「コーラスはそのままに、ブリッジだけ差し替えたい」──そんなプロの編集ニーズが、AIへのプロンプトひとつで叶う時代が来ました。ElevenLabsが2026年5月26日に発表した新音楽生成モデル「Music v2」は、楽曲の一部だけを再生成できるインペインティング機能や、イントロからコーラスまでをセクション単位で構築できる作曲機能を搭載。さらに価格を最大50%引き下げ、ライセンス取得済みデータのみでの学習を強調するなど、AI音楽市場の競争軸を「速さや派手さ」から「権利尊重と編集精度」へとシフトさせる動きを見せています。Suno、Stability AI、Googleが入り乱れるAI音楽戦線で、ElevenLabsはどんな未来図を描こうとしているのか──。最新のプレスリリースを読み解きながら、その意味を一緒に探っていきます。
ElevenLabsは2026年5月26日、新たな音楽生成モデル「Music v2」を発表した。本モデルは、ボーカル、楽器演奏、編曲の品質を全ジャンルで向上させ、多言語サポートを強化した。Music v2は、楽曲の試聴・リミックス・制作を行うElevenMusic、自社プロダクトへの組み込みに対応するElevenAPI、広告やブランドコンテンツ向けに楽曲をダウンロードできるElevenCreativeの3プラットフォームの基盤となる。
1曲内でオペラからヘヴィメタルへの転換、高速ラップ、効果音の埋め込みが可能で、インペインティング機能により任意のセクションのみ再生成できる。今回のリリースに合わせ、ElevenAPIではMusic v1・v2の価格を最大50%、ElevenCreativeのセルフサーブ顧客向けには最大40%引き下げた。
学習データはライセンス取得済みのものに限定され、Believeとのライセンス提携も含まれる。Music v2はElevenMusicとElevenCreativeで本日より提供開始、ElevenAPIにも近日対応予定である。
From:
Introducing Music v2, our groundbreaking new music model
【編集部解説】
ElevenLabsの「Music v2」発表は、単なるAI音楽生成モデルのバージョンアップという枠を超えて、AI音楽業界の力学そのものを書き換える動きとして受け止めるべきニュースです。「未来を報じるメディア」として、その意味を読み解いていきたいと思います。
まず注目したいのは、ElevenLabsが「ライセンス取得済みデータのみで学習している」と説明している点の重みです。これは技術仕様ではなく、業界戦略の宣言と捉えるべきポイントだと感じています(学習データの全容については第三者監査が公開されているわけではないため、あくまで同社の公式説明として受け止めるのが妥当です)。
競合のSunoは、米国レコード協会(RIAA)を通じてSony Music EntertainmentやUniversal Music Group、Warner Music Groupなどから2024年に著作権侵害訴訟を提起されました。その後の動きは流動的で、Warner Music GroupはSunoと和解しパートナーシップに切り替わった一方、Universal Music GroupとSony Music EntertainmentはSunoとの訴訟を継続中です。Udioも同様の訴訟対象でしたが、Universal Music Groupとは2025年10月に和解に至りました。一方ElevenLabsは、2025年8月のEleven Music発表時から、Merlin(独立系レーベル3万社を代表するデジタルライセンス団体)とKobalt(独立系出版大手)との契約を先に整えてから市場参入する、という権利尊重を先行させるアプローチを取ってきました。
さらに2026年4月30日には、ElevenMusicの正式ローンチと同タイミングで、フランス発の音楽ディストリビューターBelieveとも提携を結びました。Believeは同時にTuneCoreと連携して「ライセンスを持たないAIプラットフォーム発の楽曲の配信をブロックする」という対抗策も打ち出しており、無許諾でデータを学習させてきたプレーヤーと、ライセンスを取得してから学習を進めるプレーヤーとの境界線が、より鮮明になりつつあります。今回のMusic v2のプレスリリースで「ライセンスを取得し権利を尊重するAI音楽開発」という表現がわざわざ盛り込まれているのは、この陣営化の流れを背景にしたメッセージだと読み取れます。
技術面で注目したいのは「インペインティング」機能です。これは画像生成AIで先行して普及した概念で、トラックの一部分だけを選択して再生成できるというものです。コーラスはそのままに、ブリッジ部分だけを差し替える──そんな編集作業が言葉のプロンプトで成立する世界が来つつあります。これは「AIが一発で完成品を作る」段階から、「AIと人間が編集作業を共同で進める」段階への移行を示しています。
セクション単位(イントロ、ヴァース、コーラス)で曲を構築できるという点も見逃せません。これまでのAI音楽生成は、数十秒から数分のクリップを生成して終わり、というケースが多かったのですが、楽曲構造を維持しながら積み上げていける設計は、プロの制作ワークフローに近づく一歩です。
ビジネスモデルとしては、ElevenMusic(一般ユーザー向け)、ElevenAPI(開発者向け)、ElevenCreative(ブランド・広告向け)の三層構造が完成しました。特にElevenCreativeで強調されている「シンク使用料も権利処理の遅延もない」という訴求は、広告やブランデッドコンテンツの制作現場における長年の悩みを直撃するものです。マーケティング担当の方であれば、その意味のインパクトは想像に難くないでしょう。
価格を最大50%(API)と40%(Creative)下げたという点は、競争優位を確立する前にコスト面でも一気に攻める姿勢の表れです。Sunoが2026年2月に発表したARR(年換算経常収益)3億ドル・有料会員200万人に対し、ElevenLabs全体は2026年5月にARR5億ドルを突破したと公表しており、潤沢な資金(2026年2月のシリーズDで5億ドル調達・評価額110億ドル)を背景に投資フェーズに振り切っている形です。
ポジティブな側面としては、アーティストへの還元構造が前進したことが挙げられます。Kobaltとの契約では作曲側と録音側の収益が50対50で分配される条項が含まれると報じられており、ストリーミング時代の構造的不均衡を是正する動きとして音楽業界で注目されています。最恵国待遇条項(他社がより良い条件を獲得すれば自動的にアップグレードされる)も組み込まれていると報じられ、業界全体のスタンダードを底上げする可能性を秘めています。
一方、潜在的なリスクや論点も冷静に見ておく必要があります。第一に、ライセンスの対象は主にMerlin・Kobalt・Believeの加盟アーティストのオプトイン分が中心とされ、メジャーレーベル直轄のカタログは現時点で含まれていないと報じられています。第二に、AI生成楽曲が市場に大量流入することで、人間のミュージシャンの活動領域が経済的に圧迫される懸念は依然として残ります。第三に、「ライセンス取得済み」という表現の透明性──どの楽曲が学習に使われたか、どう還元されるかの開示──は今後さらに精査されていくでしょう。
規制面では、EUのAI法やAI生成コンテンツの開示・ラベリング義務化の議論が進行中で、ElevenLabsの「ライセンス先行」アプローチは将来的な規制リスクを先回りした保険でもあります。日本においても、文化庁が2024年3月に「AIと著作権に関する考え方について」を取りまとめるなど議論が活発化しており、こうした「権利尊重型」のプレーヤーが業界基準を作る可能性は十分に考えられます。
長期的な視点で見ると、Music v2は「AIが楽曲を量産する時代」から「AIが楽曲制作のプロフェッショナルツールになる時代」への転換点を象徴しています。スタジオ機材、DAW(Digital Audio Workstation)、サンプリング音源と並ぶ「第四の制作レイヤー」として、AIが日常的に組み込まれていく未来は、もう手の届く距離にあると言えるでしょう。
【用語解説】
インペインティング(Inpainting)
画像生成AIで先行して普及した編集技術で、コンテンツの一部分だけを選択して再生成する手法。Music v2では楽曲のブリッジやコーラスといった任意のセクションだけを差し替え、他の部分はそのまま維持できる。
シンク使用料(Sync Fees)
楽曲を映像作品(広告、映画、ドラマ、ゲームなど)に同期して使用する際に発生するライセンス料。通常は権利処理に時間とコストがかかり、コンテンツ制作のボトルネックとなってきた。
クリアランス(Clearance)
著作物を商用利用する際に必要な権利確認・許諾取得のプロセス。音楽業界では作詞・作曲・原盤など複数の権利が絡むため、確認に時間を要することが多い。
オプトイン(Opt-in)
利用者や権利者が自らの意思で「参加する」ことを能動的に選択する仕組み。MerlinやKobaltの契約では、所属アーティストが自分の楽曲をAI学習に使用させるかを自身で選べる構造になっている。
最恵国待遇条項(Most-Favoured-Nation Clause)
契約相手が他社とより有利な条件で契約を結んだ場合、自社の契約条件も自動的にその水準にアップグレードされる条項。Kobaltとの契約に組み込まれていると報じられている。
ヴァース・コーラス・ブリッジ
楽曲構造の基本単位。ヴァースは日本のポピュラー音楽でいうAメロ、コーラスはサビ、ブリッジは曲調を変化させる橋渡しのパート(BメロやCメロに相当することが多い)を指す。
リファレンスマッチング(Reference-matching)
参考音源を指定して、その雰囲気・構造・スタイルに似た楽曲を生成する手法。プロンプトのテキスト指示だけでは伝えにくいニュアンスを音で示せる。
DAW(Digital Audio Workstation)
パソコン上で音楽制作を行うための統合ソフトウェア。プロ・アマ問わず音楽制作の標準環境となっており、Pro Tools、Logic Pro、Ableton Liveなどが代表例である。
ARR(年換算経常収益)
Annual Recurring Revenueの略。サブスクリプションなど継続課金型ビジネスにおいて、毎月の経常収益を12倍して年間ベースに換算した指標。SaaS企業の成長性を測る代表的な数値として使われる。
RIAA(米国レコード協会)
Recording Industry Association of Americaの略。米国の主要レコード会社が加盟する業界団体で、著作権侵害訴訟の主体となることが多い。
【参考リンク】
ElevenLabs公式サイト(外部)
AI音声・音楽生成プラットフォームを提供するロンドン本拠のスタートアップ。2022年創業のAIオーディオ企業である。
ElevenMusic(外部)
ElevenLabsが提供するAI音楽生成プラットフォーム。プロンプトや歌詞、リファレンストラックから楽曲を作成できる。
ElevenAPI(Music API ドキュメント)(外部)
開発者が自社プロダクトに音楽生成機能を組み込むためのAPIガイド。インペインティング等にも対応している。
ElevenCreative(外部)
広告・ブランドコンテンツ向けに商用利用可能な楽曲を提供するサービス。シンク使用料や権利処理の遅延が発生しない。
Believe公式サイト(外部)
フランス・パリ本拠の独立系音楽ディストリビューター。ElevenLabsとライセンス提携を締結している。
Merlin Network(外部)
世界の独立系レーベル・ディストリビューターを代表するデジタルライセンス団体。約3万社が加盟している。
Kobalt Music Group(外部)
独立系の音楽出版・権利管理会社。ElevenLabsとの契約で収益50対50分配の条項が話題となった。
文化庁「AIと著作権について」(外部)
日本における生成AIと著作権をめぐる議論を整理した文化庁の公式ページ。考え方の取りまとめも掲載。
【参考記事】
ElevenLabs crosses $500M ARR and welcomes new investors(外部)
ElevenLabsが2026年5月にARR5億ドル突破を公式発表したリリース。新規投資家の参加も同時に伝えている。
ElevenLabs raises $500M Series D at $11B valuation(外部)
2026年2月、シリーズD調達5億ドル・評価額110億ドルの公式発表。同社のスケール感を裏付ける一次情報。
Suno reports two million paid subscribers, $300m in annual revenue(外部)
SunoがCEO発信を通じて有料会員200万人・ARR3億ドルを公表した報道。AI音楽市場の競合状況を把握する材料。
Believe and TuneCore are blocking distribution of Generative AI tracks made on ‘pirate studios’ like Suno(外部)
BelieveとTuneCoreが無許諾AI楽曲の配信ブロックに踏み切った報道。ElevenLabsとUdioとの新規ライセンス契約も同時発表。
Kobalt’s AI deal with Suno rival ElevenLabs guarantees publishing ‘parity’ with recorded music(外部)
Kobalt-ElevenLabs契約の構造を詳述した報道。50対50分配と最恵国待遇条項の意義を解説している。
Record Companies Bring Landmark Cases for Responsible AI Against Suno and Udio(外部)
2024年6月、SunoとUdioに対する大手レーベルの著作権訴訟提起を発表したRIAAの公式リリース。
Universal Music settles copyright dispute with AI firm Udio(外部)
2025年10月、Universal Music GroupがUdioと著作権訴訟で和解したことを伝えるReutersの報道。
【関連記事】
Spotify、Universal Music と歴史的契約 — プレミアム会員がAIでカバー・リミックス制作可能に
SpotifyとUniversal Music Groupの大型ライセンス契約。AI音楽×権利尊重×大手レーベルの動きとして本記事と表裏一体のテーマ。
Stability AI、Stable Audio 3.0発表|フル尺楽曲生成・スマホ完結を実現
ライセンス取得済みデータで学習するもう一つのAI音楽モデル。Music v2の競合状況を比較理解できる。
ElevenLabsが「教室のボイスAI」推進、アインシュタインAI音声と教授向けPro無料化を同時始動
Music v2発表前日に公開された同社の最新動向。ElevenLabsのプラットフォーム戦略の文脈を補完。
【編集部後記】
AIが「楽曲を一発生成する」段階から、「一緒に編集する」段階へと足を踏み入れた瞬間を、私たちは今、目撃しているのかもしれません。コーラスはそのままに、ブリッジだけを差し替える──そんな作業がプロンプトで成立する未来は、音楽制作の現場をどう変えていくでしょうか。
権利を尊重する形でAIと音楽が共存する道筋も、少しずつ見え始めています。皆さんは、AIで生まれた楽曲を聴いたとき、どんな気持ちになりますか。あるいは、ご自身で曲を作ってみたいと感じたことはありますか。よかったら、感じたことを聞かせてください。












