ハッキングツールとしてだけでなく、セキュリティ研究やDIY電子工作の文脈でも存在感を放ってきたFlipper Zero。その生みの親であるFlipper Devicesが、まったく新しいカテゴリのデバイスを引っさげて戻ってきました。今度のターゲットは「無線のオモチャ」ではなく、ネットワークそのものです。ハッカーやティンカラーたちが長年夢見てきた「自分でいじり倒せるLinux PCにして、ルーターにして、AIも動く小箱」——その輪郭が、ついに姿を現しました。
2026年5月21日、Flipper Devicesは新型デバイス「Flipper One」を発表した。Flipper Zero(累計販売台数100万台以上、売上1億5,000万ドル以上)の後継機ではなく、異なるレイヤーで機能する独立した製品として位置づけられている。
Flipper Oneのネットワーク接続は、2系統のギガビットEthernet、USB Ethernet(5 Gbps)、Wi-Fi 6E(2.4/5/6 GHz帯)を中心に構成される。M.2ポートを通じて5Gモデム、SDRモジュール、AIアクセラレーター、NVMe/SATA SSD、Wi-Fiカードなどの拡張も可能だ。
プロセッサーは2基構成。8コアの「RK3576」チップがMali-G52 GPUおよびNPUとともにLinuxを動かし、2コアの「Raspberry Pi RP2350」マイコンがディスプレイや電源まわりを担う。RAMは8GB。ネットワークドライバーを使えばルーター、VPNゲートウェイ、Linuxデスクトップ、4K/120Hz対応メディアボックスとしての利用も想定されており、オフラインでのローカルAIモデル実行にも対応する計画だ。
CEO Pavel Zhovner氏は独自Linux OS「Flipper OS」の開発も表明。プロファイル切り替えによりSDカードの再フラッシュなしでクリーンな環境に戻れる設計を目指す。ただし現時点では発表段階であり、NPUのカーネルサポート、FlipperOS、FlipperCTL、オフラインLLMのトレーニングはいずれも未完成だ。開発者コミュニティの参加を募りながら開発を進めており、ベース構成の価格は350ドル未満を見込んでいる。
From:
Flipper unveils a Linux-powered networking gadget built for hackers and tinkerers
アイキャッチ画像は公式サイトより引用
【編集部解説】
今回のニュースで最初に押さえておきたいのは、Flipper OneがFlipper Zeroの「次のモデル」ではない、という同社自身の説明です。スマートフォンの新機種のように、前モデルの性能を底上げした上位互換が出てきたわけではありません。
Flipper Zeroが扱っていたのは、Bluetooth、RFID、NFC、サブギガヘルツ、赤外線といった「無線の物理層」でした。鍵やカードの信号を読み、まねる——いわば電波の世界のマルチツールです。対してFlipper Oneが踏み込むのは、ギガビットEthernetやWi-Fi 6Eを束ねる「ネットワーク層」です。同じ会社が作る兄弟機ではあっても、向き合っている世界がまるで違います。この違いは、製品カテゴリの話にとどまりません。Flipper Devicesは無線のいたずら道具を売る会社から、ネットワーク機器とLinuxマシンを束ねる会社へと、立ち位置そのものを広げようとしています。
こうした立ち位置の変化を理解する補助線として有効なのが、「ホビイストが手を入れられるコンピューター」という長い系譜です。その代表格がRaspberry Piでしょう。教育とDIYのために設計された手のひらサイズのLinuxマシンは、世界中のメイカーや学習者の手に渡り、自作サーバーから電子工作の頭脳まで、無数の用途を生み出してきました。Flipper Oneが2基目のチップにRaspberry Pi財団のマイコン「RP2350」を採用し、CEOがブログでRaspberry Pi OSへの愛着を語っている事実は、この製品がどの文化圏から生まれたのかを率直に示しています。
技術的な背景を補うと、Flipper Oneの心臓部であるRK3576は、Flipper社が独自開発した特殊なチップではありません。RockchipのAIoT向けSoCで、すでにLuckfoxやその他多数のシングルボードコンピューター(SBC)に採用されている、いわば「枯れた」量産チップです。8コアCPUに6 TOPSのNPUを内蔵し、8GB RAM構成ではコミュニティがすでに3B(30億パラメータ)未満の量子化済みLLMをローカルで動かしている実績があります。つまりFlipper Oneの「オフラインでローカルAIを動かす」という構想は夢物語ではなく、同じチップを使う先行コミュニティが部分的に実証してきた地続きの目標です。Flipperが新しいのは、そうしたバラバラに存在していた可能性を、整ったハードウェアと統合ソフトウェアの体験として一つの箱に束ねようとしている点にあります。
この「束ねる」思想は、開発中の独自OS「Flipper OS」のコンセプトにもよく表れています。プロファイルを切り替えるだけで、SDカードを再フラッシュせずにクリーンな状態へ戻れる——CEOが挙げたこの設計目標は、「壊すことを恐れずに試せる」環境への配慮です。失敗してもすぐ元に戻れるなら、人は大胆に試せます。Flipper Zeroが多くのファンを獲得したのも、高度な無線技術を「遊べる」レベルまで噛み砕いたからでした。Flipper Oneは同じ哲学を、より複雑なLinuxとネットワークの世界へ持ち込もうとしているように見えます。
ただし、NPUによるAI処理とハードウェアの動画デコードはまだメインラインのLinuxカーネルが対応しておらず、独自OSのFlipper OSも制御インターフェースのFlipperCTLも、いずれもコンセプト段階にすぎません。設定作業を助けるオフラインLLMの学習も、これからの課題です。同社は機能の一覧とロードマップを示した上で、開発者コミュニティに協力を呼びかけている段階です。
裏を返せば、この製品が約束する体験のどこまでが実現するかは、これから集まる開発者たちの手にかかっています。ベース構成で350ドル未満という価格の見込みも、最終仕様とともに変わりうる暫定的な数字です。私たちが今見ているのは完成品ではなく、一つの構想の輪郭です。だからこそ、これが本当に「自分でいじり倒せるLinux PC」の決定版になるのか、それとも野心的な未完のプロジェクトに終わるのか——その答え合わせは、これからの数か月から数年をかけて行われることになります。
【用語解説】
Flipper Zero
Flipper Devicesが2022年に発売したポータブル型の多機能ハッキングツール。Bluetooth、RFID、NFC、サブギガヘルツ無線、赤外線など複数の無線規格に対応し、セキュリティ研究やDIY電子工作のツールとして世界中のハッカーやエンジニアに普及した。
Flipper One
Flipper Devicesが2026年5月に発表した新型デバイス。Flipper Zeroとは異なり、ネットワーク層(IP通信)と高性能Linux演算を主軸に据えた、「Linux PCにしてルーターにしてAIも動く小箱」を目指すプロジェクト。現時点では開発中・発表段階。
RK3576
Rockchip(瑞芯微電子)が製造するAIoT向けシステム・オン・チップ(SoC)。Cortex-A72×4コアとCortex-A53×4コアからなる計8コアCPUに、Mali-G52 GPUと6 TOPSのNPUを内蔵する。Flipper One以外にも多数のシングルボードコンピューター(SBC)に採用されている量産チップ。
Raspberry Pi RP2350
Raspberry Pi財団が設計したマイコン。Arm Cortex-M33×2コアとRISC-V(Hazard3)×2コアの「デュアルコア・デュアルアーキテクチャ」構成で、ソフトウェアまたはOTP設定でどちらかのアーキテクチャを選択して使用できる。Flipper Oneではディスプレイ・ボタン・タッチパッド・LEDの制御と電源管理を担い、Linux側がオフでも独立して動作する。
NPU(ニューラルプロセッシングユニット)
AIの推論処理に特化した演算回路。汎用CPUよりも低消費電力かつ高速にニューラルネットワークの計算を処理できる。RK3576に内蔵されており、Flipper Oneではオフラインでのローカルモデル実行に活用される計画。ただし現時点でメインラインLinuxカーネルのNPUドライバー対応は未完成。
M.2
小型の拡張カード規格。SSD(NVMeおよびSATA)、Wi-Fiカード、5Gモデム、SDRモジュール、AIアクセラレーターなどさまざまなデバイスを接続できる標準スロットとして、Flipper Oneに採用。
SDR(ソフトウェア無線、Software-Defined Radio)
従来ハードウェアで実装していた無線信号処理をソフトウェアで代替する技術・機器。M.2スロット経由でFlipper Oneに接続することで、Flipper Zeroが担っていた無線層の機能を補完・拡張できる。
Collabora
Linuxカーネルへの貢献実績を持つオープンソースソフトウェアコンサルティング企業。Rockchip製SoCのメインラインLinux対応を継続的に推進しており、RK3576サポートのカーネルメインライン取り込みにおいてFlipper Devicesと協力関係にある。
Wi-Fi 6E
Wi-Fi 6(IEEE 802.11ax)の拡張規格。従来の2.4 GHz帯・5 GHz帯に加えて6 GHz帯を利用でき、混雑した環境でも高速・低遅延な通信が可能。Flipper Oneはこの3つの周波数帯すべてに対応する。
ティンカリング(Tinkering)
電子機器や機械を「改造・分解・試行錯誤しながら学ぶ」行為を指す英語。「いじり回し」とも訳される。Flipper Devicesがユーザーに促すスタンスの核にある文化的概念。
【参考リンク】
Flipper One 公式発表ブログ(英語)(外部)
Flipper DevicesのCEO Pavel Zhovner氏によるFlipper One発表エントリー。技術的な経緯・財務的なリスク・開発者への協力呼びかけまで、率直かつ詳細に記されている一次情報源。
flipper.net — Flipper公式サイト(外部)
Flipper Zero・Flipper One製品情報、ファームウェアのダウンロード、コミュニティへのリンクをまとめた公式ポータル。購入・開発参加の起点となるページ。
Flipper Devices GitHubリポジトリ(外部)
Flipper ZeroのファームウェアをはじめとするFlipper製品のオープンソースコードを公開。Flipper Oneの初期MCUファームウェアリポジトリも公開済み。開発参加や自己改造に挑戦したい読者向け。
Collabora — Linuxカーネルへの取り組み(外部)
Flipper OneのRK3576メインライン対応を担うオープンソース企業Collaboraによる、Linuxカーネル開発への貢献概要ページ。Rockchip SoC対応の実績も確認できる。
kernel.org — The Linux Kernel Archives(外部)
Linuxカーネルの公式配布サイト。Flipper OneのRK3576サポートがメインラインに取り込まれれば、ここから誰でも同じカーネルをダウンロードして改造できるようになる。
Flipper Discordコミュニティ(外部)
英語圏最大規模のFlipper公式Discordサーバー。20以上の専門チャンネルで使い方の相談から開発参加まで幅広く議論が行われている。Flipper Oneの開発参加に関心のある読者の入口として。
【参考記事】
Flipper One — we need your help(Flipper Blog)(外部)
Flipper DevicesによるFlipper One公式発表エントリー。プロジェクトの経緯、技術目標、財務的なリスク、開発者コミュニティへの協力要請を包括的に記述した一次情報源。
The Flipper One is finally official, but Flipper isn’t selling it yet — they’re asking for help to build it(XDA Developers)(外部)
RAMコスト問題・RK3576アーキテクチャの詳細・開発者ポータルの開放といった背景を丁寧に解説。CEOのブログや過去のTelegramポストを横断した独自取材が有用。
Flipper unveils a Linux-powered networking gadget built for hackers and tinkerers(TechCrunch)(外部)
Ivan Mehta記者による速報記事で、仕様の要点と現時点での未完成部分を簡潔にまとめている。
New Flipper One computing multitool bristles with network, GPIO, and M.2 connectivity(Tom’s Hardware)(外部)
ハードウェア専門メディアの視点から、接続性・拡張性・フォームファクターを詳細に紹介。スペックを技術的に深掘りして確認したい読者に有用。
Restricting Flipper Zero: Is This the Right Approach to Security?(EFF)(外部)
電子フロンティア財団(EFF)による2024年のカナダ規制問題への分析。「汎用ツールの規制」という難問を正面から論じており、Flipper Oneが直面しうる社会的議論の背景を理解するために有用。
【編集部後記】
「世界で最もオープンなARMコンピューターを作る」——Flipper DevicesのCEOがそう宣言しながら、同じ文章の中で「正直、私たちはとても怖い」と書いているのが、このプロジェクトの正直さを物語っています。RAMコストの高騰、ソフトウェアの未完成、財務リスク。普通なら隠したいことを、発表文にそのまま書く。
ハードウェアの夢は、いつもこういう「怖い」から始まるものかもしれません。「自分でいじり倒せる道具」を求める人たちは、完成品を待っているのではなく、その過程に参加したいのだと思います。Flipper Oneが本当に「開かれたLinux PC」になるかどうか、私たちも一緒に見届けていきます。












