University of Birmingham のジョヴァンニ・バロンティーニ教授が、時計を使わずに時間の流れを測定する手法を2026年6月12日に Physical Review Research で発表した。
教授は絶対零度より数十億分の1度高い温度の極低温ルビジウム原子2万4000個からなる雲を用い、密閉した量子系をつくった。周波数の異なる2本のレーザービームによる障壁で、系を観測される「ブライト」領域と観測されない「ダーク」領域に分割した。
ブライトセクターは膨張と収縮を繰り返した。原子の広がり(エントロピー)の変化から時間を定義でき、その分布が変化しないとき時間は止まった。教授はこれを「エントロピー的時間」と名づけた。
エントロピー的時間を用いてシュレーディンガー方程式の一種を書き下せることも示した。この系は量子宇宙論と重力のテストベッドとなる。
From:
Scientist creates ‘mini‑universe’ to measure time without a clock
【編集部解説】
「時間とは何か」。この問いは物理学の最も古い難問の一つでありながら、いまだ決着がついていません。アインシュタインの相対論で時間は伸び縮みする量になり、量子重力の理論の一部では、そもそも時間という独立した目盛りが宇宙の根底には存在しないと考えられてきました。
その代表が、記事に登場するホイーラー・ドウィット方程式です。この方程式は宇宙全体を一つの量子状態として記述しますが、奇妙なことに、その式の中には「時間」を表す項が現れません。では、外部の時計がない世界で、何が「先」で何が「後」なのかをどう決めるのか。これが「時間の問題(problem of time)」と呼ばれてきた難問です。
バロンティーニ教授の実験が新しいのは、この宇宙論レベルの抽象的な問いを、机の上の装置で再現してみせた点にあります。プレスリリースは「極低温原子」と表現していますが、一次論文によれば、その実体はルビジウム原子のボース=アインシュタイン凝縮体(BEC)です。これを薄い光学ポテンシャル障壁によって「ブライト」と「ダーク」の2領域に分け、両者の間でエントロピー(無秩序さ)をやり取りさせました。その出入りの変化そのものを「時間」とみなす、という発想です。
ここで重要なのは、このエントロピー的時間が「単調(一方向)」だったという結果です。系がビッグバンとビッグクランチに似た膨張・収縮を何度繰り返しても、時間の矢は逆転しませんでした。さらに障壁の高さを調整すると、エントロピーが流れる速さ、つまり時間の進む速さまで制御できたと報告されています。
何ができるようになるのか。最大の意義は、これまで紙の上でしか論じられなかった量子宇宙論や量子重力の仮説に、実験で触れる「テストベッド(試験台)」が手に入ったことです。極低温原子を扱う制御された実験室環境で、初期宇宙やブラックホールに関わる数理構造をアナログ的に模擬し、競合する理論の優劣を比べられる可能性が開けます。
一方で、過度な期待は禁物です。これはあくまでアナログ模型であり、本物の宇宙の時間が解明されたわけではありません。模型がどこまで現実を忠実に写しているか(アナロジーの妥当性)は、これから検証されるべき論点です。「時間の謎が解けた」と読むのは早計だと、編集部は考えます。
規制という観点では、これは純粋な基礎研究であり、当面、直接の法規制が問われる性質のものではありません。ただし、極低温原子を精密に操る技術は、次世代の量子センサーや原子時計と地続きです。同じ手法が測位や安全保障に関わる技術へ波及する場合には、研究の透明性や国際的な共有のあり方が、将来的な論点になりうると考えられます。
長期的に見れば、この研究は「時間は与えられた前提ではなく、関係性から立ち現れる」という見方に、実験という足場を与えました。私たち がテクノロジーを人類史の文脈で捉えようとするとき、時間そのものを問い直すこの試みは、未来の物理学が立つ地面を少しだけ動かした一歩として記憶されるはずです。
【用語解説】
エントロピー
系の無秩序さ、あるいは状態の散らばり具合を表す量。本研究では原子の分布の広がりとして定義され、その増減が時間の指標とされた。
エントロピー的時間(entropic time)
外部の時計ではなく、系内部のエントロピーの変化から定義される時間。一方向に流れ、出来事を順序づけ、エントロピーの動き方しだいで速さが変わる、とされる。
ビッグバン/ビッグクランチ
宇宙が膨張を始めた起源がビッグバン、膨張がやがて反転して収縮に転じる仮説的な終末がビッグクランチ。実験の「ブライト」領域がこれに似た膨張・収縮を繰り返した。
シュレーディンガー方程式
量子力学の中心となる方程式で、量子系の状態が時間とともにどう変化するかを記述する。本研究は、これをエントロピー的時間で書き直せることを示した。
テストベッド
理論や技術を実際に試すための実験的な土台・試験環境のこと。
アナログ(類似)モデル
本物の対象を直接扱う代わりに、同じ数理構造を持つ別の系で模擬する手法。本実験は宇宙そのものではなく、その数理を原子系で再現したアナログモデルである。
【参考リンク】
University of Birmingham(バーミンガム大学 公式サイト)(外部)
バロンティーニ教授が所属する英国の研究大学。物理学・天文学部の研究や最新ニュースを掲載している。
Physical Review Research(米国物理学会 公式ジャーナル)(外部)
本研究が掲載された、米国物理学会が発行するオープンアクセスの査読付き学術誌。物理学全分野を扱う。
【参考記事】
24,000-atom mini universe demonstrates time flow without a clock(Interesting Engineering)(外部)
2万4000個の極低温原子を使った実験を解説。分布の変化が止まると時間も止まる点を平易に伝える。
Testing the problem of time with cold atoms(arXiv: 2509.07745)(外部)
一次情報のプレプリント。障壁調整で時間の速さを制御でき、エントロピー的時間が単調だったと記す。
Scientist Builds Mini-Universe to Track Time sans Clock(Mirage News)(外部)
大学プレスリリースを配信した記事。エントロピー的時間の3性質などを引用形式で紹介している。
Atomic Bose-Einstein Condensate Models Universe’s ‘Big Bang’ With Entropy Exchange(Quantum Zeitgeist)(外部)
実験が卓上版ホイーラー・ドウィット宇宙のアナログである点を強調する解説記事。
【関連記事】
量子情報の「忘却」がエネルギーとエントロピーに変換される過程を観測
量子系が情報を失う際のエネルギー・エントロピー交換を初観測。「エントロピー」を軸に時間を論じた本記事と最も近い一本。
ダークエネルギー調査で判明:宇宙膨張は70億年で終了、200億年後にビッグクランチ
実宇宙のビッグクランチ予測を扱う記事。本記事の膨張・収縮アナログと同じ「宇宙の終末」概念でつながる。
sPHENIX検出器が標準テストに成功、ビッグバン直後の物質状態解明へ前進
加速器で初期宇宙を再現する研究。「実験室で宇宙を模擬する」という本記事の発想と響き合う。
MIT、量子と古典物理学を繋ぐ「橋」を構築 — シュレーディンガー方程式を最小作用で厳密解
シュレーディンガー方程式に新たな扱いを与えた研究。本記事のエントロピー的時間による書き換えと対比できる。
【編集部後記】
私たちは毎日、時計を見て暮らしています。でも今回の研究は、その時計がなくても「変化そのもの」から時間が生まれうることを示しました。ふと立ち止まって考えてみたくなりませんか。
あなたにとっての「時間が進んだ感覚」は、何が変わったときに訪れるでしょうか。退屈な時間が長く、夢中な時間が短く感じるのも、案外この話と地続きなのかもしれません。物理の最前線と私たちの日常がつながる瞬間を、一緒に味わえたら嬉しいです。












