2026年5月31日、Interesting Engineeringは、華東師範大学のジエン・ウーが率いる研究チームの成果を報じた。研究は『Nature』誌に2026年5月20日付で発表されたものである。チームは「ブライト・スクイーズド・バキューム」と呼ばれる量子光の一形態を用い、ナトリウム原子の非線形なトンネルイオン化を増強した。
実験では、平均パルスエネルギー300ナノジュールのブライト・スクイーズド・バキューム光が、7.1マイクロジュールのコヒーレント光(従来型レーザー光)と同等の実効強度を示した。同等の効果を得るのに必要なエネルギーの比較で、20倍以上の量子的な増強にあたる。この増強は平均パルスエネルギーを増やすことなく得られるため、熱的あるいは構造的な損傷リスクを抑える手法につながり得る。チームは光の量子統計的性質を変えることで、相互作用の実効強度を調整できることも実証した。
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Chinese physicists achieve 20x laser interaction boost without extra power using quantum tech
【編集部解説】
今回の研究で鍵となるのは「ブライト・スクイーズド・バキューム(BSV)」という、聞き慣れない量子光です。名前に「真空」とありますが、これは何もない空間という意味ではありません。量子力学では、何もないはずの真空にも電磁場の微小な「ゆらぎ」が常に存在します。このゆらぎを増幅し、統計的な性質を作り変えたものがBSVです。通常のレーザー光が光子をほぼ一定のペースで送り出すのに対し、BSVは光子の到来が極端にばらつき、瞬間的に光子が密集する「かたまり」を生みます。
なぜこれが効くのか。今回の標的であるトンネルイオン化は、複数の光子が同時に原子へ作用するほど起きやすくなる「非線形」な現象です。つまり、平均の明るさより、瞬間の集中度が物を言います。光子が一斉に押し寄せるBSVは、平均エネルギーが控えめでも瞬間的なピークを作れるため、少ない総エネルギーで強い反応を引き出せるわけです。
ここで数値の意味を正確に補足しておきます。今回参照した『Nature』掲載論文によれば、実験で示されたのは「平均パルスエネルギー300nJのBSV光が、7.1μJのコヒーレント光と同等の実効強度を達成した」というものです。マイクロ(μ=100万分の1)はナノ(n=10億分の1)のちょうど1000倍にあたります。300nJと7.1μJを同じ単位にそろえると7100nJ対300nJで、その比は約24倍となり、これが「20倍以上の増強」という表現の根拠です。ここで注意したいのは、これはイオン化の総収率が20倍になったという意味ではなく、「同じ効果を得るのに必要なエネルギーが20分の1で済む」という効率の比較だという点です。元記事はこの7.1μJという具体的な比較対象を明示していませんでしたが、一次資料に当たることで数値の出どころがはっきりします。
研究の出どころも確認できました。論文の第一著者はZhejun Jiang氏で、責任著者はShicheng Jiang氏、Hongcheng Ni氏、そして研究を率いたJian Wu氏の3名です。所属は華東師範大学の精密分光学国家重点実験室(State Key Laboratory of Precision Spectroscopy)です。実験は1580nmを中心とする広帯域光を用い、超高真空チャンバー内で希薄なナトリウム蒸気ジェットに照射する形で行われました。
この成果が照らす最大の意義は、「強い光が欲しければ出力を上げる」という物理学の常識的な発想に、別の道を示した点にあります。出力を上げる従来手法は、観測したい試料や精密な光学部品そのものを焼き焦がしてしまうという根本的なジレンマを抱えていました。光の「量」ではなく「統計的な質」を設計することで強い反応を得るというアプローチは、このジレンマを原理的に回避する可能性を持っています。
応用先として最も期待されるのが、アト秒科学です。電子が原子の中で動く時間は、1秒を100京分の1にした程度のごく短い世界です。この瞬間をとらえるには極端に強い光が要りますが、その強さが装置を壊しかねない。今回の技術は、装置を傷めずに必要な強度を生み出す手立てとなり得ます。高次高調波発生や、いずれは分子反応を狙った精度で制御する化学への波及も視野に入ります。
一方で、過度な期待は禁物です。これは孤立したナトリウム原子という、最も基本的な系で初めて実証された段階の基礎研究です。より複雑な原子や分子、ましてや実用デバイスへの応用は、研究チーム自身が今後の課題として挙げています。BSV光を実験条件に合わせて安定生成・制御するには高度な光学系が必要で、すぐに産業現場へ持ち込める段階とは言いにくいのが現状です。
規制という観点では、現時点で直接の論点は生じにくいでしょう。ただし高強度レーザーや量子技術は、長期的には先端計測や安全保障とも接点を持つ領域です。中国の大学が量子光学の基礎研究で世界初級の実証を成し遂げた事実は、各国の研究投資の流れを読むうえでの一つの指標として記憶しておく価値があります。
より大きな視点で見ると、この研究は物理学の発想の転換を象徴しています。これまで「除去すべき邪魔者」とされてきた量子ゆらぎを、逆に「使える道具」として積極的に設計する。ノイズを資源に変えるこの発想は、量子コンピューティングや量子センシングとも通底する、これからの量子技術全体に流れる思想だと言えるでしょう。innovaTopiaが今この記事を取り上げるのは、派手な性能数値そのものより、こうした発想の地殻変動が起きている現場を読者と共有したいからです。
【用語解説】
ブライト・スクイーズド・バキューム(BSV)
量子光の一形態。高利得のパラメトリックダウンコンバージョンで生成され、真空に常在する電磁場のゆらぎを増幅して、光子の到来が極端にばらつくよう統計的性質を作り変えた状態の光である。平均エネルギーが控えめでも、瞬間的に光子が密集する強いピークを生み出せる点が特徴だ。
非線形光学プロセス
複数の光子がほぼ同時に物質と作用することで生じる光学現象。光の強度が高いほど起きやすく、平均の明るさよりも瞬間の集中度が結果を左右する。高次高調波発生や超高速イメージングの基礎となる。
トンネルイオン化
十分に強い電磁場が原子のポテンシャル障壁を歪め、電子が量子力学的なトンネル効果によって原子の外へ抜け出す現象。アト秒科学や電子運動の制御を支える中核的なプロセスである。
アト秒科学
原子内で電子が動くごく短い時間スケール(1秒の100京分の1程度)をとらえ、その運動を観測・制御しようとする物理学の分野。極端に高いレーザー強度を要する点が課題とされてきた。
高次高調波発生
強い光を物質に当てた際、入射光の整数倍の振動数を持つ光が生み出される非線形現象。アト秒パルスの発生源として用いられ、超高速計測の基盤技術となっている。
量子ゆらぎ
量子力学において、真空や物理量に常に存在する微小な不確定性。従来は除去すべきノイズと見なされてきたが、近年はこれを機能的な資源として活用する研究が広がっている。
コヒーレント光
通常のレーザー光を指す。光子が比較的一定のレートで規則正しく到来し、ポアソン統計に従う。今回の研究では、BSV光の効率を測る比較対象として用いられた。
【参考リンク】
East China Normal University(華東師範大学)(外部)
研究を率いた中国・上海の総合大学。精密分光学国家重点実験室を擁し、量子光学や超高速光学の基礎研究に取り組む。
Nature(論文掲載ページ)(外部)
今回の研究論文が掲載された学術誌の該当ページ。論文要旨や図表を確認できる学術一次資料である。
arXiv(プレプリント)(外部)
査読前論文を公開するサーバー上の該当ページ。論文全文や著者一覧、実験条件の詳細を無料で読める。
【参考記事】
Nonlinear atomic tunnelling boosted by bright squeezed vacuum(Nature)(外部)
本研究の一次資料。300nJのBSV光が7.1μJのコヒーレント光と同等の実効強度を達成し、20倍以上の量子的増強を示したと報告している。
Quantum light source boosts attosecond science(Nature News & Views)(外部)
同論文の意義を専門家が解説した記事。トンネルイオン化やアト秒光源との関係を整理し、研究の位置づけを示している。
Quantum Light Speeds Atomic Ionization(Quantum Zeitgeist)(外部)
300nJのBSV光が7.1μJのコヒーレント光と同等のイオン化を達成し、効率で20倍以上の向上を示したと解説する。
Quantum-Boosted Nonlinear Tunneling Driven by a Bright Squeezed Vacuum(arXiv v1)(外部)
初版プレプリント。1580nm・帯域幅200nm・平均出力3mW、170℃のナトリウム蒸気など装置の数値を記載する。
Hongcheng Ni(華東師範大学 研究者ページ)(外部)
責任著者の一人の研究者ページ。当該Nature論文の著者・所属を一次情報として確認できる。
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【編集部後記】
これまで「ノイズ」として邪魔者扱いされてきた量子のゆらぎを、逆に役立つ道具へと反転させる——今回の研究の面白さは、その発想の切り替えにあるのかもしれません。私たちが普段「邪魔だ」と感じているものの中にも、見方を変えれば資源になるものが隠れているのでしょうか。
みなさんは、量子技術がこの先どんな場面で私たちの暮らしに触れてくると思いますか。一緒に想像をめぐらせ、その行方を見守っていけたら嬉しいです。












