バーティカルAIとは何か|「IT予算ではなく人件費」を狙う領域特化型AIの正体

「バーティカルAI」という言葉を、この1週間で何度も見かけたはずです。政府は19の領域を重点支援領域に位置づけ、官民投資を集中する方針を示しました。でも——それは結局、何なのでしょうか。ChatGPTと何が違うのか。フィジカルAIとはどういう関係なのか。日本に勝ち目はあるのか。

答えを探して、政府の資料と、米国のベンチャーキャピタルが出した2本のレポートを読み比べました。そこで見つけたのは、日本の報道ではまだ十分に前面に出ていない、身も蓋もない一文でした。「バーティカルAIは、IT予算ではなく、人件費予算を取りに行く」。ベンチャーキャピタル、Bessemer Venture Partnersの投資仮説です。つまりこれは、便利なソフトが増えるという話ではない。これまで人間が受け取っていた報酬を、AIベンダーが受け取りにいくという話です。そして日本には、バーティカルAIを展開し、ARR100億円を公表した企業が2社あります。


バーティカルAIとは何か——「現場で使えるAI」という定義

人工知能戦略本部の資料は、バーティカルAIをこう定義しています。データ、AIモデル、アプリケーションを垂直統合した、領域特化型のシステム。そして、その特徴を一言でこう表現しました。

「専門性を有し、現場で使えるAI」。

この「現場で使える」という言葉が、核心を言い当てています。

ChatGPTを開いて「この患者の退院時サマリを書いて」と頼んでも、患者データに接続していない初期状態では、患者固有の正確なサマリは作れません。カルテにアクセスできないし、その病院の書式を知らないし、診療報酬の算定要件も参照できない。汎用のAIは、広く浅く知っている代わりに、特定の現場のデータに、そのままでは接続されていないのです。

バーティカルAIは、そこを埋めます。医療なら医療、法務なら法務、製造なら製造。ひとつの領域に絞り込み、その領域のデータ、その領域に最適化されたモデル、その領域の業務フローに埋め込まれたアプリケーションを、縦に一本、垂直に貫いて統合する

なぜ「垂直」と呼ぶのか

ソフトウェア業界では昔から、市場を2つの軸で切り分けてきました。

ホリゾンタル(水平)は、業界を横断します。会計ソフト、チャットツール、表計算。どの業界の会社も使う。ChatGPTやClaudeのような汎用AIは、この水平型です。

バーティカル(垂直)は、業界を縦に切ります。美容室向け予約システム、建設現場向け工程管理、飲食店向けPOS。特定の業界だけを深く掘る。

つまりバーティカルAIとは、「垂直市場向けのAI」という意味です。そして政府の定義は、そこに「技術スタックの垂直統合」という意味も重ねています。

この言葉、日本政府が考えたわけではない

Shopify、Toast、Procore、ServiceTitanといった垂直SaaS企業を早くから支援してきた米国のベンチャーキャピタル、Bessemer Venture Partners(ベッセマー・ベンチャー・パートナーズ)が、この概念の体系化と普及に大きく寄与しました。同社は2024年9月から2025年1月にかけて「Vertical AI Roadmap」という4部構成のレポートを公開し、2026年1月にはそれを創業者向けのプレイブックとして整理しています。

そのBessemerが、市場の転換点として位置づけるのが2023年です。理由は明快で、LLM(大規模言語モデル)が、それまでソフトウェアの手が届きにくかった領域を開いたからだといいます。

「記録するシステム」から「働くシステム」へ

従来の垂直SaaSは、主に「記録するシステム」を担ってきました。Bessemerはこれを system of record(システム・オブ・レコード)と呼びます。予約を記録する。工程を記録する。売上を記録する。人間が入力し、ソフトウェアが保存し、後から検索できるようにする。それが中心でした。

でも、その現場でいちばん時間を食っている仕事は、記録ではありません。

弁護士が数千ページの証拠書類を読み込み、リスクを判断する。医師が診察内容を思い出しながらカルテを書く。会計士が領収書の山を前に、この経費は認められるかを考える。設計者が「この部品、前に似たのを作った気がする」と過去の図面を探し回る。

これらはすべて「言葉と判断」の仕事です。そして従来のソフトウェアは、こうした非定型の業務を、多くの場合、十分な品質と現実的なコストでは扱えませんでした。例外が多すぎて、暗黙のルールが多すぎたからです。

LLMは、ここを開けてしまった。Bessemerはこの転換を、system of record(記録するシステム)から system of work(働くシステム)へ、と表現します。記録を保存するだけの道具から、仕事そのものを引き受ける道具へ

核心——IT予算ではなく、人件費予算を取りに行く

Bessemerの分析で最も重要なのは、次の一文です。

「バーティカルAIは、IT予算ではなく、人件費予算を取りに行く」。

従来の垂直SaaSは、企業のIT予算という限られた財布の中で戦っていました。年間契約でいくら、ユーザー1人あたり月額いくら。その財布の大きさが、市場の上限でした。

バーティカルAIは、違う財布を開けます。損益計算書(P&L)の「人件費」の行です。

これがどれほど大きいのか。Bessemerの概算では、ビジネス・専門サービス業は米国GDPの13%を占め、これはソフトウェア市場の、およそ10倍にあたります。ただしこれは、広いサービス支出とソフトウェア支出を比べた概算であり、同一定義の市場統計ではありません。

それでも、この投資仮説が持つ射程は明らかです。「もっと便利なソフトを売る」という話ではありません。「これまで人間が受け取っていた報酬を、AIベンダーが受け取りにいく」——Bessemerの主張を突き詰めると、そういう構図が見えてきます。

ここに、期待と不安が同時に生まれます。私はこの構造を、きれいごとで隠すべきではないと思っています。

3つの型 ①伴走型(Copilot)——隣に座る

バーティカルAIと一口に言っても、実際には形が違います。Bessemerは3つの型に整理しました。人間とAIの役割の違い、そして顧客への提供形態の違いとして見ていきます。

まず、人間の隣に座り、作業を支援する型です。人間が判断の中心にいて、AIは補佐に徹する。

Ubieの「ユビー生成AI」で、医師が診察の音声から要約を作らせる。LegalOnで、契約書のリスク箇所をAIに指摘させる。最終的な判断は人間が下します。比較的、導入しやすい型です。

3つの型 ②自律型(AIエージェント)——代わりにやる

人間の介在を抑えながら、特定の業務フローを自律的に処理する型です。

LegalOnは2025年7月、AIアシスタントへのエージェント搭載を予告し、その後、実装を進めています。契約書のレビューやドラフト、法務相談を、弁護士監修のコンテンツや自社固有のナレッジと連携させながら、自律的に処理する方向へ向かっています。LayerXの「証憑取得エージェント」は、これまで手作業だった請求書や領収書の取得を自動化します。

課金の考え方にも、変化の兆しがあります。ユーザー数ではなく、成果(アウトプット)に応じて課金する例が現れ始めている。人を1人増やす代わりにAIを使うなら、比較対象は人件費だからです。

3つの型 ③代行型(AI型サービス業)——結果を売る

これがいちばん新しく、いちばん見落とされている型です。

ソフトウェアを売るのではなく、業務そのものを引き受けて、結果を納品する。中身にAIを使っているかどうかは、顧客にとっては本質ではありません。

LayerXが2026年2月に始めた「バクラク承認代行」が、まさにこれです。同社はこれを「AI-BPO」と呼びます。領収書の入力値や社内規程に照らした承認確認を、AIと専門オペレーターが協働して代行する。単純な転記ミスのチェックから、企業固有の規程に基づく費用の妥当性確認まで、ワンストップで完結させる。

ここには人間が残ります。だから「自律型より進んでいる」という話ではありません。顧客に何を売るのか——ソフトか、結果か。その違いです。

ソフトウェア会社が、サービス業に踏み込んでいく。これはSaaSの常識では説明できない動きです。そして、人件費予算を取りに行くという構造を、最も直接的に体現しています。

フィジカルAIとの関係——順番が設計されている

innovaTopiaの読者なら、「フィジカルAI」という言葉のほうが馴染みがあるかもしれません。現実世界を認識し、機械や装置を通じて物理的なタスクを実行するAIです。

では、バーティカルAIとフィジカルAIは、どういう関係にあるのか。政府の答えは明快です。順番がある、と。官民投資ロードマップはこう書いています。「フィジカルAIに先行して市場が発現する」。

論理はこうです。まず、バーティカルAIが各現場に導入される。医療、建設、製造、物流。現場の人がAIを使う。使えば使うほど、その現場の経験や知識がデータとして集積されていく

そのデータが溜まったところで、フィジカルAIが立ち上がる。集まったデータとAIの判断を、今度は機械や装置を通じて、現実世界で実行する

政府の構想を比喩的に言えば——バーティカルAIは、フィジカルAIの燃料タンクなのです。

先に頭脳を現場に置き、データを溜め、そのデータで身体を動かす。この順序が、国家戦略として先に設計されている。7月10日の会合で、バーティカルAIの推進を内閣府の小野田紀美大臣が、フィジカルAIの社会実装を経済産業省の赤澤亮正大臣が中心となって進めるよう首相が指示したのも、この2段構えを反映しています。

ただし、データはそのままでは使えない

ここには大きな留保がつきます。現場のデータが、そのままロボットの学習に使えるわけではありません。

カルテには患者の個人情報が含まれます。図面には企業の機密が詰まっています。同じ「不良品」という判定でも、工場によって基準が違う。フォーマットも、用語も、粒度も、バラバラです。

だから中間とりまとめは、多くの領域で繰り返し、データの標準化と精製を課題に挙げています。

バーティカルAIからフィジカルAIへ、という順序が成立するかどうかは、この地味な作業に大きく左右されます。派手な話ではありません。でも、ここが本丸です。

政府は「2030年に垂直が汎用を追い抜く」と予測している

ここからが、この記事でいちばん書きたいことです。

内閣官房の官民投資ロードマップに、こういう一文があります。

「2030年までにバーティカルAIの企業での利用が汎用的AIを上回る見込み。」

汎用AI——つまりChatGPTやClaudeのようなツール——を、領域特化型が追い抜く。政府はそう見立てています。

そのうえで、市場規模の目標も掲げました。国内のバーティカルAI市場は、2024年に約1兆円。2030年には約3兆円超になる見通し。世界市場は2030年に33兆円と見積もり、そのうち内外で少なくとも5兆円の獲得を目指すとしています。

強気の予測です。では、実際の市場はどう動いているのか。

カネはどこに流れているのか

Menlo Venturesという米国のベンチャーキャピタルが、2025年12月に「2025: The State of Generative AI in the Enterprise」という調査レポートを出しています。米国企業の意思決定者495人への聞き取り(2025年11月7〜25日実施)と、公開情報を組み合わせた推計です。継続的に公表されている調査で、この分野の実態を測る手がかりになります。

最初に、限界を明示しておきます。この調査のサンプルは米国企業に限定されています。日本市場を映すものではありません。また、チップや推論基盤、そして既存ソフトに組み込まれたAI機能は集計から除外されています。政府の推計とは、対象も年度も算定方法も違う。単純比較はできません。

それでも、この調査は「カネがどこに流れているか」の形を見せてくれます。

2025年、米国企業の生成AI支出は370億ドルに達しました。2024年の115億ドルから、3.2倍。そのうちアプリケーション層が190億ドル

そして、その190億ドルは、3つに割れます。ホリゾンタルAI(全機能横断)が84億ドルで、前年比5.3倍。その86%にあたる72億ドルは、ChatGPT EnterpriseやClaude for Work、Microsoft Copilotといった伴走型が占めます。部門特化型AI(職種別)が73億ドルで、前年比4.1倍。その55%はコーディング支援です。そしてバーティカルAI(業界別)は35億ドル、前年比およそ2.9倍。医療が15億ドル、法務が6.5億ドル、行政が3.5億ドルという内訳です。

バーティカルAIは、3つのうち最も小さい。そして、最も伸びが遅い。

汎用のホリゾンタルAIは、84億ドルでバーティカルAIの2.4倍。しかも成長率は5.3倍で、バーティカルAI(約2.9倍)を大きく上回っています。差は、縮まるどころか広がっている。

政府は「2030年に垂直が汎用を追い抜く」と言う。Menloの米国調査で見る限り、2025年時点では、その逆方向に動いています。

もちろん、1年分の成長率から長期の傾向を断定することはできません。米国企業の調査であって、日本の実態とも違う。それでも、この対比は記録しておく価値があると考えます。

では、日本の賭けは間違っているのか

そうは思いません。戦略とは、いまの市場ではなく、これから来る市場に先回りすることだからです。

材料は揃っています。バーティカルAIの中身を見ると、医療が15億ドルで全体の43%を占め、前年の4.5億ドルから3.3倍に伸びています。医師の診察を自動で記録する「アンビエント・スクライブ」だけで6億ドル規模。同調査は、医師が5時間の診療に対して約1時間を記録に費やすという比率を引いており、その時間を半分以下にできるなら、需要が生まれるのは当然です。

法務は6.5億ドル。そして、行政(government)が3.5億ドル。日本の中間とりまとめが、政府調達による初期需要の創出を想定した、まさにその領域です。

Bessemerが言うように、バーティカルAIが本当に人件費予算という10倍の財布を開けるなら、いまの35億ドルは、始まりに過ぎないのかもしれません。

数字を見るときに、確認すべきこと

ただ、これは「まだ観測されていない未来」への賭けです。私が書きたいのは、そこです。

「2030年に3兆円」も「世界33兆円」も、市場の見通しであって、実績ではありません。政府の1兆円という現在値も、算定の内訳が十分に公開されていない。Menloの35億ドルも、米国企業に限った推計であり、集計の範囲は狭い。

どの数字も、何を数えたかによって、まったく違う顔を見せます。

だから、数字を見るときは、必ず「誰が、いつ、どこで、何を数えたのか」を確認する。それだけは、お伝えしておきたいと思いました。

政府の見立てが過大だとは、私は言いません。判断する材料を持っていないからです。ただ、Menloの米国調査で見る限り、日本は現時点で最大でも最速でもない領域に、国家として賭けた。その事実は、正確に記録されるべきだと考えます。

日本には、すでに勝者がいる

政府が「これから育てる」と言っているこの市場。実は、すでに到達している日本企業が存在します。

LegalOn Technologies(法務)。2017年、森・濱田松本法律事務所出身の弁護士2人が創業。AI契約審査プラットフォーム「LegalForce」から始まり、2025年7月からは「LegalOn: World Leading Legal AI」としてグローバル統一ブランドで展開しています。2025年10月、ARR(年間経常収益)100億円を突破しました。同社調べで、日本発のAIカンパニーとしては初、創業プロダクトの提供開始から6年半という到達速度は日本のSaaS企業として最速だといいます。同社およびグループ各社が提供する有償のProfessional AIサービスは、2026年3月末時点でグローバル8,500社超に導入されています。累計調達額は約286億円。2025年7月にはOpenAIとの戦略的連携も発表しました。

LayerX(バックオフィス)2026年1月末時点で、全社ARR100億円を達成。ただしこれは、バクラク以外の事業も含む全社の数字であり、バーティカルAI事業単独のARRではありません。「バクラク」シリーズは2万社を超える企業に導入されています。前述の「AI-BPO」を含め、AIエージェント事業が成長を牽引したと同社は説明しています。

CADDi(製造)。2017年創業。累計エクイティ調達額は257.3億円(2025年3月時点)。同時に、金融機関4行から51億円の長期デットファイナンスも実施しました。日本法人は東京、米国法人はシカゴを拠点とします。創業者はマッキンゼー出身の加藤勇志郎氏と、Apple出身の小橋昭文氏。主力の「CADDi Drawer」は、図面をAIで解析し、形状・寸法・材質から過去の類似図面を検索できるようにします。

米国の機械メーカーnVeniaは、約75万枚の図面をCADDiに預けました。無作為に抽出した3,000点を解析したところ、センサーを支持する直角ブラケットに、穴の位置がわずかに違うだけの、ほぼ同一の設計が3種類見つかったといいます。同社の担当者は、これを部品の統合と再利用の明確な機会だと述べています。なお同社は、防衛・航空宇宙向けにITAR(米国の武器輸出規制)に対応したプランも開始しています。

Ubieが示した「心理的負担27.2%軽減」という指標

Ubie(医療)は、2017年に医師の阿部吉倫氏とエンジニアの久保恒太氏が創業しました。

「ユビー生成AI」は、2024年の提供開始から1年半で、大学病院10施設以上を含む全国100病院超に導入されました。2026年1月時点で月間10万セッションを突破。そして——ここが重要なのですが——テンプレート機能には、現場が作った8,000件を超えるシステムプロンプトが登録されています。使う人が、自分たちで使い方を発明している。

導入効果は、病院名を明示した事例としてUbieが公表しています。九州大学病院では、DPCコーディング支援により年間6,500万円以上の収益改善見込み。恵寿総合病院では、退院時看護サマリの作成時間を42.5%削減し、看護師の心理的負担を27.2%軽減。南部徳洲会病院では、月約4,000件の業務に音声要約を活用し、月約200時間を創出しました。いずれも個別施設での結果であり、そのまま一般化できるものではありません。

「心理的負担27.2%軽減」。この数字を、私はしばらく見つめていました。効率化でも生産性でもない指標が、ここにあります。

政策と現場は、すでにつながり始めている

あまり注目されていない動きを、ひとつ紹介します。

2026年4月3日、IPA内に事務局を置くAISI(AIセーフティ・インスティテュート)が、「ヘルスケア領域におけるAIセーフティ評価観点ガイド」を公表しました。Ubieはヘルスケア分科会(SWG)の参加組織として、この策定に参画しています。

7月10日の中間とりまとめは、医療領域について「AISIにおいて安全性確保の検討を進める」と書いています。ガイドは、その3か月前にすでに公表されていました。そして分科会の活動自体は、2025年から動いています。

政策と現場は、大きく報じられないところで、静かにつながり始めています。

「暗黙知」という賭け

政府はなぜ、この道を選んだのか。中間とりまとめは、こう主張します。バーティカルAIは、暗黙知を含めた現場のデータが豊富な日本と、相性がいい。

汎用モデルの開発競争では、投資規模でも計算資源でも米中に及ばない——政府はそう認識しています。しかし現場に蓄積された知恵という資産なら、日本にはある。その資産を武器に、別の戦場で戦う。

Ubieの阿部吉倫共同代表は、日本経済新聞のインタビューで、海外の生成AI大手との競争について、医療現場の困りごとを吸い上げて開発している点が自社の優位性だと語っています。

汎用モデルの性能では勝てなくても、「その現場を知っている」ことは、模倣が難しい。専門データ、業務への統合、顧客との関係が参入障壁になる——これはBessemerの競争分析とも重なります。そして中間とりまとめは、日本の強みである「現場力」をAIで再現するための戦略である、と明記しました。

ただし、これは実証された優位性ではなく、政府の戦略仮説です。私はそう受け止めています。

暗黙知が「豊富にある」ことと、それが「データになる」ことの間には、深い溝があります。

熟練工が「なんとなくわかる」と言うとき、その判断は言語化されていません。ベテラン看護師が患者の異変を察するとき、その根拠はカルテに残りません。

もちろん、言語化されていないからといって、永久にデータにならないわけではありません。作業を映像で記録する。センサーで動きを測る。聞き取りで引き出す。手はあります。ただし、そのどれもが、手間と時間とコストを要します。

製造業では、同じ工程でも工場ごとに呼び方が違う。医療では、記録の粒度が施設ごとに異なる。建設では、そもそも紙の図面が残っている。

「日本には暗黙知がある」から「だから勝てる」までの距離は、思っているよりずっと遠い。その距離を埋める作業について、政府は2030年を目標年として施策を進めます。

あなたの職場は、いつのまにか「外」を流れている

最後に、この記事を読んでいるあなたの職場の話をさせてください。

Menlo Venturesの調査に、もうひとつ目を引く数字があります。2025年、企業のAIユースケースの76%が、内製ではなく「購入」されていました。2024年は購入が53%、内製が47%と、ほぼ拮抗していたのですが、わずか1年で購入に大きく傾いたことになります。

かつては「自社のデータと業務知識があれば、AIくらい内製できる」と考えられていました。実際、ブルームバーグは金融特化のモデルを、ウォルマートは小売特化のモデルを、自前で開発しています。

でも、多くの企業では、内製より購入が選ばれるようになりました。できあいのAIのほうが、速く本番に届き、すぐ効く。だから買う。

ということは——あなたの職場の業務が、外部のベンダーが管理するシステムを経由するケースが増えている、ということです。

カルテを書く。図面を検索する。契約書をレビューする。その一つひとつが、社内だけで完結しなくなっていく。

もちろん、購入がただちに「データを差し出す」ことを意味するわけではありません。専用環境で動かす。学習には使わせない。そもそもデータを保持させない。契約と構成の選び方で、守れるものは守れます。

ただし、それは「選んだ場合」の話です。データの扱いを確認せずに導入すれば、必要な保護水準を満たせないおそれがあります。

そして政府も、この構造そのものにリスクを見ています。海外サービスへの依存が、データの流出とデジタル赤字の拡大を招きうる——中間とりまとめは、その懸念をはっきり書き込みました。その背景と数字については、7月10日の決定を報じた記事で詳しく扱っています。

何を渡し、何を渡さないか

バーティカルAIは、ここで二つの顔を持ちます。

ひとつは、現場の負担を軽くする道具としての顔。恵寿総合病院では、記録の時間が42.5%減り、看護師の心理的負担が27.2%軽くなったと報告されています。同院で報告された、具体的な効果です。

もうひとつは、判断の過程が、少しずつソフトウェア化されていくという顔。ベテランが積み上げた「なんとなくわかる」が、システムやデータ基盤の側に取り込まれていく

この2つは、同じ現象の表と裏です。どちらか一方だけを見ることは、できません。

だから私は、「AIを入れるべきか」ではなく、「何を渡し、何を渡さないか」が、これからの実務的な問いになると思っています。

その問いに答えるための材料は、いま揃い始めたところです。

【参考動画】

記事をNotebookLMで動画にしました

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【編集部後記】

この記事を書きながら、ずっと引っかかっていた数字があります。恵寿総合病院で、看護サマリの作成時間が42.5%減り、看護師の心理的負担が27.2%軽減した、という報告です。

効率化でも生産性でもない。「負担が軽くなった」という指標が、そこにありました。

バーティカルAIの話は、どうしても市場規模や投資額の話になりがちです。実際この記事も、数字の話をずいぶんしました。でも本当に測るべきものは、もしかしたらこちら側にあるのかもしれません。

みなさんの職場で、AIに引き受けてほしい仕事はありますか。逆に、絶対に手放したくない仕事は。よければ、聞かせてください。


【用語解説】

バーティカルAI(領域特化型AI)
データ、AIモデル、アプリケーションを垂直統合した、特定領域向けのAIシステム。人工知能戦略本部の資料は「専門性を有し、現場で使えるAI」と表現する。医療なら医療、法務なら法務と対象を絞り込み、その領域の業務フローや専門用語、規制に深く適合させる点に特徴がある。米国のベンチャーキャピタルであるBessemer Venture Partnersが概念の体系化と普及に大きく寄与し、日本政府はこれを国家戦略の柱に据えた。

ホリゾンタルAI(汎用AI)
業界や職種を問わず、広く使われるAI。ChatGPT Enterprise、Claude for Work、Microsoft Copilotなどが該当する。Menlo Venturesの調査では、2025年の米国企業における生成AIアプリケーション支出のうち、最大かつ最も伸びの速いカテゴリだった。

部門特化型AI(Departmental AI)
業界ではなく、職種・部門に特化したAI。コーディング支援、営業支援、カスタマーサポートなどが該当する。バーティカルAI(業界別)とホリゾンタルAI(全社横断)の中間に位置する。

バーティカルSaaS
特定の業界に特化したクラウド型ソフトウェア。美容室向け予約システム、建設現場向け工程管理、飲食店向けPOSなどが該当する。バーティカルAIの前史にあたる。

システム・オブ・レコード/システム・オブ・ワーク
Bessemer Venture Partnersが用いる対比。前者は情報を記録・保存するためのシステムを指し、従来のSaaSが主に担ってきた役割である。後者は業務そのものを引き受けるシステムを指す。LLMの登場によって、ソフトウェアが記録から実務へと役割を広げつつあるという主張である。

伴走型(Copilot)
人間の隣で作業を支援するAIの型。人間が判断の中心にいて、AIは補佐に徹する。人間の確認を残すため、比較的導入しやすい。なお「Copilot」はMicrosoftの製品名としても使われるが、ここではBessemer Venture Partnersが用いる類型名を指す。

AIエージェント
人間の介在を抑えながら、特定の業務フローを自律的に処理するAIの型。課金モデルも、ユーザー数課金から成果課金へ移行する例が現れ始めている。ただしMenlo Venturesの基準では、企業導入のうち真にエージェントと呼べる構成は16%にとどまる。

AI-BPO
AIと専門オペレーターが協働して、業務そのものを代行するサービス形態。LayerXが2026年2月に開始した「バクラク承認代行」で用いられている呼称。ソフトウェアを売るのではなく、業務の結果を納品する点で、従来のSaaSと異なる。人間が工程に残る点で、完全自動化とは異なる。

ARR(Annual Recurring Revenue/年間経常収益)
サブスクリプション型ビジネスで、毎年継続的に得られる収益を示す指標。コンサルティング費用などの一時的な売上は含まない。会計基準上の統一科目ではなく、計算方法は各社で異なりうる。

アンビエント・スクライブ
診察中の会話を自動で記録・要約し、診療録の作成を支援するAI。Menlo Venturesによれば、2025年の米国市場は6億ドル規模に達した。医師が5時間の診療に対して約1時間を記録作業に費やすという比率が、導入の動機として挙げられている。

フィジカルAI
現実世界を認識し、機械や装置を通じて物理的なタスクを実行するAI。ロボットに限らず、各種の機械を含む。政府はバーティカルAIの現場活用がデータを蓄積し、それがフィジカルAIの開発につながると想定しており、「フィジカルAIに先行して市場が発現する」としている。

暗黙知
言語化・文書化されていない、経験に基づく知識や判断のこと。熟練工の勘、ベテラン看護師の察知能力などが該当する。政府はこれを日本の強みと位置づける。映像記録、センサー計測、聞き取りなどでデータ化できる場合もあるが、いずれも手間とコストを要する。

データ精製
現場に散在する未整理のデータを、AIが学習・活用できる形に整える作業。フォーマットの統一、用語の標準化、粒度の揃え込みなどを含む。中間とりまとめが多くの領域で共通の課題として挙げている。

DPCコーディング
入院医療費の包括支払い制度(DPC制度)において、患者の診断名や処置内容を規定のコードに変換する業務。適切なコードの選択が、診療報酬の請求内容に影響する。Ubieの「ユビーDPCサポーター」はこの業務を支援し、九州大学病院では年間6,500万円以上の収益改善見込みが示された。

AISI(AIセーフティ・インスティテュート)
AIの安全性に関する評価手法の検討などを担う枠組み。2024年2月、独立行政法人情報処理推進機構(IPA)内に事務局が設置され、関係機関が連携して運営されている。2026年4月3日、「ヘルスケア領域におけるAIセーフティ評価観点ガイド」を公表した。

ITAR(国際武器取引規則)
米国が定める、防衛関連の技術やデータの輸出を管理する規則。対象となる情報の取り扱いには厳格な要件が課される。CADDiは航空宇宙・防衛分野の製造業者向けに、この規制に対応したプランを提供している。

【参考リンク】

バーティカルAI領域別戦略 中間とりまとめ(内閣府 資料2-2)(外部)
19領域の現状と2030年に向けた施策を記した本体資料。定義と「現場力」の記述はここにある。

バーティカルAI領域別戦略 中間とりまとめ 概要(内閣府 資料2-1)(外部)
19領域を市場性・公共性・戦略性の3観点で整理した概要版。各領域の要点が1枚にまとまる。

内閣府「人工知能戦略本部 開催状況」(外部)
第5回会合の議事次第と全配付資料を掲載。第2期AI基本計画案の本体もここから辿れる。

主要な製品・技術等の官民投資ロードマップ素案(内閣官房)(外部)
「2030年に垂直が汎用を上回る」という政府予測と、市場規模推計の出典。33兆円の根拠もここにある。

内閣官房「日本成長戦略」(外部)
戦略17分野と官民投資ロードマップを所管。2030年に内外で5兆円という政策目標もここに示される。

Bessemer Venture Partners「The future of AI is vertical」(外部)
バーティカルAIという概念を体系化した4部作の第1部。2023年を市場の転換点と位置づける。

Bessemer Venture Partners「Building Vertical AI」(外部)
「IT予算ではなく人件費予算を取りに行く」という投資仮説の原典。米国GDP13%の概算もここにある。

Menlo Ventures「2025: The State of Generative AI in the Enterprise」(外部)
米国企業の意思決定者495人への調査。企業のAI支出が3カテゴリにどう分かれるかを示す。

AISI(AIセーフティ・インスティテュート)(外部)
IPA内に事務局を置く枠組み。ヘルスケア領域のAI安全性評価ガイドを公表している。

LegalOn Technologies(外部)
AI契約審査から始まり、法務特化型のAIエージェントを展開。2025年10月にARR100億円を突破した。

LayerX(外部)
「バクラク」を展開。2026年1月末に全社ARR100億円を達成し、AI-BPOという新形態にも踏み出した。

Ubie(外部)
医療特化のAIを提供。「ユビー生成AI」は全国100病院超に導入され、AISIの取り組みにも参画する。

CADDi(外部)
製造業向けのAIデータプラットフォーム。図面という「読めなかったデータ」を検索可能な資産に変える。

【参考記事】

2025: The State of Generative AI in the Enterprise(報告書本体PDF)(外部)
米国企業の意思決定者495人への調査と公開情報を組み合わせた推計。アプリケーション層190億ドルが、ホリゾンタルAI84億ドル、部門特化型AI73億ドル、バーティカルAI35億ドルに分かれることを示す。調査サンプルが米国企業に限定される旨も、方法論に明記されている。

キャディ、総額40億円のエクイティ資金調達と、51億円の長期デットファイナンスを実施(外部)
Atomicoをリード投資家とするシリーズCエクステンションにより、累計エクイティ調達額が257.3億円に到達したことを公表。2030年までにARR1000億円規模を目指すとしている。

「ユビー生成AI」、大学病院10施設以上を含む全国100病院へ導入(Ubie)(外部)
2026年1月時点で100病院超、月間10万セッション、テンプレート機能に8,000件超のシステムプロンプトが登録されていることを示す。恵寿総合病院の42.5%削減・27.2%軽減という測定値も記載。いずれも個別施設での結果である。

ヘルスケア領域におけるAIセーフティ評価観点ガイド(AISI/IPA)(外部)
医療分野におけるAIの安全性評価の観点を整理したガイド。ヘルスケア分科会の参加組織によって策定され、Ubieもその一員として参画した。

AISI事業実証WG上期報告会を開催(IPA、2025年10月3日)(外部)
ヘルスケアSWGを含む各分科会の参加組織と活動状況を示す。2026年4月のガイド公表に先立ち、検討が2025年から進んでいたことが確認できる。

Enterprise privacy at OpenAI(外部)
企業向けAI利用における、学習への不使用、データ保持の制御、暗号化、アクセス制御といった保護の枠組みを示す。「購入=データを差し出す」ではないという本記事の記述は、こうした実務に基づく。

LayerX、ARR100億円を達成——AIエージェント事業が成長を牽引(外部)
2026年1月末時点で全社ARR100億円に到達したことを公表した公式発表。非上場企業の自社発表であり、独立監査を経た数字ではない点には留意が必要だ。

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山本 達也
『デジタルの窓口』代表。名前の通り、テクノロジーに関するあらゆる相談の”最初の窓口”になることが私の役割です。未来技術がもたらす「期待」と、情報セキュリティという「不安」の両方に寄り添い、誰もが安心して新しい一歩を踏み出せるような道しるべを発信します。 ブロックチェーンやスペーステクノロジーといったワクワクする未来の話から、サイバー攻撃から身を守る実践的な知識まで、幅広くカバー。ハイブリッド異業種交流会『クロストーク』のファウンダーとしての顔も持つ。未来を語り合う場を創っていきたいです。