「AIが賢くなった」と聞くと、多くの人はスマホの中の話を思い浮かべるかもしれません。文章を書いてくれたり、絵を描いてくれたり。でも今、世界の関心は少しずつ「画面の外」へと移りつつあります。工場で、倉庫で、いずれは私たちのすぐそばで、AIが体を持って働きはじめる。その頭脳を、海外任せにせず日本の手でつくろうという動きが、いよいよ本格的に走り出しました。しかも、単年度で約3873億円という、これまで見たことのない規模で。なぜ今、日本はここまで本気なのか。この一歩が私たちの暮らしや仕事にどうつながっていくのか。少し先の未来を、一緒にのぞいてみませんか。
工場やロボットが「賢く動く」時代の土台を、日本が国産でつくろうとしている。経済産業省は2026年6月30日、NEDOと連携し「AIロボット・フィジカルAIを見据えたマルチモーダル基盤モデル開発事業」を開始すると発表しました。NEDOが2026年3月24日から4月22日にかけて実施した公募において、Noetra株式会社と産業技術総合研究所(産総研)が採択され、国産のマルチモーダル基盤モデルの研究開発が動き出します。
Noetraが国際競争力のある実用モデルを開発・提供し、産総研が国内外の研究機関と連携して先進的な技術開発を担当。事業期間は2026年度から2030年度までを予定しています。
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「AIロボット・フィジカルAIを見据えたマルチモーダル基盤モデル開発事業」を開始します(METI/経済産業省)
【編集部解説】
このニュース、経済産業省のプレスリリースだけを読むと「また新しい国のAI事業が始まるのか」という印象で通り過ぎてしまうかもしれません。ですが、報道各社が伝えている数字を並べると、その本気度が見えてきます。
まず整理しておきたいのが、事業の進め方です。この事業は経産省とNEDOが連携して進めるもので、公募と審査、実施予定先の決定を担ったのはNEDOです。そのNEDOの公募で、Noetra株式会社と産総研が選ばれました。経産省はその発表主体・所管側にあたります。
そして金額です。一次情報で確実なのは、初年度となる2026年度の予算が約3873億円という数字で、これは財務省・経産省の資料でも確認できます。そのうえで報道各社は、2030年度までの5年間で総額1兆円規模になるとの見通しを伝えています。単年度で約3873億円という時点で、国のAI開発事業として異例の規模であることは間違いありません。
ただし、この5年間はあらかじめ全額が約束されているわけではありません。契約されるのは当初の年度分で、以降は毎年度、成果を審査して継続の可否を判断する「ステージゲート方式」が採られます。成果次第で先が決まる、緊張感のある設計になっているのです。
では、なぜ経産省はここまで「国産」という言葉にこだわるのでしょうか。私はここに、このニュースの本質があると考えています。
鍵を握るのは「フィジカルAI」という新しい主戦場です
ChatGPTに代表される生成AIは、いまや文章だけでなく音声や画像も扱いますが、その活躍の舞台はあくまでデジタル空間の中でした。対してフィジカルAIは、現実の物理空間でロボットや機械が状況を認識し、自ら判断して動くための「頭脳」を指します。工場のロボットアーム、物流倉庫の搬送機、いずれ登場するヒューマノイド。それらを賢く動かす土台となる技術です。
ここで日本には、他国にない強みがあります。裾野の広い製造業の現場と、そこで日々生まれる膨大な「現場データ」です。ロボットをどう動かし、どんな作業をこなしてきたかという実世界の記録は、机上のデータでは得られない貴重な資産といえます。
しかし、その資産は「守らなければ」意味を失います
もし国産の基盤モデルがなく、海外の巨大AIに現場データを預けるしかない状況になれば、日本の製造業が積み上げてきたノウハウが国外へ流れ出るリスクも否定できません。経産省が「現場データを守りながら将来も安心して活用できる」という表現を繰り返すのは、この危機感の裏返しです。単なる技術開発ではなく、産業の主権を守る戦略なのです。
開発を担うNoetraという会社の顔ぶれも見逃せません
Noetraは2026年1月に設立され、6月に「日本AI基盤モデル開発」から社名変更したばかりの新会社です。公式には、ソフトバンク、NEC、ソニーグループ、本田技研工業という4社に加え、幅広い業種の企業から出資を受ける予定とされています。報道ベースでは、メガバンク3行を含む40社超が加わる見通しとも伝えられており、いわば「オールジャパン」の布陣です。代表を務める丹波廣寅氏は、ソフトバンク子会社でAI研究開発を手がけるSB Intuitionsの代表を務めていた人物です。
技術面での役割分担も明快です。Noetraが国際競争力のある実用モデルの開発・提供を担い、産総研がより長期的で先進的な技術開発を受け持ちます。高度な日本語理解に加え、画像・動画・音声を扱うマルチモーダル基盤モデル、さらに物理空間を認識できる「世界基盤モデル」までを段階的に開発する構想で、実用と研究を両輪で回す設計になっています。
もう一つ、静かに、しかし重く語られている課題があります。電力です
経産省はこの事業の狙いのなかで、AI利用の「省電力化」をはっきりと挙げています。AIを動かすには膨大な電力が必要ですが、日本のエネルギー自給率は2024年度で16.4%と、OECD諸国のなかでも低い水準にあります。消費電力の大きさは、そのまま国際競争上のハンデになりかねません。高性能なだけでなく、省エネで動く基盤モデルを目指すという方針は、日本という国の制約を正面から見据えた、現実的な選択だといえるでしょう。
期待とあわせて、冷静に見ておきたい点もあります
1兆円という規模は、裏を返せばそれだけ回収のハードルが高いということでもあります。フィジカルAIの領域では、米国のヒューマノイド企業などが猛烈な速度で開発を進めており、5年という事業期間のなかで世界に伍していけるかは未知数です。「世界に先駆けて」という目標を掲げた以上、そのスピード感が問われ続けることになります。
それでも私は、このプロジェクトが持つ意味は大きいと感じています。労働力人口が減っていく日本にとって、フィジカルAIは「人手不足を乗り越える手段」であると同時に、経産省が「勝ち筋の一つ」と位置づける領域でもあります。期待と課題、その両方を抱えたまま、国産AIの5年間がいよいよ動き出したのです。
【用語解説】
フィジカルAI
現実の物理空間で、ロボットや機械が周囲の状況を認識し、自ら判断して動作するための「頭脳」となるAI技術のこと。文章や画像を扱うデジタル空間中心の生成AIとは異なり、実世界での動きを担う点が特徴だ。
マルチモーダル基盤モデル
言語だけでなく、音声・画像・動画・センサーデータなど、多様な種類のデータを統合して扱えるAIモデルのこと。フィジカルAIの土台となる基盤技術と位置づけられる。
現場データ
工場や物流倉庫など、産業の現場で日々生まれる作業記録やセンサー情報などの実世界データを指す。裾野の広い日本の製造業が持つ強みの源泉であり、フィジカルAI開発の貴重な資産とされる。
世界基盤モデル(世界モデル)
物理空間の構造や物体の振る舞いをAIが認識・予測できるようにするモデルのこと。Noetraは日本語性能の高いモデルに加え、この物理空間を認識するモデルの開発も目指すとしている。
ステージゲート方式
事業を複数の段階に区切り、各段階の終わりで成果を審査して継続の可否を判断する進め方のこと。本事業では毎年度の審査を通じて、以降の継続が決まる仕組みが採られる。
エネルギー自給率
国内で消費するエネルギーを、自国でどれだけまかなえているかを示す割合のこと。資源エネルギー庁によると日本の2024年度の自給率は16.4%で、OECD諸国のなかでも低い水準にある。AIの省電力化が重視される背景にあたる。
【参考リンク】
経済産業省(METI)(外部)
日本の産業政策・通商政策を担う中央省庁。本事業の発表主体・所管側であり、フィジカルAI政策を推進している。
NEDO 実施体制の決定について(本事業)(外部)
本事業の公募・審査・実施予定先の決定を担ったNEDOの一次情報。採択の実務主体と事業内容を確認できる。
Noetra株式会社(外部)
国産マルチモーダル基盤モデルの研究開発を担う新会社。旧社名は日本AI基盤モデル開発で、2026年6月に現社名へ変更した。
産業技術総合研究所(産総研)(外部)
日本最大級の公的研究機関。本事業では国内外の研究機関と連携し、先進的・長期的な技術開発を担当する。
資源エネルギー庁 エネルギー白書(安定供給)(外部)
日本のエネルギー自給率が16.4%と低水準にあることを示す一次資料。AI省電力化が重視される背景を裏づける。
【参考記事】
ソフトバンク/ソニー/NEC/ホンダら出資の「Noetra」が始動(ロボスタ)(外部)
初年度2026年度の委託費は約3873億円、2030年度までの総事業規模は約1兆円を見込むと伝えている。
ソフトバンク・NEC・ホンダ・ソニーの国産AI企業「Noetra」経産省が3873億円拠出(ビジネス+IT)(外部)
2026年度に3873億円を拠出し、5年間で総額1兆円規模の支援を行う方針と報道。40社超の出資見通しも伝えている。
国産フィジカルAI始動、ソフトバンク系Noetraに初年度3873億円(BigGoファイナンス)(外部)
初年度3873億円、総額1兆円規模を報じ、赤沢亮正経済産業相の発表と各者の役割分担を整理している。
国産「フィジカルAI」の開発体制が決定 Noetraと産総研を採択–経産省(CNET Japan)(外部)
国産にこだわる理由として、現場データの保護と省電力化という2つの課題を軸にわかりやすく解説している。
国内大手が共同出資のAI開発企業、新名称「Noetra」で始動(ITmedia AI+)(外部)
Noetra代表・丹波廣寅氏の経歴や、物理空間を認識する「世界基盤モデル」開発の方針を伝えている。
国産ロボット・フィジカルAI基盤実現へ 大手出資の新会社Noetraが始動(Impress Watch)(外部)
実空間情報を統合的に扱う技術開発の内容と、社会実装・多言語対応・海外展開まで見据えた体制を紹介している。
【関連記事】
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【編集部後記】
この事業のニュースを読んでいて、私がいちばん心を動かされたのは、金額の大きさそのものよりも、「守りながら活かす」という言葉の重さでした。日本の工場や現場が何十年もかけて積み上げてきた知恵は、目には見えないけれど、確かにそこにある財産です。それを自分たちの手元に置いたまま、未来につないでいく。派手さはないけれど、とても誠実な選択だと感じます。
一方で、正直に言えば不安もあります。5年という時間は長いようで短く、世界のロボット開発は驚くほど速い。掲げた理想に現実が追いつくのか、私も答えを持っているわけではありません。ただ、うまくいくかどうかを外から論評するより、この挑戦がどこへ向かうのかを、同じ時代を生きる一人として見届けたい気持ちのほうが強いです。
フィジカルAIは、いつか私たちの働き方や暮らしのすぐ隣までやってきます。そのとき「知らないうちに変わっていた」ではなく、「その始まりを見ていた」と思えたら、きっと少し楽しい。この記事が、あなたにとってそんな最初の一歩になればうれしいです。もしよかったら、あなたの現場にフィジカルAIが来たら何を任せたいか、想像するところから始めてみませんか。












