NASAは2026年5月12日、高性能宇宙飛行コンピューティング(HPSC)プロジェクトの次世代プロセッサーが試験段階に入ったと発表した。
ジェット推進研究所(JPL)が2026年2月から実施している試験では、放射線、熱、衝撃、機能性能の各項目が評価されている。新プロセッサーは耐放射線設計のシステム・オン・チップ(SoC)で、現行の宇宙飛行用コンピューターに対し設計上は最大100倍の計算能力を目指しており、試験結果からは現用の耐放射線チップの500倍で稼働していることが示唆されている。
本プロジェクトはNASAラングレー研究センターのGame Changing Development(GCD)プログラムが管理し、2022年にアリゾナ州チャンドラーに本社を置くMicrochip Technology Inc.をパートナーに選定。試験は数か月継続される予定で、サンプルはすでに防衛・商用航空宇宙分野の早期アクセス・パートナーへ提供されている。
From:
Hello Universe: NASA’s Next-Gen Space Processor Undergoes Testing – NASA

【編集部解説】
NASAが2026年5月12日に公表したHPSCプロセッサーの試験進捗は、宇宙機の「考え方」そのものが四半世紀ぶりに世代交代しようとしている、という大きな技術史的文脈の一場面です。
現在、火星探査車「Curiosity」「Perseverance」、そしてジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)に搭載されているのは、BAE Systems製の「RAD750」というPowerPCベースの耐放射線プロセッサーです。投入から四半世紀が経過した枯れた技術ですが、その演算能力は地上のスマートフォンに遠く及びません。宇宙では「信頼性のためにあえて古い世代を使う」という逆説が成立してきました。
今回のHPSCプロセッサーは、この常識を反転させようとする試みです。NASAジェット推進研究所(JPL)が2022年にMicrochip Technologyを選定し、同社はSiFiveのRISC-V CPUコアを採用した「PIC64-HPSC」として製品化を進めてきました。原案ではArm Cortex-A53が想定されていたものの、最終的にオープンな命令セットであるRISC-Vが選ばれた点は、半導体の主権をめぐる近年の世界的潮流とも響き合います。
NASAが公表する「100倍」は設計目標、試験で示唆される「500倍」は耐放射線チップ比の実測動向です。性能の意味も従来とは異なります。Microchipの公式情報によれば、AI/ML向けのベクトル拡張により最大2 TOPS(int8)もしくは1 TFLOPS(bfloat16)を発揮するとされており、これは「宇宙でAI推論を回す」ことを真正面から想定したアーキテクチャです。
この性能の意義は、地球からの通信遅延という物理的制約を考えると浮かび上がってきます。地球と月の間で片道約1.3秒、火星では片道3〜22分。リアルタイムでの遠隔操縦は本質的に不可能です。着陸時のセンサーデータを機上で解析し、自律的に判断する能力こそ、月・火星の探査を加速させる前提条件となります。シュワンベック氏とバトラー氏の発言が示唆する「次なる大きな飛躍」とは、技術的にはこの自律性のことを指しています。
加えて、HPSCは240 Gbpsの時間敏感ネットワーク(TSN)Ethernetスイッチを内蔵しており、宇宙機内部の通信構造そのものを変える可能性を秘めています。SpaceWireという宇宙業界固有の規格と並んで、地上のデータセンター標準であるPCIe Gen 3やCompute Express Link(CXL) 2.0をサポートする点も注目に値します。地上と宇宙のソフトウェア資産の壁が、設計の段階から低くなっていくということです。
ポジティブな波及効果は、宇宙の外にも広がります。NASAは航空、自動車製造といった地上産業への応用を明示しており、自動運転や航空機制御のような「故障が許されない」高信頼領域で、宇宙仕様の設計思想が降りてくる構図です。日本の自動車・航空産業にとっても、技術トレンドとして注視に値します。
一方で、潜在的なリスクや課題も冷静に押さえておく必要があります。第一に、現時点はあくまで地上試験段階であり、実際の宇宙環境での長期動作実証はこれからです。第二に、強力な機上計算能力は、宇宙機を狙ったサイバー攻撃の標的価値を高めます。第三に、特定ベンダーへの集中、すなわちサプライチェーン上の依存度という構造的な問題も残ります。
そして、見落とせないのが地政学的な観点です。月面開発をめぐる国際競争が加速するなか、自律型宇宙機の演算基盤を米国が事実上のデファクトとして握ることは、宇宙分野におけるソフトパワーの再編につながります。日本のJAXAやispaceをはじめとする民間月面事業者にとって、どの計算基盤に乗るかは戦略的選択となっていくでしょう。
「Hello Universe」というメールの件名は、コンピューター教育で最初に書く”Hello World”のオマージュです。半世紀前、地上のコンピューターは部屋を埋める巨大な装置から手のひらサイズへと進化しました。今、同じ縮図が宇宙空間で再生されようとしています。私たち人類が太陽系の中で「考える機械」を増やしていく — その黎明期を象徴する一通として、このメールは長く語り継がれていくことになるのかもしれません。
【用語解説】
HPSC(High Performance Spaceflight Computing/高性能宇宙飛行コンピューティング)
NASAが推進する次世代宇宙機向け演算基盤プロジェクトの名称。同時に、その中核として開発されたプロセッサーそのものを指す場合もある。
耐放射線設計(Radiation-Hardened/Rad-hard)
宇宙空間で太陽風や宇宙線などの高エネルギー粒子に晒されても誤動作・劣化しにくいように、半導体の回路構造や製造プロセスを工夫する設計手法のことだ。冗長回路や特殊なメモリセル構造が用いられる。
システム・オン・チップ(SoC)
CPU、メモリコントローラ、通信インターフェースなど、本来は別々の部品で構成されていた機能を1枚のチップに統合した半導体である。スマートフォンに広く使われているが、宇宙仕様のものは長期信頼性と耐放射線性能が桁違いに厳しく要求される。
RAD750
2001年にリリースされ、2005年のDeep Impact探査機を皮切りに、火星探査車Curiosity、Perseverance、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡などNASAの主要ミッションに搭載されてきたBAE Systems製の耐放射線プロセッサー。PowerPCアーキテクチャをベースとしている。
PowerPC
IBM、Motorola、Appleの共同開発によるCPUアーキテクチャ。1990年代以降、組み込み機器や航空宇宙分野で広く用いられてきた。
RISC-V
カリフォルニア大学バークレー校で生まれたオープンな命令セットアーキテクチャ(ISA)である。ライセンス料が不要で、誰でも自由に設計に採用できる点が特徴で、近年は半導体の主権確保を目指す国家戦略でも注目されている。
Arm Cortex-A53
英国のArm社が設計した64ビットCPUコアの一種で、スマートフォン用SoCに広く採用されてきた汎用設計。HPSCの当初の設計案で採用が検討されていた。
ベクトル拡張(Vector Extension)
複数のデータを1命令で一括処理することで、AI推論や信号処理を高速化するための拡張命令セットのこと。
TOPS/TFLOPS
AI処理性能の指標で、TOPSは1秒間に何兆回の整数演算を実行できるか、TFLOPSは何兆回の浮動小数点演算を実行できるかを表す単位である。
TSN Ethernet(Time-Sensitive Networking)
データの到達時刻を厳密に保証できるよう拡張されたEthernet規格。産業オートメーションや車載通信で導入が進んでおり、宇宙機内通信への応用が広がりつつある。
SpaceWire
欧州宇宙機関(ESA)が主導して策定された宇宙機内データ通信規格。耐放射線性と低消費電力に配慮されており、世界中の科学衛星で標準的に用いられている。
Compute Express Link(CXL)
PCIeをベースに、CPU・メモリ・アクセラレータ間で高速かつ一貫性のあるデータ共有を可能にする業界標準インターフェース。データセンターでの普及が進んでおり、宇宙応用は新しい潮流である。
Game Changing Development(GCD)プログラム
NASA宇宙技術ミッション本部(STMD)の下にあり、宇宙活動の前提を覆すような変革的技術を初期段階から育成する研究開発プログラムだ。
【参考リンク】
NASA – High Performance Spaceflight Computing (HPSC)(外部)
HPSCプロジェクトのNASA公式紹介ページ。設計思想、ミッション要件、開発の進捗が体系的にまとめられている。
NASA Jet Propulsion Laboratory (JPL)(外部)
カリフォルニア工科大学が運営するNASAの宇宙開発拠点で、火星探査車や深宇宙ミッションの中核を担う研究所。
NASA Space Technology Mission Directorate(外部)
GCDプログラムを所管する、NASA宇宙技術ミッション本部の公式ページ。先端技術投資の方針が確認できる。
Microchip Technology Inc.(外部)
アリゾナ州チャンドラーに本社を置く半導体メーカー。HPSCの製造パートナーとして2022年に選定された企業。
Microchip – PIC64-HPSC Series(外部)
HPSCを商用展開した64ビットマイクロプロセッサのシリーズ製品ページ。仕様書や開発ボード情報も入手できる。
SiFive(外部)
RISC-V CPUコアの商用設計を手がける米国の半導体IPベンダー。HPSCにはX280コアなどが採用された。
BAE Systems – Radiation Hardened Electronics(外部)
RAD750など長年にわたり宇宙ミッションを支えてきた耐放射線エレクトロニクスを扱うBAE Systems米国法人の公式ページ。
JAXA(宇宙航空研究開発機構)(外部)
日本の宇宙開発を統括する国立研究開発法人。月探査SLIMや火星衛星探査計画MMXなど独自のミッションを推進している。
ispace(外部)
東京を拠点とする民間月面開発企業。商業用月着陸船HAKUTO-Rシリーズで月面輸送サービスを展開している。
【参考記事】
NASA spaceflight computer to use SiFive RISC-V CPU cores(外部)
2022年9月の報道。HPSCのSiFive RISC-V採用、Microchipとの3年・5000万ドル契約、RAD750置換の方針を伝えた一報。
Microchip Unveils Industry’s Highest Performance 64-bit HPSC Microprocessor(外部)
2024年7月のMicrochip公式リリース。8基のSiFive X280、2 TOPS/1 TFLOPS、240 Gbps Ethernet等の仕様を明示。
Microchip’s New Microprocessor to Enable Generational Leap in Spaceflight Computing(外部)
2022年の5000万ドル契約、20年ぶりの新世代宇宙アビオニクスMPU、18社のRTOSパートナーまでを詳述した解説記事。
NASA space chip achieves 500x more power than current processors(外部)
2026年5月のNASA発表を受け、現行耐放射線チップ比500倍で稼働する試験結果の意義を論じた英語記事。
Microchip unveils PIC64 family of RISC-V multicore processor chips for Earth and for space(外部)
Arm Cortex-A53設計案からSiFive X280 RISC-Vコア構成へと転換した経緯と技術詳細を分析した記事。
NASA Awards Next-Generation Spaceflight Computing Processor Contract(外部)
2023年発表のMicrochip選定公式リリース。「現行の少なくとも100倍」という設計目標を初めて示した一次情報である。
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【編集部後記】
「Hello Universe」というメールがNASAの研究所から送られたとき、宇宙機の「考え方」そのものが新しい時代に入ろうとしているのかもしれません。私たちが日々スマートフォンで触れている計算能力が、何百万キロも離れた場所で自律的に判断を下す日が、すぐそこまで来ています。
みなさんは、宇宙機が自ら考えて行動する未来に、どんな景色を重ねますか。月や火星でAIが下す判断を、地球の私たちはどこまで信頼できるでしょうか。半導体の進化が宇宙に届いたいま、読者のみなさんと一緒にその意味を問い続けていきたいと思っています。












