Anthropic、バチカンへ―クリス・オラー氏が教皇と並んで訴えた「AIラボ単独の限界」

2026年5月25日、Anthropic共同創業者で解釈可能性研究を率いるクリストファー・オラー氏が、バチカンのシノドホールで行われた教皇レオ14世の最初の回勅「Magnifica humanitas」の正式発表の場に登壇した。

オラー氏は、フロンティアAIの開発をフロンティアAIラボのみに委ねることはできないとし、宗教指導者、政府、市民社会による外部からの監視が不可欠だと述べた。またAIが人間の労働を大規模に代替する現実的な可能性があり、職を奪われた人々への支援が道徳的責務になると語った。

背景には、2026年5月1日にペンタゴンがAnthropicを除く7社と機密・最高機密ネットワーク環境でのAI展開契約を結んだこと、トランプ政権が同社の自律型脆弱性発見モデル「Mythos」のアクセス拡大に反対したことがある。Anthropicは現在、9,000億ドルの評価額で300億ドルの資金調達を協議中である。

From: 文献リンクFrom the Vatican stage, Anthropic’s Chris Olah says AI cannot be steered by AI labs alone

【編集部解説】

今回のニュースで重要なのは、フロンティアAIラボの創業者が、教皇庁と米政権の双方が注目する構図の中で、自社を含む業界全体に対して「我々だけでは舵取りできない」と明言した、その構造そのものです。

クリス・オラー氏は33歳のカナダ人で、複数の海外メディアによれば無神論者でもあるとされます。Anthropic公式に掲載された講演全文を読むと、オラー氏は教皇に対し3つの「識別の問い」を提示しています。すなわち、グローバル・サウス(途上国・新興国)への義務、人間の繁栄をめぐる道徳的想像力、そしてAIモデルの本質に関する識別、の3点です。

3点目は特に注目すべきです。オラー氏は、自身が率いる解釈可能性(interpretability)研究チームがAIモデルの内部を観察した結果、「人間の神経科学の知見と類似する構造」「内省(introspection)の証拠」、そして「喜び、満足、恐怖、悲しみ、不安に機能的に類似する内部状態」を見つけ続けていると証言しました。彼は「それが何を意味するのか私には分からないが、継続的な識別に値する」と述べています。AI企業の創業者が宗教指導者の前でこの種の現象を語るのは、極めて異例です。

歴史的文脈も見逃せません。今回の回勅「Magnifica humanitas(マニフィカ・フマニタス)」は、1891年に教皇レオ13世が産業革命下の労働問題に正面から向き合った回勅「Rerum novarum(レールム・ノヴァールム)」と、明確に対をなすものとして位置づけられています。署名日が「Rerum novarum」発布から135周年にあたる5月15日に設定されていること自体、教皇庁の意図を雄弁に物語っています。「Rerum novarum」がカトリック社会教説の出発点となり、20世紀の労働運動や社会政策に影響を与えたことを踏まえると、教皇レオ14世が「レオ」という名を選び、AIを主題に最初の回勅を発したことの意味の重さが見えてきます。

なぜこのタイミングで、なぜAnthropicなのか。背景には米国政府との緊張関係があります。トランプ政権は今年に入り、Anthropicの技術を巡って米国機関での利用に関する措置を取り、5月1日には、ペンタゴンがAnthropicを除く7社(SpaceX、OpenAI、Google、NVIDIA、Reflection、Microsoft、AWS)と機密・最高機密ネットワーク環境でのAI展開に関する契約を締結しました。加えて、自律型脆弱性発見モデル「Mythos」のアクセス拡大に対しても、ホワイトハウスは反対の姿勢を示し、計画は難航しています。Anthropicが軍事利用に関するガードレールを重視し、ペンタゴンとの間で利用条件を巡る対立を深めたことが、政権との摩擦を生んだ構図と言えます。

その同じ時期に、Anthropicは9,000億ドル(約143兆円)の企業評価額で300億ドル(約4兆7,700億円)の資金調達を協議中とされます(2026年5月時点のレート、1ドル=159円換算)。「安全性を盾に国防案件と摩擦を起こす企業」と「巨額調達中の企業」という二つの顔の不協和音について、オラー氏自身が「我々のような企業は、社会の広範な利益と相反しうる商業的・地政学的・個人的圧力の下にある」と認めた点が、この記事の核心と言えるでしょう。

長期的視点で言えば、AIガバナンスの主導権争いが新しい段階に入ったことを示唆しています。これまで規制論議の主役は、米国議会、EU(AI Act)、各国規制当局、そしてAI企業自身でした。そこに「カトリック教会」という、約14億人の信徒を擁し国境を持たない非政府アクターが、極めて意図的な形で参戦したわけです。OpenAIでもGoogle DeepMindでもなくAnthropicが選ばれた事実は、教皇庁が「安全性に最も慎重なラボ」を象徴的パートナーに据えたとも読み取れます(教皇庁の明示的発言ではなく、本誌による解釈です)。

ポジティブな側面としては、AI倫理の議論が技術者コミュニティの外へ大きく開かれる契機となり得ることが挙げられます。一方でリスクもあります。Anthropicがバチカンの権威を借りて自社のポジショニングを強化する「道徳的ブランディング」に陥る危険性、そして「AIラボ単独では決められない」という主張が、結果として現状の業界寡占を正当化する逆説に転化する可能性です。

日本の読者にとっての意義はどこにあるのでしょうか。日本のAI政策は欧米の動向に追随する傾向が強い構造です。だとすれば、今後の規制議論において「宗教的・倫理的フレーミング」が欧米から流入してきた際に、無宗教的・多宗教的な土壌を持つ日本がどう独自の倫理基盤を構築するかが問われます。神道や仏教の人間観・自然観から導かれるAI倫理は、まだほとんど語られていない領域です。この空白こそ、私たちが向き合うべきフロンティアだと考えます。

【用語解説】

回勅(encyclical/エンチクリカル)
ローマ教皇が全世界のカトリック教会に向けて発する公的書簡。慣例として本文の冒頭2語のラテン語がそのままタイトルとなる。教義・社会問題に対する教会公式見解として、極めて高い権威を持つ文書である。

Magnifica humanitas(マニフィカ・フマニタス)
教皇レオ14世による最初の回勅。日本語訳は「壮麗なる人間性」(英訳:Magnificent Humanity)。「人工知能の時代における人格の擁護について」を主題とし、署名は2026年5月15日、正式発表は同年5月25日。教皇自らが発表の場に登壇するという異例の形式が取られた。

Rerum novarum(レールム・ノヴァールム)
1891年に教皇レオ13世が発した回勅。「新しき事物について」の意。産業革命下の労働者の権利と社会問題に正面から向き合った文書で、カトリック社会教説の出発点として位置づけられる。今回の「Magnifica humanitas」は、AIに対する同じ歴史的役割を担うものとして対比される。

解釈可能性研究(interpretability research)
ニューラルネットワークの内部で何が起きているかをリバースエンジニアリングし、AIモデルがある出力に至った経路を人間が理解可能な形で解明しようとする研究分野。AI安全性の中核領域とされる。

フロンティアAIラボ
最先端の汎用AIモデルを開発する研究機関の総称。具体的にはAnthropic、OpenAI、Google DeepMindなどが該当する。

シノドホール(Synod Hall/Aula Nuova del Sinodo)
バチカン市国内に設けられた主要会議室。世界代表司教会議(シノドス)などの重要な教会会議が開催される公式空間である。

Mythos
Anthropicが開発した自律型脆弱性発見モデル(Mythos Preview)。脆弱性を発見・検証する能力を持ち、一部のケースで完全自律的に脆弱性の発見と検証を行ったとされる。

内省(introspection)
本来は人間が自分自身の意識や思考を観察する精神活動を指す哲学・心理学用語。AI研究の文脈では、モデル自身が自らの内部状態を参照・報告する機能の有無や性質を指す。

【参考リンク】

Anthropic 公式サイト(外部)
Claudeを開発する米国のAI企業。AI安全性研究を経営の中核に据えていることを公言している。2021年設立。

Vatican News(バチカン公式ニュース)(外部)
教皇庁公式のニュースサイトによる、Magnifica humanitas発表の事前告知記事。登壇者一覧を含む。

The Next Web (TNW)(外部)
オランダ・アムステルダム拠点のテック系メディア。本記事の発信元。欧州のテックシーンに強みを持つ。

【参考記事】

Magnifica humanitas(回勅本文/バチカン公式)(外部)
バチカン公式ウェブサイトに掲載された回勅本文。教皇庁の最も権威ある一次資料である。

Anthropic co-founder Chris Olah’s remarks on Pope Leo XIV’s encyclical “Magnifica humanitas”(Anthropic公式)(外部)
オラー氏のバチカン講演全文を掲載したAnthropic公式記事。3つの識別の問いを提示した一次情報である。

Trump administration blocks Anthropic’s Mythos rollout(The Next Web)(外部)
ホワイトハウスがMythosのアクセス拡大に反対し、約70組織への拡張計画が難航している経緯。

Pope Leo unveils his encyclical, thanks Anthropic’s Christopher Olah(Angelus News)(外部)
ロサンゼルス大司教区系メディアの当日記事。教皇が技術者・政治指導者・親や教師から聴取したと記録。

Claude Mythos Preview(Anthropic Red Team)(外部)
AnthropicのレッドチームによるMythos Previewの公式説明。自律型脆弱性発見能力に関する一次情報。

【関連記事】

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【編集部後記】

これまでテック業界・政府・研究者の三者が主に担ってきたAIを巡る議論――そこに今回、カトリック教会という約14億人を背景に持つ存在が、明確な意思を持って参入してきました。

宗教的フレーミングが欧米から流入してくる時、無宗教・多宗教の土壌を持つ日本は、独自の倫理基盤をどう編んでいくのでしょうか。神道や仏教の人間観、技術観から見たAI倫理は、まだほとんど語られていません。みなさんはAIの「正しさ」を、誰の声で確かめたいでしょうか。技術者、政治家、宗教者、それとも別の誰か。一緒に考えていけたら嬉しいです。

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omote
デザイン、ライティング、Web制作を行っています。AI分野と、ワクワクするような進化を遂げるロボティクス分野について関心を持っています。AIについては私自身子を持つ親として、技術や芸術、または精神面におけるAIと人との共存について、読者の皆さんと共に学び、考えていけたらと思っています。