AIの時代に哲学者の仕事が増える理由|ライス大学・パリ国際会議から考える

AIが創造し、診断し、推論する時代に、「人間にとって何が大切か」を問う専門家の出番が広がっています。哲学と工学が対等に組む研究体制は、技術の方向を決める仕事として本格化しつつあります。その意味を、日本の動向もふまえて考えます。


ライス大学は、「AIの時代における人間の繁栄(Human Flourishing in the Age of AI)」と題した国際会議を、2026年6月3〜5日にフランス・パリのライス・グローバル・パリセンターで開催された。哲学・工学・公共政策・芸術の各分野から研究者が集まり、AIが人間の生活・主体性・創造性をどのように変えうるかを検討した。

会議はライス大学ジョージ・R・ブラウン工学・計算科学部と哲学科の共同事業で、ベーカー公共政策研究所が支援。共同オーガナイザーは哲学科主任のロバート・ハウエル、コンピューターサイエンス助教のロドリゴ・フェレイラ、ポスドク研究員のスティーブン・グブカの3名。ニューヨーク大学、カリフォルニア大学バークレー校などからも参加者が集った。

パネルではAIと創造性、設計者・機関の倫理的責任、規制上の問いが取り上げられた。会議はまた、ライス大学工学部と人文学部の連携構想の出発点になった。

From: 文献リンクRice to host international conference in Paris on ‘Human Flourishing in the Age of AI’

【編集部解説】

「何を作るか」から「何のために作るか」へ

AIが音楽を作り、コードを書き、診断を下す時代に、問いの重心が変わりつつあります。「どう作るか」という工学的な問いに加えて、「何のために作るか」「その結果、人間は何を失い、何を得るのか」という問いが、研究の最前線に浮上してきました。

ライス大学が今回パリで開く国際会議「AIの時代における人間の繁栄」は、まさにその問いを中心に据えています。注目すべきは構成です。工学・計算科学部と哲学科が共同でオーガナイズし、公共政策研究所も加わる。ハウエル教授(哲学)とフェレイラ助教(計算科学+哲学兼任)が並んで名を連ねる体制は、「倫理を後から追加する」モデルではなく、「設計の問いと価値の問いを同時に扱う」という姿勢を示しています。

哲学者の仕事が変わっている

哲学者や人文研究者がテクノロジー開発の現場に関わる動きは、ここ数年で急速に広がっています。その文脈でよく参照されるのがELSI(Ethical, Legal and Social Issues)という枠組みです。もともとは1990年に始まったヒトゲノム計画に際して、研究予算の一部を倫理・法・社会的課題の検討に充てることが義務づけられたことに始まり、現在はAI・データサイエンスの領域でも広く使われています。

日本でも、大阪大学が2020年に「社会技術共創研究センター(ELSIセンター)」を設置し、神戸大学では2023年に全学横断の「生命・自然科学ELSI研究プロジェクト」が発足しました。北海道大学は人文社会科学・脳科学・AIが交差する大学院教育センター(CHAIN)を運営し、文理融合型の研究者育成を進めています。企業との連携も始まっており、京都大学の哲学研究者がNTTと共同で研究所を立ち上げるといった動きも出てきました。

国際的には、オックスフォード大学のAI倫理研究所が哲学部を中心に運営されており、2025年10月にはマドリードでAI・倫理・社会に関する国際学会(AIES)が欧州大陸で初めて開催され、哲学・法学・計算科学・社会科学の研究者275チームが集まりました。

「しもべ」化というリスク

ただし、この流れには注意すべき側面もあります。大阪大学ELSIセンターは、「ELSIfication」という造語を紹介しながら、人文研究者が大型科学技術プログラムに組み込まれることで批判的な姿勢を失うリスクを明示的に指摘しています。特定の技術を正当化するための「しもべ」となってしまっては、学問としての誠実さを損なう、という問題提起です。

哲学者の出番が増えることと、哲学者が本来の役割を果たせることは、同じではありません。「技術の方向を決める」という仕事に人文知が加わるためには、批判的視点を保ちながら工学側と対等に議論できる関係性が必要です。今回のライス大学の会議が、工学と哲学を対等なオーガナイザーとして設計していることは、その意味でひとつの形を示しています。

問いを立てる専門家

「人間の繁栄(Human Flourishing)」はアリストテレスの倫理学に由来する概念で、快楽や効率ではなく「自分の能力を実現し、人間として充実した人生を送ること」を意味します。AIが「知的作業」を代替し始めた今、この概念が2500年を経て技術政策の議論に戻ってきていることは、興味深い事態です。

技術が何をできるかは、工学が答えます。しかし、技術が何をすべきか、人間が何を手放してよくて何を手放すべきでないか、そうした問いに答えるためには、問いを立てること自体を専門とする人たちが必要です。哲学者や人文研究者の仕事は、これからそうした場所に広がっていく可能性があります。ただし、その役割が形式的な「お墨付き」に終わらないためには、批判的独立性が保たれているかどうかが問われ続けることになるでしょう。

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【参考記事】

Human Flourishing in the Age of AI|Rice University Philosophy(外部)
今回の国際会議の公式ページ。プログラム詳細・登壇者情報を掲載。

ELSIとは|大阪大学 社会技術共創研究センター(外部)
ELSIの概念・歴史・課題(ELSIficationのリスクを含む)を包括的に解説した公式ページ。

新たな科学技術が社会に受容されるには?神戸大学のELSI研究|神戸大学ニュースサイト(外部)
2023年設立の神戸大学ELSI研究プロジェクトについて、リーダーの茶谷直人教授(古代ギリシア哲学・生命倫理学)へのインタビュー。哲学者がELSI研究をリードする具体例として参照。

北海道大学 人間知×脳×AI研究教育センター(CHAIN)(外部)
人文社会科学・脳科学・AIが交差する大学院教育センター。文理融合型の研究者育成プログラムを運営している。

IE University hosts Global AI Ethics & Society Conference 2025|IE University(外部)
2025年10月にマドリードで開催されたAAI/ACM AI倫理・社会に関する国際学会(第8回AIES)のレポート。哲学・法・計算科学の研究者275チームが参加。

【参考リンク】

Human Flourishing in the Age of AI|Rice University Department of Philosophy(外部)
今回の国際会議「Human Flourishing in the Age of AI」の公式ページ。会議の趣旨・登壇者・プログラムの詳細が掲載されている。

大阪大学 社会技術共創研究センター(ELSIセンター)(外部)
2020年設立。AIを含む新規科学技術のELSI研究の国内拠点。哲学・法学・社会学など人文社会科学系の研究者が中心となり、研究と人材育成の両面で活動している。

Oxford Institute for Ethics in AI(外部)
オックスフォード大学哲学部を中心に運営するAI倫理研究所。AI倫理・ガバナンスの研究拠点として国際的に知られる。

【用語解説】

Human Flourishing(人間の繁栄・人間的繁栄)
アリストテレスの倫理学における「エウダイモニア(eudaimonia)」に由来する概念。快楽や利便性とは異なり、人間としての能力を十全に発揮し、意味のある生を実現することを指す。現代のAI倫理・政策論議では、技術の目標を「効率の最大化」ではなく「人間の繁栄の支援」に置くべきだという文脈で使われることが増えている。

ELSI(エルシー)
Ethical, Legal and Social Issuesの略。新規科学技術が社会に与える倫理的・法的・社会的課題を指す。1990年に始まったヒトゲノム計画に際し、研究予算の一部をこれらの課題の検討に充てることが義務づけられたことに始まる。現在はAI・データサイエンス領域でも広く使われており、日本でも大学・企業での取り組みが広がっている。

ベーカー公共政策研究所(Baker Institute for Public Policy)
ライス大学に設置された超党派の公共政策研究機関。エネルギー・健康・外交政策などの分野で広く知られており

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野村貴之
大学院を修了してからも細々と研究をさせていただいております。理学が専攻ですが、哲学や西洋美術が好きです。日本量子コンピューティング協会にて量子エンジニア認定試験の解説記事の執筆とかしています。寄稿や出版のお問い合わせはinnovaTopiaのお問い合わせフォームからお願いします(大歓迎です)。