あなたの自宅まで届いている光ファイバーが、ある日突然「量子インターネット」の幹線に変わるとしたら——。デンマークの研究チームが20年来の壁を打ち破り、その未来をぐっと手前に引き寄せる成果を発表しました。
デンマークのニールス・ボーア研究所の研究チームが、既存の光ファイバーネットワーク上で単一光子を送信することに成功し、長年の量子通信の障壁を突破した。
これまでの量子ドットは930nm付近の波長でしか動作せず、通信規格に適合する1260nm以上の波長では光子のコヒーレンスが損なわれていた。レオナルド・ミドロらのチームは、ドイツ・ボーフムの研究グループとの協力により、約30,000個の原子で構成され、高さ約5.2nm、幅約20nmの新型量子ドットを開発し、通信波長帯である1300nm付近でコヒーレントかつ同一の単一光子を直接放出することに成功した。マルクス・アルブレヒトセンが共同筆頭著者を務める本研究成果は、Nature Nanotechnology誌に掲載された。
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Longstanding Quantum communication barrier broken
【編集部解説】
「量子インターネットへの扉が開いた」— そう言われ続けて十数年。今回の発表が特別な意味を持つのは、その扉がこれまで閉じてきた“物理的な理由”そのものを取り除いた点にあります。論文がNature Nanotechnologyに掲載されたのは2026年4月27日、ほんの数日前の出来事です。
これまで量子ドットが放出する単一光子は、品質こそ最高クラスだったものの、波長が930nm付近に固定されていました。しかし、世界中に張り巡らされた光ファイバーは、1310nm(Oバンド)と1550nm(Cバンド)で最も損失が小さくなるよう設計されています。つまり最良の量子光源は、最悪の伝送損失を強いられる波長で光っていた、というのが過去20年来の構造的な矛盾だったのです。
研究チームは、この矛盾を周波数変換器などの「翻訳装置」で迂回するのではなく、量子ドットそのものを1300nm帯(正確にはOバンドの1,260〜1,360nm)でコヒーレントに光らせるという正面突破で解決しました。コヒーレントとは、放出される光子が一つひとつ完全に同一であるという性質で、量子もつれの分配や量子テレポーテーションといった応用には絶対条件となります。
論文に記載された性能数値も注目に値します。光子の線幅は理論限界(フーリエ限界)よりわずか8%広いだけで、80MHzのπパルス励起下で41.7MHzもの光子放出レートを達成しています。これは「通信波長帯では量子ドットはまともに動かない」という従来の常識を、定量データで覆した結果でもあります。
さらに注目すべきは、本研究がドイツ・ボーフムのルール大学、スイス・バーゼル大学、そしてデンマークの量子スタートアップSparrow Quantum ApSを加えた4拠点による国際共同研究である点です。共同筆頭著者はニールス・ボーア研究所のマルクス・アルブレヒトセン氏と、ルール大学ボーフムのセヴェリン・クルーガー氏の2名。ボーフム側が超低ノイズの量子ドット結晶成長を担い、コペンハーゲン側がナノ加工で量子フォトニック回路に組み上げる分業体制が組まれました。
Sparrow Quantumは共同責任著者でもあるピーター・ロダール教授が創業した量子光源スタートアップで、本研究の光学計測に参画しています。学術機関とスピンオフ企業が査読論文の段階から並走している点に、欧州の量子研究エコシステムの成熟ぶりが表れています。
加えて、本研究は欧州連合のDigital Europeプログラム(EuroQCI、グラント番号101091659)から資金提供を受けて実施されました。つまり今回の成果は、欧州が戦略的に推進する量子通信インフラ構想が「予算」から「実装可能な技術」へと結実した象徴的事例でもあるのです。
技術的に「ケーキの上のアイシング」と表現されているシリコン・フォトニクスとの統合可能性は、実は本研究の最大の含意かもしれません。シリコンは1100nm以下の光を吸収してしまうため、これまで量子ドットは商用シリコンチップに載せられませんでした。1300nm化が実現したことで、半導体産業が積み上げてきた巨大な製造インフラを、そのまま量子デバイス製造に転用できる道筋が見えてきたわけです。
これは、量子コンピューターが冷却装置を必要とする一品物の研究装置から、半導体産業のスケーリング法則に乗る量産デバイスへと移行する可能性を意味します。
世界の状況を俯瞰すると、この成果が出るタイミングの妙が見えてきます。中国はすでに北京と上海を結ぶ約2,000kmの量子通信網を運用しており、米国でもニューヨーク市の既設ファイバーを使った都市規模の量子もつれ交換実験が2026年4月に報告されたばかり。各国が「量子インターネットの幹線」を物理的に敷設しはじめた時期に、その幹線で使える光源の本命候補が登場した、という構図です。
ポジティブな側面は明白で、量子鍵配送(QKD)による盗聴不可能な通信、分散量子コンピューティング、そして極めて高精度な時刻同期や測位といった応用が、既存ファイバー上で実装可能になります。
一方で潜在的なリスクも併せて見ておく必要があります。量子通信が普及するということは、裏を返せば「今暗号化された通信を保存しておき、量子コンピューターが完成した後に解読する(Harvest Now, Decrypt Later)」という攻撃手法に対する防衛が国家戦略になることを意味します。米国国立標準技術研究所(NIST)は2024年に耐量子暗号(PQC)の最初の標準を確定させましたが、QKDによる物理層の安全性は、PQCと並行して整備される“もう一つの保険”という位置づけです。
規制面では、量子技術が輸出管理品目として各国で扱われ始めている点も見逃せません。日米欧は量子関連技術を経済安全保障上の重点領域に据えており、今回のような基盤技術が成熟するほど、半導体に続く新たな技術ブロック化の論点となる可能性があります。
長期的視点では、現時点はあくまで「光源」の問題が解決された段階であり、量子中継器に不可欠な量子メモリー、高効率な単一光子検出器、ノード間の同期制御など、量子インターネット完成までに突破すべき壁はまだ複数残っています。
それでも、研究コミュニティ内で長らく囁かれてきた「通信波長帯の量子ドットは使い物にならない」という“暗黙の前提”が崩れた意義は大きく、量子インターネットのアーキテクチャ設計そのものが今後一気に書き換わっていく可能性があります。日本の通信キャリアや半導体メーカーにとっても、この潮流をどう自社のロードマップに組み込むかが、ここから数年の重要な経営判断となりそうです。
【用語解説】
量子ドット(Quantum Dot)
半導体材料を数十ナノメートルサイズに微細化したナノ結晶のこと。本研究では約30,000個の原子で構成され、人工原子のように振る舞う。離散的なエネルギー準位を持ち、レーザー励起によって正確に1個の光子を放出できる。
単一光子(Single Photon)
光の最小単位である光子を、ちょうど1個だけ取り出した状態。コピーも分割もできないという量子力学の原理(複製不可能定理)により、量子通信における安全性の根拠となる。
コヒーレンス(Quantum Coherence)
量子状態の波としての性質が乱されずに保たれている度合いを指す。量子通信では、光子同士が「完全に同一」であることが求められ、このコヒーレンスが低いと量子もつれの分配や量子テレポーテーションが成立しない。
通信波長帯(テレコムバンド)
光ファイバー通信で標準的に使われる波長帯のこと。1260〜1360nmを「Oバンド」、1530〜1565nmを「Cバンド」と呼び、いずれもファイバー内での損失が極めて小さい。本研究の1300nmはOバンドに該当する。
フーリエ限界(Transform Limit)
量子状態の寿命によって理論的に決まる線幅の最小値。実際の光源はこの限界より広い線幅を持つのが通常であり、本研究は限界よりわずか8%広いだけという極めて高い品質を達成した。
フォトニック集積回路(PIC)
光信号を制御・伝送するためのチップスケール光回路。電子回路(IC)の光版にあたり、複雑な光学系を半導体チップ上に小型化できる。商用品の多くはシリコン基板上に作られている。
シリコンフォトニクス
シリコンを基板材料として光デバイスを製造する技術分野。半導体製造インフラを流用できるためコスト効率が高いが、シリコンは1100nm以下の波長を吸収するため、近赤外光源との統合が長年の課題だった。
量子中継器(Quantum Repeater)
長距離量子通信で光子の損失を補うための中継装置。古典通信の中継器とは異なり、光子をコピーできないため、量子もつれ交換(エンタングルメント・スワッピング)という独自の手法で情報を中継する。
量子鍵配送(QKD:Quantum Key Distribution)
量子力学の原理を用いて暗号鍵を共有する手法。盗聴行為そのものが量子状態を変化させるため、原理的に検知可能であり、情報理論的な安全性が保証される。
量子インターネット
量子ビットを世界規模で生成・分配・保存・処理することを目指す次世代通信網。古典インターネットを置き換えるものではなく、暗号化通信、分散量子計算、超高精度計測などに用いられる補完的なインフラとして構想されている。
非線形周波数変換
光の波長を別の波長へ変換する光学技術。これまで量子ドットの光を通信波長帯に変換する“迂回策”として用いられてきたが、変換効率の低下やノイズ混入が課題だった。本研究はこの工程を不要にした点が画期的である。
耐量子暗号(PQC:Post-Quantum Cryptography)
将来登場する強力な量子コンピューターでも解読困難とされる、新世代の古典暗号方式。NISTが2024年に最初の標準を確定させた。QKDが物理層の安全性を担うのに対し、PQCはソフトウェア層で並行して整備される。
Harvest Now, Decrypt Later
直訳すると「今収穫し、後で復号する」。現時点で暗号化された通信を傍受・保存しておき、将来量子コンピューターが実用化された段階で解読する攻撃手法のこと。長期間機密性が必要な国家機密や知的財産が標的となる。
EuroQCI(European Quantum Communication Infrastructure)
欧州連合(EU)が推進する量子通信インフラ構想。加盟国を量子通信網で結び、政府機関や重要インフラの通信を量子的に保護することを目的とする。本研究もこの枠組みのDigital Europeプログラムから資金提供を受けて実施された。
【参考リンク】
ニールス・ボーア研究所(Niels Bohr Institute)(外部)
コペンハーゲン大学に属するデンマークの物理学研究機関。量子光学や量子情報研究で世界的に著名。
Quantum Optoelectronic Devices グループ(外部)
本研究を率いるレオナルド・ミドロが2022年に設立した研究グループの公式ページ。GaAsプラットフォームでの量子フォトニックデバイス開発を行う。
Sparrow Quantum ApS(スパロー・クォンタム)(外部)
ピーター・ロダール教授が創業した、デンマーク・フレデリクスベア所在の量子光源スタートアップ。本研究では光学計測等を担当した。
Nature Nanotechnology 掲載論文(外部)
本研究の査読済み論文。タイトルは「A quantum-coherent photon–emitter interface in the original telecom band」、2026年4月27日掲載。
ルール大学ボーフム(Ruhr-Universität Bochum)(外部)
ドイツ・ボーフムに所在する総合大学。本研究では実験物理学グループが超低ノイズ量子ドット結晶成長を担った。
バーゼル大学 物理学科(University of Basel, Department of Physics)(外部)
スイスの研究大学。リチャード・ウォーバートン教授らのグループが本研究の電子顕微鏡解析等で参画している。
米国国立標準技術研究所(NIST)(外部)
米国商務省傘下の研究機関。2024年に耐量子暗号(PQC)の最初の標準を策定した。
【参考記事】
A quantum-coherent photon–emitter interface in the original telecom band(Nature Nanotechnology)(外部)
本研究の査読済み論文(2026年4月27日掲載)。著者所属が4拠点にわたること、共同筆頭著者2名の存在、フーリエ限界より8%広いだけの線幅と41.7MHzの放出レート、EuroQCIプログラムからの資金提供などを直接確認した。
Quantum Dots Generate 1260nm Photons For Secure Networks(Quantum Zeitgeist)(外部)
本研究を解説した英語技術メディアの記事。1100nm以下の波長をシリコンが吸収する制約や、1260nm以上の通信波長帯への移行がもたらす意義を技術的観点から整理している。
Understanding Quantum Networking and Its Industrial Potential(The Quantum Insider)(外部)
中国の北京・上海間2,000kmの量子通信網、欧州のEuroQCI、米国の量子インターネット試作などの世界動向を概観した記事。
Scientists take a step toward a quantum internet using New York City’s fiber(Phys.org)(外部)
NYC既設光ファイバー上で3ノード間の偏光量子もつれ交換を1.5イベント/秒で実証した2026年4月の研究を報じた記事。
Researchers Demonstrate Stable Links For Quantum Networks Over Kilometers of Noisy Fiber(The Quantum Insider)(外部)
NIST含む研究チームがノイズの多いファイバー上で安定した量子ネットワーク接続を実証した2026年4月の論文を解説。
Quantum Connectivity for Scale(Optics & Photonics News)(外部)
量子メモリー効率を60%から90%に高めると500km距離でのもつれ分配時間が約2桁改善するなど、量子ネットワーク性能の定量的議論を扱う2026年2月の特集記事。
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【編集部後記】
「量子インターネット」と聞くと、まだ研究室の中の話のように感じられるかもしれません。けれど今回の成果は、皆さんの自宅や職場まで届いている光ファイバーが、そのまま未来の量子通信網になり得ることを示しています。
私たちが日々使っているインフラの上に、もう一つの「次の層」が静かに重なりはじめているのです。皆さんは量子通信が広がった世界で、何を一番安全に守りたいと感じますか。健康データ、家族の写真、それとも仕事の機密でしょうか。











