フロリダ州立大学、量子通信テストベッド構築へ|強磁場・乱流・極低温で「実験室の外」を検証

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量子通信は、光の量子的な性質を使って情報を送り、守る技術です。その研究成果の多くは、温度も振動も厳密に管理された実験室の中で生まれてきました。しかし現実の環境では、屋外の大気の揺らぎや、設置場所によっては強い磁場、極低温の装置が冷却と昇温を繰り返すことによる負荷など、実験室にはない条件が加わります。繊細な量子の状態は、そうした環境でどこまで保たれるのでしょうか。この「実験室の外」の問いを確かめるための試験基盤が、米国の大学キャンパスに整備されようとしています。量子ネットワークの実用化に向けて避けて通れない工程が、具体的な形をとり始めています。


米国時間9月28日に明らかになったのは、フロリダ州立大学(FSU)がキャンパス規模の量子通信テストベッドを構築する計画だ。資金は米国立標準技術研究所(NIST)を通じた連邦のCommunity Project Fundingによる210万ドルで、フロリダ州第11選挙区選出のダニエル・ウェブスター下院議員の支援で確保された。学内の学際研究・商業化棟(IRCB)に中央ハブを置き、FAMU-FSU College of Engineeringと米国立強磁場研究所(MagLab)に置く受信ノードとの間を、キャンパスの光ファイバーで結ぶ。もつれ光子を生成・配信してリンクの信頼性などを監視するほか、再構成可能な光リンクを用い、強い大気乱流、強磁場、極低温での熱サイクルの下で機器と光リンクの性能を検証する。

From: 文献リンクFederal funding supports FSU quantum communication testbed for real-world conditions

【編集部解説】

210万ドルという数字をどう読むか

今回の資金は210万ドルです。日本円に換算すると数億円規模で、量子分野の大型投資として報じられる金額と比べれば、決して大きな額ではありません。

資金の性格にも目を向けておく必要があります。Community Project Fundingは、議員が地元の事業を指定して付ける予算で、いわゆるイヤマークです。複数年ではなく単年の助成として扱われ、米国の2022会計年度に復活した仕組みです。

同じ2026会計年度には、ロチェスター工科大学とロチェスター大学が共同で進める量子通信の実験インフラ「RoQNet」にも、NIST経由で200万ドルが配分されています。今回の案件は、突出した一件というよりも、議会予算を通じて各地で同規模の量子通信テストベッドが立ち上がりつつある動きの一部として読むこともできます。ただし、確認できたのはこの2件で、全体像を示すものではありません。

なぜ「実験室の外」を試すのか

元記事が指摘するとおり、量子通信の大きな課題は、管理された実験室でのデモを、実環境で安定して動くシステムへ移すことにあります。

量子技術が置かれた環境にどれほど左右されるかは、量子コンピューターの分野ですでに具体的なデータが出ています。超伝導量子ビットでは、GoogleのSycamoreプロセッサで大規模な相関エラーが観測され、宇宙線などの電離放射線が原因と考えられてきました。その後、MITなどのチームは宇宙線検出器と量子ビットを同期して監視し、その実験で観測された相関エラーのうち約17%が宇宙線由来であることを直接測定しています。同チームは、宇宙線は遮蔽が難しいため、量子ビットそのものの放射線耐性を高める必要があると結論づけています。

ただし、これは超伝導量子ビットの話であり、光子を使う今回の通信テストベッドにそのまま当てはまるわけではありません。共通しているのは、量子技術の性能が「どこに置かれるか」に強く左右されるという点です。今回のテストベッドが、強い大気乱流、強磁場、極低温での熱サイクルを試験条件に掲げ、再構成可能な光リンクで環境ストレスを意図的に加えられるようにしているのは、この環境依存性を研究の主題として正面から扱う設計だと読めます。

ビッグサイエンスの土台に接続する

基礎科学の大きな成果は、しばしば大型設備への先行投資から生まれてきました。日本で建設中のハイパーカミオカンデ計画は、文部科学省の2024年の進捗評価で、J-PARC加速器の増強を含む建設費総額が約722億円(うち検出器本体は約649億円、日本負担分は計約545億円)と見込まれ、資材費の高騰などでさらに増える見通しとされています。こうした規模の投資は、単年のイヤマークで賄えるものではありません。

今回のテストベッドで注目したいのは、受信ノードの一つが米国立強磁場研究所(MagLab)に置かれる点です。MagLabは全米科学財団(NSF)から5年間で1億9,550万ドルの支援を受け、フロリダ州からも毎年財政支援を受けています。1990年代初頭の設立以来、2022年時点で54か国から3万500人を超える研究者を受け入れてきた施設です。

210万ドルのテストベッドは、この巨大な設備とキャンパスの光ファイバーという既存の基盤の上に乗る形で成り立っています。強磁場下での量子通信機器の挙動を、新たに大型磁石を建造することなく検証できる環境だと考えられます。

既存設備への接続は、強磁場に限りません。FAMU-FSU College of Engineeringによると、フロリダ州の研究拠点であるFlorida Center for Advanced Aero-Propulsion(FCAAP)の風洞施設が、乱流のある大気条件で量子通信機器を試験できるよう改修されつつあります。今回掲げられた3つの試験条件のうち、強磁場と大気乱流の少なくとも2つは、もともと別の目的で整備された大型設備を足場にしていることになります。

さらに、その手前には大学と州による先行投資があります。FSUは2023年に量子科学・工学へ2,000万ドルを超える初期投資を表明しました。今回のハブが置かれるIRCBも、州議会の支援を受けて整備された約1億2,500万ドル規模の研究施設で、量子科学を含む分野の研究者が集まる拠点です。国の大型施設、州の研究拠点、大学と州の投資という層が先に積み上がっていたからこそ、210万ドルという比較的小さな資金で、実環境試験という次の段階に踏み出せたと見ることができます。

ここから見えてくるのは、ビッグサイエンスへの投資が、その設備単体の成果だけでなく、数十年後に別分野の比較的小さな実験を可能にする「地盤」としても機能しうるということです。最初の大規模投資は回収の見通しが立ちにくく、それだけに踏み出すのが難しい。しかし一度築かれた基盤は、量子通信のように当初は想定されていなかった研究にも開かれていきます。

日本の試験基盤との比較

日本でも、大阪大学の量子情報・量子生命研究センター(QIQB)が2018年に先導的学際研究機構の研究部門として発足し、量子コンピューティングや量子通信・セキュリティを含む6つの研究グループを擁しています。2025年7月には、主要な部品やソフトウェアをすべて日本製とした超伝導量子コンピューターを稼働させました。大学が研究基盤を担い、そこに産業界や政府の資金が接続していく構図は、日米で共通しています。

量子通信の試験基盤についても、日本には長い蓄積があります。情報通信研究機構(NICT)は2010年から東京圏で量子鍵配送(QKD)ネットワークのテストベッド「東京QKDネットワーク」を構築・運用し、長期運用試験や装置の相互接続試験などを続けてきました。2025年3月には、NICT、理化学研究所、QIQBなどが、このネットワーク上に構築された量子セキュアクラウドと国産量子コンピューターを接続する実証を発表しています。

ただし、強磁場や大気乱流のような過酷な物理条件を意図的に再現することを目的とした基盤かどうかは、今回確認した資料からは読み取れませんでした。FSUの試みに固有の点があるとすれば、長期運用の実績よりも、環境ストレスそのものを研究対象に据えた設計にあると考えられます。

残された問い

一つ目は継続性です。FSUは2026年7月に米エネルギー省(DOE)のGenesis Missionで4件の主要プロジェクトの主導機関に選ばれており、資金源を複線化しようとしている様子はうかがえます。

二つ目は「米国南東部初」という位置づけです。これはウェブスター議員の発言によるもので、今回の調査では独立に確認できていません。

三つ目は、量子技術が語られる枠組みです。ウェブスター議員は中国を念頭に国家安全保障を強調し、日経BPも量子コンピューターや量子暗号通信が安全保障と直結し、日本も量子を「国家戦略技術」に指定していると指摘しています。一方で、ハイパーカミオカンデのようなビッグサイエンスは、日本負担分が別に示されていることからも分かるように、海外の参加国と費用を分け合う国際計画として進められています。量子技術が国家間競争の言葉で語られるほど、巨大な基盤を国境を越えて分かち合う道は狭まるのか。それとも、分野ごとに異なる形の協調が生まれるのか。この問いへの答えは、まだ見えていません。

【用語解説】

量子もつれ(Quantum Entanglement)
複数の粒子が、離れていても互いの状態が強く相関する量子特有の関係。もつれた光子の対を離れた地点に配り、その相関を通信や暗号鍵の共有に用いるのが量子通信の基本的な考え方。

テストベッド(Testbed)
新しい技術や機器を、実運用に近い条件で試験・評価するための実験環境。今回の事例では、キャンパス内の拠点を光ファイバーで結んだ試験用ネットワークを指す。

Community Project Funding(イヤマーク/Earmark)
米連邦議会の議員が、地元の特定事業を指定して付ける予算。複数年ではなく単年の助成で、2022会計年度に復活した仕組み。

相関エラー(Correlated Errors)
複数の量子ビットで同時にまとまって発生するエラー。一般的な量子誤り訂正は、エラーが量子ビットごとに独立して起きることを前提とするため、相関エラーは訂正を難しくする要因となる。

【参考リンク】

FSU Quantum Initiative(フロリダ州立大学)(外部)
FSUが2023年に立ち上げた量子科学・工学の学内横断組織。研究方針や参加方法を掲載。

FAMU-FSU College of Engineering 量子研究イニシアチブ(外部)
受信ノードを担う工学部の量子研究ページ。極限環境での機器評価や風洞の転用を紹介。

National MagLab:磁場利用の申請(Requesting Magnet Time)(外部)
米国立強磁場研究所の強磁場装置を、審査を経て研究者が無償で利用するための申請案内。

National MagLab バーチャルツアー(外部)
タラハシー本部を360度画像でたどれるオンラインツアー。45テスラ級の磁石も見学できる。

NIST 量子ネットワーク研究(Network Function)(外部)
NISTの量子ネットワーク試験基盤「PQNI」の研究内容。ネットワーク管理や機器評価を紹介。

大阪大学 量子情報・量子生命研究センター(QIQB)(外部)
量子コンピューティングから量子通信・セキュリティまで、6つの研究グループを擁する大学拠点。

NICT 東京QKDネットワーク(NICT SEEDs)(外部)
2010年構築の量子暗号通信テストベッドの紹介。機能の体験やユースケースの実証に利用可能。

文部科学省 大規模学術フロンティア促進事業「進捗評価」(2024年8月)(外部)
ハイパーカミオカンデ計画の進捗と所要経費を評価した審議会資料。大型研究設備の規模感がわかる。

【参考記事】

NSF to sustain the world’s most powerful magnet lab through 2027 — NSF(外部)
NSFがMagLabに5年間で1億9,550万ドルを投じると発表。基礎研究基盤としての役割を説明。

Synchronous Detection of Cosmic Rays and Correlated Errors in Superconducting Qubit Arrays — arXiv(外部)
MITなどが宇宙線検出器と超伝導量子ビットを同期監視し、相関エラーへの寄与を測定した論文。

Cosmic-ray-induced correlated errors in superconducting qubit array — arXiv(外部)
中国の研究チームが、希釈冷凍機内のミューオン検出器で宇宙線起因の相関エラーを観測した論文。

FY26 Congressionally Directed Spending guide — Van Hollen上院議員事務所(外部)
イヤマークの仕組みと枠ごとの要件をまとめた上院議員事務所の案内資料。単年助成であることを記載。

FY2026 Community Project Funding Awards — Morelle下院議員事務所(外部)
2026会計年度のイヤマーク採択一覧。量子通信インフラ「RoQNet」への200万ドル配分を掲載。

Florida State University Secures $2.1M Federal Grant for Campus-Scale Quantum Communication Testbed — Quantum Computing Report(外部)
今回の件を報じた量子業界専門メディアの記事。量子鍵配送の評価など技術的な記述を含む。

【関連記事】

【編集部後記】

新しい技術のニュースに触れるとき、私たちはつい完成した成果や派手な金額に目を奪われがちです。けれども今回の件は、210万ドルという小さな投資の足元に、すでにそこにあった磁石や風洞、光ファイバーが静かに横たわっていることを教えてくれます。いま建てられる設備が、数十年後にどんな研究の地盤になるのか。それを予測できないまま投資を続けられる社会とは、どのような社会なのでしょうか。量子の未来とあわせて、私たちも考え続けたいと思います。

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野村貴之
大学院を修了してからも細々と研究をさせていただいております。理学が専攻ですが、哲学や西洋美術が好きです。日本量子コンピューティング協会にて量子エンジニア認定試験の解説記事の執筆とかしています。寄稿や出版のお問い合わせはinnovaTopiaのお問い合わせフォームからお願いします(大歓迎です)。

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