ファッションブランドのPradaが宇宙服をつくる――2024年にそのニュースが世界を驚かせてから約1年半。あのとき公開されたのは過酷な月面環境から飛行士を守る「外側」でした。そして今回、Axiom SpaceとPradaが新たに披露したのは、飛行士の肌に最も近い「内側」です。冷水を巡らせて体の熱を逃がし、呼吸まで支えるこの一着は、人類が再び月に降り立つその瞬間、飛行士の命を静かに守り続けます。
2026年6月7日、Axiom SpaceとPradaはニューヨーク市で、AxEMU宇宙服の内部に着用する液冷・換気ガーメント(LCVG)を公開した。LCVGはAxEMUのインナーレイヤーとして設計され、最長8時間の船外活動の間、冷却と換気を維持する。Pradaのエンジニアード・ニッティングと先進的な3Dモデリング技術を用いて開発され、特殊繊維により長期間のミッションで繰り返し着用できる。
身体の主要な筋肉群に沿ったチューブに冷水を循環させて代謝熱を吸収し、ポータブル生命維持システムへ運ぶ。完全に冗長化された冷却回路を備える。NASAのArtemis IVミッションで使用される。2024年には両社がAxEMUのアウターレイヤーを公開していた。Axiom SpaceのCEOジョナサン・サーテイン博士、Prada GroupのCMOロレンツォ・ベルテッリ、Axiom SpaceのSVPラッセル・ラルストンがコメントを発表した。
From:
Axiom Space, Prada Unveil Inner Layer of Next-Gen Lunar Spacesuit

【編集部解説】
まず押さえておきたいのは、今回公開されたLCVG(液冷・換気ガーメント)が、宇宙服という「システム」のどの部分にあたるのかという点です。一般に月面用の宇宙服は何層もの構造を持ち、外側は真空・極端な温度差・微小隕石から身体を守る役割を担います。これに対しLCVGは肌に最も近い「内側の機能服」であり、宇宙服の中で人体と機械が直接触れ合う界面(インターフェース)にあたります。
なぜここにファッションブランドが関わるのか。違和感を覚える方もいるかもしれませんが、Pradaが持つのは「見た目のデザイン」ではなく、編み構造そのものを設計するエンジニアード・ニッティングと素材の知見です。体に密着し、長時間着ても快適で、かつ繰り返し使える布をつくる技術は、ハイファッションと航空宇宙工学が意外にも重なる領域なのです。
技術的に注目すべきは「完全に冗長化された冷却回路」です。開発元によれば、新しいガーメントは最長8時間の船外活動を想定しており、信頼性を高めるために完全に冗長化された冷却ループを備えています。冷却が止まれば飛行士は熱中症に陥りかねません。主系統が壊れても予備系統が引き継ぐという設計は、人命に直結する「止まらない仕組み」への配慮です。
このニュースが持つもう一つの意味は、宇宙開発の担い手の変化です。Reutersは、Pradaが宇宙産業に足場を築く最初の大手ラグジュアリープレイヤーであり、ヒューストンに拠点を置く宇宙インフラ開発企業Axiom Spaceと協業していると報じています。かつて国家機関だけが担っていた宇宙服開発に、商業企業と異業種ブランドが組み込まれている。これは産業構造の転換を象徴する出来事です。
スケジュール面では補足が必要です。プレスリリースは「Artemis IVで月へ帰還する」と記しています。ただし、2024年に公開された外層宇宙服はもともとArtemis IIIの月面着陸向けとして発表されたものでした。背景には2026年のNASAの計画変更があります。NASAは2026年2月にArtemis IIIの内容を改訂し、有人月面着陸は2028年予定のArtemis IVで行うことになりました。つまり当初の想定からミッションの割り当てが組み替えられた上で、LCVGの実戦投入は2028年を見据えた開発となっているのです。
潜在的なリスクも冷静に見ておきましょう。2026年のNASA監察総監室の報告は、着陸船(HLS)の開発に懸念を示し、2028年の月面着陸に間に合わないリスクを指摘しています。宇宙服が完成しても、月へ運ぶ手段が整わなければ計画全体が遅れます。技術の一部だけを見て楽観するのは禁物だということです。
長期的に見れば、この協業は「異業種の知恵をどう宇宙に持ち込むか」という問いへの一つの答えです。地球上の成熟産業が培ってきた素材・繊維・製造の技術が、人類の活動圏を広げる場面で再評価される。innovaTopiaがこのニュースを今取り上げる理由も、まさにそこにあります。宇宙は一部の専門家だけの領域ではなく、私たちが日常的に触れている技術の延長線上にあるのだと、改めて示しているのです。
【用語解説】
LCVG(液冷・換気ガーメント/Liquid Cooling and Ventilation Garment)
宇宙服の内側に着用する機能服。体に密着したチューブに冷水を循環させて代謝熱を運び去り、同時に酸素を送って二酸化炭素を洗い流す。今回公開された製品にあたる。
AxEMU(Axiom Extravehicular Mobility Unit)
Axiom SpaceがNASA向けに開発する次世代月面宇宙服。LCVGはこのAxEMUのインナーレイヤーとして組み込まれる。船外活動(EVA)用の与圧服一式を指す。
エンジニアード・ニッティング
編み目の構造そのものを目的に応じて設計する技術。Pradaが持つ知見の一つで、伸縮性や通気性、チューブの配置などを布の構造段階から作り込むことを可能にする。
冗長化(リダンダンシー)
主系統が故障しても予備系統が機能を引き継げるよう、同じ役割の仕組みを二重に備える設計思想。LCVGの冷却回路は完全に冗長化されている。
ポータブル生命維持システム
宇宙服に取り付けられ、酸素供給・二酸化炭素除去・熱の排出などを担う装置。LCVGが集めた熱は最終的にこのシステムを経て宇宙空間へ放出される。
Artemis(アルテミス)計画
NASAが主導する有人月探査計画。当初Artemis IIIで月面着陸を予定していたが、2026年の計画変更により、有人月面着陸はArtemis IVへと移された。
マイクロメテオロイド(微小隕石)
宇宙空間を高速で飛び交う微小な粒子。宇宙服の外層はこれらの衝突から飛行士を守る必要がある。
【参考リンク】
Axiom Space(公式サイト)(外部)
ヒューストンに拠点を置く有人宇宙探査企業。商業宇宙ステーションや月面用宇宙服AxEMUを開発する。
Axiom Space — The Suit(AxEMU紹介ページ)(外部)
AxEMU宇宙服の仕様や特徴を紹介する公式ページ。宇宙服システム全体の解説が掲載されている。
Prada(公式サイト)(外部)
1913年創業のイタリアのラグジュアリーブランド。素材と編み構造の知見を活かし、Axiom Spaceと協業する。
Prada Group(グループ公式サイト)(外部)
Miu Miuなどを擁するラグジュアリー製品グループ。2025年にVersace買収で合意し傘下に収めた。宇宙服外層公開も発表。
NASA — Artemis(公式サイト)(外部)
NASAの有人月探査計画Artemisの公式ページ。ミッションスケジュールや目的、関連技術の情報が確認できる。
【参考動画】
【参考記事】
NASA to wear Prada as luxury group pushes into space industry(Reuters)(外部)
Pradaが宇宙産業に足場を築く最初の大手ラグジュアリープレイヤーであること、NYでの発表内容を伝えるReutersの報道。
What Comes Next for Artemis?(CSIS)(外部)
Artemis IIIの内容改訂と有人月面着陸のArtemis IVへの移行、着陸船開発リスクを分析した記事。
Prada and Axiom Space Unveil the Spacesuit Design(Prada Group公式)(外部)
2024年公開の外層宇宙服がArtemis IIIの有人月面着陸向けだったことを明記するPrada Group公式発表。
Artemis Lander Program Faces Schedule Delays and Unmitigated Crew Safety Risks(NASA OIG)(外部)
着陸船(HLS)のスケジュール遅延と乗員安全リスクを指摘したNASA監察総監室の報告。
Prada and Axiom Space Unveil New Spacesuit Layer for Artemis IV Mission(Zamin.uz)(外部)
最長8時間の船外活動対応や完全冗長化された冷却ループなど、LCVGの技術面を簡潔にまとめた記事。
【関連記事】
Axiom SpaceとPrada、NASA月面探査用の次世代宇宙服AxEMUを発表 – 2026年Artemis IIIミッションに向けて
今回のLCVG公開の前段にあたる、2024年のAxEMU外層公開を報じた記事。同じ協業の経緯を理解できる。
SpaceX、Artemis III月面着陸契約を失う可能性 -NASAが他社に契約開放へ
着陸船開発の遅れと2028年目標への懸念を扱う記事。本記事のリスク分析の背景となる。
NASAの新型宇宙服開発、民間企業の撤退で揺れる未来の宇宙探査計画
xEVASプログラムと宇宙服開発の商業化競争を扱う記事。宇宙服開発の文脈を補完する。
【編集部後記】
ファッションブランドが宇宙服をつくる——最初は意外に感じた方もいるかもしれません。でも調べてみると、肌に密着する布をどう編むかという技術は、地球の暮らしと月面の探査で地続きだったのですね。思い返せば、innovaTopiaが2024年にお伝えしたのは、この同じ協業が生んだ宇宙服の「外層」でした。
あれから約1年半を経て、今度は飛行士の肌に最も近い「内層」が披露されたわけです。外から内へと一枚ずつ深まっていくこの歩みを追っていると、私たちが日々まとっている服の延長線上に、人類が月へ戻る未来があるのだと、少し見え方が変わってきます。みなさんは「自分の関わる仕事や趣味が、宇宙のどんな場面で生きるだろう」と想像したことはありますか。よかったら、その小さな接点を一緒に探してみませんか。












