリオとして設計する段階に入っています。私たちはこれを「トランスメディアの同期化」と呼んでもいいかもしれません。今後、Disney、Netflix、Amazonといった大手プラットフォームのIP戦略を読むうえで、LBEの存在は無視できない要素になっていきそうです。
【用語解説】
LBE(ロケーションベース・エンターテインメント)
特定の物理スペース(ベニュー)に来場してその場で体験するエンターテインメント形態の総称。VRヘッドセットを使うタイプから、映像投影・音響・物理セットのみで空間を構成するタイプまで多様。個人所有のデバイスなしに没入体験を提供できることから、VRコンテンツの大衆化手段として注目が高まっている。
マルチセンサリー体験(Multisensory Experience)
視覚・聴覚だけでなく、触覚・嗅覚・温度感覚など複数の感覚チャンネルを同時に刺激することで没入感を高めるコンテンツ設計の考え方。LBE分野では風・熱・振動・匂いといった環境効果を映像や音と同期させる手法が先行事例で採用されている。本記事で紹介するブレードランナー体験の具体的な技術仕様は現時点で非公開。
フリーローミング型VR(Free-Roam VR)
広いフロアスペース内でVRヘッドセットを装着したまま自由に歩き回れるロケーションベースVRの形態。固定席式や移動型ライドと異なり、参加者が自ら空間を探索できる。配給会社Infinity ExperiencesのSpace Explorers: The Infiniteは最大150名が同時に同一空間を歩ける大規模フリーローミング型LBEとして設計された実績を持つ。
レプリカント(Replicant)
映画『ブレードランナー』シリーズに登場する人造人間。人間と見分けがつかないほど精巧に製造されており、危険な作業や性的サービスなど人間がやりたがらない労働に従事させるために生産される。作品は「彼らは本当に感情を持っているのか」「感情を持つ存在を所有・廃棄することは許されるか」という問いを軸に人間性の本質を問い続ける。
【参考リンク】
Behaviour Interactive(公式サイト)(外部)
本プロジェクトの制作を担うカナダ最大のゲームスタジオ。Dead by Daylightのほか、没入型エンターテインメント事業への展開を積極化している。
PHI Studio(公式サイト)(外部)
モントリオール拠点の没入型体験企業。Space Explorers: The Infiniteなど芸術×テクノロジーを横断する大規模LBEコンテンツの制作・配給に定評がある。
Space Explorers: THE INFINITE(公式サイト)(外部)
PHI StudioとFelix & Paul Studiosによる合弁企業Infinity Experiencesが手掛けた大規模フリーローミング型VR体験。世界複数都市で50万人超の来場者を集めた。今回のブレードランナー体験の配給も同社が担当。
Alcon Entertainment(公式サイト)(外部)
ブレードランナーIPの権利を保有する映画・テレビ制作会社。Blade Runner 2049のプロデューサーでもあり、Amazon Prime「ブレードランナー2099」を制作中。
Sandbox VR(公式サイト)(外部)
LBE業界を牽引する体験型VRチェーン。Squid Game Virtualsなど大型IPとのコラボで急成長。世界80以上のロケーションを展開中。映像IPとLBEを組み合わせるビジネスモデルの代表例。
【参考動画】
Space Explorers: THE INFINITE | Official Trailer — 今回のブレードランナー体験を配給するInfinity Experiencesの代表作の公式トレーラー。大規模フリーローミング型LBEがどのような体験設計をしているかを直感的に把握できる。
【参考記事】
Behaviour Interactive and PHI Studio announce the launch of Blade Runner, an immersive experience in North America in 2027(Newswire、2026年5月11日)(外部)
発表日・制作体制・出資者・配給情報・各関係者コメントを含む公式プレスリリース。本記事の主要出典。
‘Blade Runner’ Is Back Like You’ve Never Seen It Before(Collider、2026年5月12日)(外部)
PHI Studio Executive DirectorのJulie Tremblay氏へのCollider独占インタビュー。「マルチセンサリー体験」の定義と設計意図が語られている。
Sandbox VR Accelerates Growth Hitting $300M in Lifetime Sales(PR Newswire)(外部)
LBE業界の現況を示す基礎データ。Sandbox VRの規模・成長率・IP連携効果を確認するための一次資料。
Space Explorers: The Infinite Is The Closest I’ve Felt To Life In Orbit(UploadVR)(外部)
Infinity ExperiencesのSpace Explorers: The Infiniteの詳細体験レポート。フリーローミング型LBEの設計・体験設計の実態を理解するための参考資料。
Stranger Things: Catalyst Sandbox VR Review(UploadVR)(外部)
Netflix連携のSandbox VRコンテンツ「Stranger Things: Catalyst」のレビュー。映像作品の公開とLBEのローンチを同期させる戦略の具体例を示す。
Blade Runner 2099 premiere window 2026(Deadline、2025年8月)(外部)
Amazon Prime「ブレードランナー2099」の配信時期に関するDeadlineの報道。プレスリリース記載の2027年との差異を確認するための参照元。
【編集部後記】
「ブレードランナーの中に入ってみたい」——その欲望そのものが、作品の核心と響き合うことに気づきます。住みたいわけではない未来を、それでも体験してみたくなる。この捻れた好奇心は、私たちのどこから来ているのでしょうか。2027年、北米のどこかのベニューに足を踏み入れた瞬間、答えは渡されないはずです。雨に濡れたネオンの下で、問いだけが残る——そういう体験であってほしいと、私は期待しています。












