基盤モデルが無料で配られ、海外のロボットがすでに工場で働き始めた時代に、日本は1兆円をかけて「国産のAI」を作ろうとしています。しかも、その頭脳を鍛えるGPUも、載せる先のロボットの相棒も、海外の技術です。それでも世界の研究者が日本に集まるというのは、どこか奇妙に思えないでしょうか。
本稿は特集記事です。2026年6月末から7月にかけての一連の報道と、内閣府・内閣官房・経済産業省などの政府資料をもとに、国産「フィジカルAI」をめぐっていま起きている地殻変動を読み解きます。個別の発表を速報する記事ではなく、その背景にある「なぜ」を掘り下げることを目的としています。開発体制の具体的な数字やロードマップは、関連記事(速報)をあわせてご覧ください。
2026年、AI開発の主戦場が「言語」から「世界そのもの」へ移り始めた。ChatGPTに代表される大規模言語モデル(LLM)の進化を牽引してきた研究者自身が、相次いで「LLMだけでは、この先へは進めない」と語り始めている。彼らが次に見据えるのは、現実の物理法則を理解する「世界モデル」であり、ロボットなど実世界で動く「フィジカルAI」である。
その転換点で、日本が国家として動き出した。複数の報道によれば、国産フィジカルAIの研究開発に日米欧の14研究機関が連携し、その参画者には深層学習の第一人者ヨシュア・ベンジオ氏の名もあるとされる(2026年7月時点で、政府や各機関による正式な参加者一覧は公表されていない)。なぜ、生成AIで出遅れ、ヒューマノイド量産で中国に大きく先行された日本に、世界の頭脳が集まろうとしているのか。
鍵は「データ」だ。LLMが将来、高品質な公開テキストの不足に直面すると予測されるなか、次のAIが渇望するのは「現実世界がどう動くか」の情報である。そして、そのデータを生み出す現場──ものづくりの厚みを持つ日本の産業──は、有力な資産になりうる。本稿は、この「現場データ」という切り札と、その裏側にある「AI主権」の攻防を軸に、日本の賭けの正体を読み解く。
【参考動画】
経済産業省によるフィジカルAI政策に関する対外発信イベントの映像です。NEDO、NVIDIA、Noetraが登壇しており、今回の特集が扱う国策の全体像を把握するのに役立ちます。
なぜ、ほかでもない日本なのか
一つの名前が、静かな驚きをもって受け止められました。ヨシュア・ベンジオ。2018年にチューリング賞を受賞し、「深層学習の父」の一人と称される研究者です。2025年には、AI研究者として初めてグーグル・スカラーの被引用回数100万回を突破した、まぎれもない世界最高峰の頭脳です。
その人物が、日本の国産フィジカルAIプロジェクトに名を連ねる──2026年7月、複数の報道がそう伝えました。加えて、英ケンブリッジ大学、米カーネギーメロン大学の研究者、英オックスフォード大学、そしてベンジオ氏が設立にかかわったカナダのAI研究機関「ミラ(Mila)」からも研究者が加わるといいます。さらに、「深層学習の父」のもう一人、ヤン・ルカン氏が設立にかかわった仏新興企業との提携も検討されていると報じられました。ここで、素朴な疑問が浮かびます。なぜ、日本なのでしょうか。
生成AIのレースで先頭を走ったのは米国でした。主要な大規模言語モデルは、ほとんどが米国発です。一方、実世界で働くロボットの「身体」に目を向ければ、ヒューマノイドの量産では中国が2025年の世界出荷台数の大半を握ったとされます。頭脳のソフトウェアでは米国に、身体のハードウェアでは中国に──そう単純化すれば、日本はどちらのレースでも先頭にいるようには見えません。その日本に、世界の第一人者が集まろうとしている。この一見ちぐはぐな現象こそが、いま起きている変化の本質を映し出しています。
「言語のAI」の時代が、静かに折り返した
2026年に入って、AI開発の最前線から、これまでとは異なる声が聞こえるようになりました。深層学習という技術そのものを築いた当人たちが、「言語モデルだけでは、人間のような知能には届かない」と語り始めたのです。
象徴的なのが、ヤン・ルカン氏の動きです。彼は2025年11月、12年にわたって率いた米メタからの退社を表明し、同年末に同社を離れました。背景の一つが、現在のLLMの限界をめぐる考え方の違いだったと報じられています。ルカン氏はかねて、現在のLLMの限界を繰り返し論じてきました。その主張を要約すれば、言葉だけで現実世界の技能を身につけようとすることには限界がある、ということです。たとえるなら、口頭の説明だけで運転を教えるようなもの。交通ルールをすべて暗記しても、摩擦や慣性、死角の感覚は言葉では伝わりません。その身体的な感覚こそが、現実で行動する知能の核心だ──というのが彼の一貫した見方です。彼が新会社で追求するのは、抽象的な表現を通じて世界の成り立ちを予測する「世界モデル」です。
もう一人、「AIのゴッドマザー」と呼ばれるフェイフェイ・リー氏も、同じころ、今日のLLMを「暗闇のなかの言葉巧者」と評しました。雄弁だが、地に足がついていない、という含意です。彼女もまた、空間を理解するAI──「空間知能」を掲げ、世界モデルの開発に向かっています。そして彼らは、批判だけにとどまりませんでした。リー氏の会社は2026年2月に約10億ドルを、ルカン氏の新会社は3月に約10億3000万ドルを調達したと報じられています。半導体大手のエヌビディアも、2026年初頭の大型カンファレンスで「AI Scales Beyond LLMs(AIはLLMを超えて広がる)」という趣旨のメッセージを掲げました。
ここで注意深く見ておきたいのは、これらの動きが、必ずしも一枚岩ではないという点です。ルカン氏とベンジオ氏は、AIのリスクをめぐってはむしろ対照的な立場を取ってきました。ベンジオ氏は近年、自律的に行動するAIの危険性を訴える「AI安全性」の第一人者として活動し、2025年には「自ら行動を取らないAI」を掲げる非営利組織を設立しています。一方のルカン氏は、過度な脅威論には距離を置いてきました。思想は異なる。それでも両者に共通するのは、「LLMの次」を見据え、そのために現実世界のデータが要る、という確信です。AIの進化軸は、「言語」から「世界そのもの」へ。競争の単位が、「モデル」から「世界」へ移ろうとしている。この大きな潮流こそが、冒頭の問いを解く補助線になります。
日本が握る「現場データ」という切り札
LLMは、インターネット上に存在するテキストを、いずれ学び切ってしまうのではないか──そんな懸念が語られています。実際、AIの学習データの限界を研究する機関からは、2020年代後半から2030年代にかけて高品質な公開テキストが制約になりうるとの分析も出ています。では、その次に来るAIは、何を新たな栄養にして育つのでしょうか。答えは、「現実世界がどう動くか」の情報です。ロボットが実際に手を伸ばし、モノに触れ、時に失敗しながら蓄積していくデータ。物体の重さ、滑りやすさ、力の加減──こうした身体を通じた経験の記録です。ところが、この種のデータは、言語データに比べて圧倒的に不足しています。研究者のあいだでは、その差は「10万年分のギャップ」と呼ばれることもあります。
そして、このギャップを埋めうる資産が、日本の産業の現場に眠っています。日本の強みは、ロボットの「作り手」としての厚みにあります。内閣官房の資料は、日本の産業用ロボット市場について「世界シェア約7割」と記していますが、この数字は定義が明示されておらず、注意が必要です。日本国内の工場に世界のロボットの7割が置かれている、という意味ではありません。国際ロボット連盟(IFR)の統計によれば、実際に2024年に新規設置されたロボットのうち日本国内向けは約8%にとどまり、設置台数では中国が過半を占めます。日本の「約7割」は、あくまでロボットメーカーとしての供給力の強さを指すものとみられます。実際、日本企業はモーターや減速機といった中核部品でも高い競争力を持ちます。
ここで大切なのは、「供給力」と「現場データ」を混同しないことです。日本が強いのは、ロボットを作り、送り出す力。一方で、フィジカルAIの燃料となるのは、そのロボットが現場で稼ぐ経験データです。両者は必ずしも一致しません。それでも日本には、自動車から電機、精密機械まで、高度なものづくりの現場が層をなして存在します。この現場の厚みこそが、うまく活用できれば「次のAI」が欲しがる燃料の産地になりうる──政府が描くのは、そうした構想です。
報道によれば、欧米の著名研究者らは、日本が「自身の研究成果を生かしやすい環境」にあるとみて、参加を決めたとされます。ここから先は、私の解釈です。彼らが次のパラダイムを切り拓くために必要とする資源が、この国にある。だからこそ頭脳が引き寄せられるのではないか──そう考えると、先ほどの問いに一つの答えが見えてきます。もっとも、各研究者が「日本の現場データ」を参加理由として明言したわけではありません。ここは、政府の戦略と世界の潮流を重ね合わせたうえでの、記者としての読みだと受け取ってください。なお、日本の現場の厚みは、ロボットの「使い手」としての側面からも裏づけられます。国際ロボット連盟によれば、2024年の産業用ロボットの年間導入台数で、日本は中国に次ぐ世界第2位でした。
ただし、日本の現場が万能なわけではありません。同じ内閣官房の資料は、日本の弱点も示しています。案内や配膳といったサービスロボットの市場では、日本のシェアは1割強にとどまるとされます。日本が圧倒的に強いのは、あくまで「工場のなかの世界」であり、人々の生活空間で動くロボットでは、むしろ後れを取っている。この非対称性は、後の議論で効いてきます。
国家の賭け──1兆円、そして10.5兆円
この現場データという切り札を、日本は国家戦略の中心に据えました。政府は成長戦略の「戦略17分野」の筆頭に「AI・半導体」を掲げ、その第一項目にフィジカルAIを置いています。内閣官房の資料によれば、AIロボット市場は2030年ごろを境に急拡大し、2040年には約60兆円規模へ成長すると予測されています。そして政府は、フィジカルAI分野で2040年度までに官民合わせて10.5兆円規模の投資を誘発することを想定しています。いずれも確定した実績や予算ではなく、あくまで市場予測と投資の目標値である点は、押さえておきたいところです。
今回、報道で注目を集めた研究開発の枠組みは、この壮大な絵の入口にあたります。経済産業省が所管する産業技術総合研究所(産総研)が中核となり、国内外の研究機関が連携して最先端技術を研究する。その成果を、ソフトバンクやNECなど44社が出資する新会社「ノエトラ」が受け取り、実際のAI開発へとつなげていく。研究の柱と、開発の柱。この二本立てが、国産フィジカルAIの基本構造です。
金額の大きさに目を奪われがちですが、注意深く見ておきたい点があります。「1兆円」という数字の使われ方です。この事業をめぐっては、2026年度予算として約3873億円が計上され、事業期間を通じて総額1兆円規模という数字も報じられています。ただし注意したいのは、3873億円は事業全体の予算であり、ノエトラや産総研への具体的な配分額は公式資料では示されていないこと。そして「総額1兆円」も、公式の一次資料で確約された上限額ではなく、報道ベースの数字だということです。確実に言えるのは、NEDOの公募情報で、契約が確定しているのは当初2年度分のみで、それ以降は毎年度の審査(ステージゲート審査)で継続の可否が判断される、と明記されている点です。全額があらかじめ約束された設計ではありません。さらに紛らわしいことに、自民党のロボット議員連盟は、AIロボット導入を支える「データファウンドリー」向けに、これとは別に1兆円規模の予算確保を政府に提言しています。同じ「1兆円」でも、指しているものが異なる場合がある。報道を読むときには、区別が必要です。
もう一つは、この事業を貫く思想です。政府の資料は、産業の現場データを「他国に依存せず活用できる国内基盤の確保が急務」と位置づけ、外国のサービスへの依存が価値の海外流出やデジタル赤字の拡大につながりうる、という危機感を示しています。これは単なる産業振興ではなく、「AI主権」──自国の産業の神経系を、どこか一国の巨大AIに丸ごと預けてしまわないための、基盤づくりの側面を持っています。企業側からも、経済安全保障の観点から日本独自のモデルという選択肢を持つことの重要性を指摘する声が上がっています。
私たちは、何を「国産」にするのか
ここまで読むと、日本には確かな勝ち筋があるように思えてきます。世界が欲しがるデータを持ち、国家が巨額を投じ、世界の頭脳が集う。しかし、冷静に見ておくべき点があります。日本がフィジカルAIの「脳」を国産で作ろうとする一方で、世界はすでに走り出しています。エヌビディアは、ロボット向けの基盤モデルを商用利用可能な形で公開し、いわば「脳を配る」戦略を取っています。米国のヒューマノイド開発企業は、自社ロボットを自動車工場のラインに投入し、長時間の稼働で実績を積み始めたと報じられています(稼働の完全な自律性や速度については、独立した検証が十分とはいえない段階です)。実装をめぐる動きは、日本の外でも着々と進んでいます。
さらに、国産プロジェクトの足元にも目を向ける必要があります。企業の発表によれば、この国産基盤モデルの頭脳を鍛える計算資源(GPU)は、エヌビディアの最新GPUを大量に用いて構築される計画です。それだけではありません。ちょうど同じころ、日本の産業用ロボットを代表するファナック、安川電機、川崎重工の3社が、富士通を結節点に、そろってエヌビディアの技術基盤を活用するフィジカルAIの協業に乗り出しました。日本のロボット産業は、国策の「国産の脳」の完成を待つのではなく、すでに海外の技術基盤の上で走り始めているのです。
ここに、一つの問いが立ち上がります。国産の「脳」が完成するころ、それを鍛えた計算機も、それを載せる日本製ロボットの制御基盤も、海外の技術と深く結びついていたとしたら──私たちは、いったい何を「国産」と呼んでいるのでしょうか。けれど、この問いには、前向きな答え方があると私は考えます。すべてを自前で抱え込むことだけが「主権」なのではありません。むしろ、譲れない一点──産業の現場から生まれるデータと、それを動かす制御基盤の管理権──さえ握り続けられるなら、計算資源やモデルの一部を海外の優れた技術に頼ることは、現実的な選択です。事実、ファナックたちの協業でも、富士通は「ソブリン性(自らのデータや基盤の管理権を確保する考え方)を備えた協調制御基盤」を掲げています。海外の技術を排除するのではなく、使いこなしながら、肝心の管理権は手放さない。それが、いま日本が探っている「現実的なAI主権」のかたちなのだと思います。
大切なのは、「日本は勝てるのか、負けるのか」という単純な採点ではなく、「何を賭け、何を守ろうとしているのか」を見極めることだと思います。世界のAI開発の潮目が「言語」から「世界」へと変わる、まさにその瞬間に、日本は現場データという切り札を握って、次の主戦場のスタートラインに立とうとしている。そこに世界の頭脳が集うという事実は、この賭けが決して無謀ではないことを示しています。私たちが手に入れようとしているのは、単なる技術ではないのかもしれません。AIの未来が決まっていく「場所」そのものを、この国に引き寄せられるかどうか。今回の連携は、その試金石なのだと思います。研究体制の全容が公式に明らかになったとき、この賭けの解像度はさらに上がるはずです。その日を、注意深く見つめていきたいと思います。
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【編集部後記】
一つ、本文に収めきれなかった引っかかりがあります。今回、日本に名前が挙がった研究者たちの多くは、そもそも「言語モデルの次」を探して古巣を飛び出した人たちです。片方は行動するAIの危うさを説き、もう片方はLLMの限界を突きつける。思想はまるで違う。
その二人が、同じ日本の枠組みの周りに引き寄せられているように見えます。彼らを動かしているのが、本当に「日本の現場データ」なのか、それとも別の何かなのか。正式な発表で顔ぶれが確定したとき、最初に確かめたいのはそこです。ベンジオという名前が、看板なのか、実体なのか。
【用語解説】
フィジカルAI
ロボットや自動車、工場などの「モノ」を動かすことを前提としたAIを指す。デジタル空間の言語情報を主に扱う生成AIと異なり、視覚・音声・空間・触覚といった情報も理解する必要があり、より高い能力が求められる。世界で開発競争が始まっている。
世界モデル(World Model)
現実世界の物理法則や構造を内部の表現として学習し、次に何が起きるかを予測できるAIを指す。行動の計画や、ロボットの訓練環境の生成に用いられる。LLMの「次」を担う技術として注目される。
LLM(大規模言語モデル)
大量のテキストで学習し、次の語(トークン)を予測することで文章を生成するAIを指す。ChatGPTなどが代表例。言語処理に強い一方、物理世界の理解には限界があるとの指摘がある。
マルチモーダル基盤モデル
文章だけでなく、音声・画像・動画・センサーデータなど多様な情報を統合して扱う基盤モデルを指す。フィジカルAIの土台となる。
10万年のギャップ
ロボットが学習に使える「身体を通じたデータ」が、言語データに比べて極端に不足している状況を指す比喩。現在の収集速度では言語モデル並みの規模に達するのに膨大な年月がかかるとの試算に由来する。
AI主権(ソブリンAI)
自国の産業や社会を支えるAIの基盤について、特定の他国の技術に過度に依存せず、データや管理権を自国側で確保しようとする考え方。データの流出防止や経済安全保障と結びつけて語られることが多い。
データファウンドリー
現場から集めたデータを蓄積し、AIの機能拡充に生かすための共同基盤を指す。自民党のロボット議員連盟は「官民共同データファウンドリー」の創設と、そのための予算確保を政府に提言している。
【参考リンク】
経済財政諮問会議 資料(内閣府)(外部)
戦略17分野の筆頭「AI・半導体」の第一項目にフィジカルAIを位置づけた政府の一次資料である。
官民投資ロードマップ素案(内閣官房)(外部)
産業用ロボットのシェアや2040年市場60兆円など、日本の強みと市場予測を示す政府資料である。
World Robotics 2025(国際ロボット連盟)(外部)
2024年のロボット新規設置の国別内訳を示す一次統計。供給力と設置台数の違いが確認できる。
AMI(Advanced Machine Intelligence)(外部)
ヤン・ルカン氏が設立にかかわった仏新興企業の公式サイト。世界モデルの開発方針を掲げている。
LawZero(ローゼロ)(外部)
ベンジオ氏が2025年に設立した非営利組織。行動しない安全なAIという構想の考え方を確認できる。












